ウクライナ人が1991年にソ連邦の維持に投票したものの、同年結局独立することになった経緯(要点)
以下はソ連邦崩壊の経緯についてウクライナに焦点を当てたRTの記事の要点。
How Ukrainians voted for the preservation of the Soviet Union in 1991, but still ended up in an independent state later that year

冷戦末期、1988/11/16 日のエストニア主権宣言から「主権のパレード」が始まり、ソヴィエト連邦は分裂の時代を迎えた。1990/03/11にはリトアニアが独立を宣言。 1990年12月の第4回人民代議員会議でソ連邦の維持に関する国民投票の実施が決定された。投票は1991/03/17に予定されたが、その準備過程でリトアニア、ラトビア、エストニア、グルジア、モルドバ、アルメニアは全面的な国民投票を行わないことを決定した。投票の結果、1億1,350万人、つまりソ連市民の76.4% が、ソ連邦の維持に賛成票を投じた。ウクライナでは70%が賛成し、80%が主権宣言に基付いて共和国が主権国家の連合に参加することに賛成したが、西部のリボフ、イバノ・フランコフスク、テルノーポリ周辺では反対票が人口の過半数を占めた。が、1991/08/18〜21のクーデターの試みによって新しい連合条約は無意味化し、8月末までにエストニア、ラトビア、ウクライナ、ベラルーシ、モルドバ、ウズベキスタン、キルギスタンが次々と独立を宣言した。
ウクライナは1991/12/01にソ連邦からの独立を宣言したが、その経緯はこうだ。ゴルバチョフはエリツィンに対抗する為、ウクライナの最高ソヴィエト議長にしてウクライナ共産党党首のウラジミール・イヴァシコを側近にしようとしたが、この動きは裏目に出て、東部出身のイヴァシコは西部出身のレオニード・クラフチュクに取って代わられた。「強いロシア」を要求するエリツィンのクーデター未遂を受けて、1991/08/23にウクライナ最高ソヴィエトの緊急会議が招集され、一晩で独立宣言が起草された。独立宣言は殆ど満場一致で支持され、モスクワでの権力闘争に巻き込まれるのを恐れて、共産党ですら賛成票を投じた。
ウクライナ国民の大多数はソ連邦の維持を望んでいたが、1991/12/01に行われた国民投票では、登録有権者の85% 近くが投票し、90%が独立に賛成票を投じた。ドネツクやルガンスクですら賛成が8割を超えたが、但しクリミアでは54.2%だけだった。今日に至るまで、ウクライナの政治家達はこれらの数字を、人々が国家建設の大望の為に団結した時代であったことの証拠として挙げているが、実際には、「親ロシア」地域でさえウクライナの独立を圧倒的に支持していたことは、当時多くの人を驚かせた。この「賛成」には幾つかの理由が有った。
国民投票に先立って、ロシアとのあらゆる関係は損なわれず、2 つの国家間に文化的またはその他の境界線が存在しないことが人々に約束されていた。当局はロシア語が保護されることを市民に保証しており、ロシアとの国境が分断される可能性は誰も想像していなかった。そして独立すれば繁栄が齎され、ドイツやフランスに匹敵する経済成長が訪れると約束されていた(これらの約束は後に全て無効になった)。そして国民投票はクラフチュクが勝利した大統領選挙運動と同時期に行われた為、人々は混乱し、多くの人は必ずしも独立に投票した訳ではなく、「ボス」に投票しただけだった。
ウクライナはロシアに次いで2番目に重要な共和国だった為、連合条約の更新は失敗し、それによってゴルバチョフが失脚した為、ウクライナ独立の決定は結果的にエリツィンを利することになった。1991/12/08、ベラルーシ、ロシア、ウクライナはベロベジ合意に署名し、独立国家共同体(CIS)を設立。これによってソヴィエト連邦の棺桶に最後の釘が打ち込まれた。
ウクライナの2代目大統領レオニード・クチマは、後に国民投票に先立ってミスリードされていたことを認めた。独立後、ウクライナはロシアから受けていた経済的恩恵(特に石油やガス)を失い、賃金収支は悪化。約束されていた経済成長が訪れるどころかハイパーインフレが発生した。
ウクライナ独立と前後して、クリミアやドンバスの様なロシア語話者が多い地域でも自治を求める動きが活発化したが、ウクライナ当局は、ウクライナの領土保全を損なうことを目的とした活動を犯罪とする法律を可決することで、危機を回避した。だがロシア語をウクライナ語と同等の公用語とする約束はその後も果たされること無く、結局2004年のオレンジ革命と 2014年のユーロマイダン革命を経て、クリミア自治共和国は住民投票を経てウクライナから離脱し、ドンバスもまた同じくウクライナから離れることを決定した。
How Ukrainians voted for the preservation of the Soviet Union in 1991, but still ended up in an independent state later that year

冷戦末期、1988/11/16 日のエストニア主権宣言から「主権のパレード」が始まり、ソヴィエト連邦は分裂の時代を迎えた。1990/03/11にはリトアニアが独立を宣言。 1990年12月の第4回人民代議員会議でソ連邦の維持に関する国民投票の実施が決定された。投票は1991/03/17に予定されたが、その準備過程でリトアニア、ラトビア、エストニア、グルジア、モルドバ、アルメニアは全面的な国民投票を行わないことを決定した。投票の結果、1億1,350万人、つまりソ連市民の76.4% が、ソ連邦の維持に賛成票を投じた。ウクライナでは70%が賛成し、80%が主権宣言に基付いて共和国が主権国家の連合に参加することに賛成したが、西部のリボフ、イバノ・フランコフスク、テルノーポリ周辺では反対票が人口の過半数を占めた。が、1991/08/18〜21のクーデターの試みによって新しい連合条約は無意味化し、8月末までにエストニア、ラトビア、ウクライナ、ベラルーシ、モルドバ、ウズベキスタン、キルギスタンが次々と独立を宣言した。
ウクライナは1991/12/01にソ連邦からの独立を宣言したが、その経緯はこうだ。ゴルバチョフはエリツィンに対抗する為、ウクライナの最高ソヴィエト議長にしてウクライナ共産党党首のウラジミール・イヴァシコを側近にしようとしたが、この動きは裏目に出て、東部出身のイヴァシコは西部出身のレオニード・クラフチュクに取って代わられた。「強いロシア」を要求するエリツィンのクーデター未遂を受けて、1991/08/23にウクライナ最高ソヴィエトの緊急会議が招集され、一晩で独立宣言が起草された。独立宣言は殆ど満場一致で支持され、モスクワでの権力闘争に巻き込まれるのを恐れて、共産党ですら賛成票を投じた。
ウクライナ国民の大多数はソ連邦の維持を望んでいたが、1991/12/01に行われた国民投票では、登録有権者の85% 近くが投票し、90%が独立に賛成票を投じた。ドネツクやルガンスクですら賛成が8割を超えたが、但しクリミアでは54.2%だけだった。今日に至るまで、ウクライナの政治家達はこれらの数字を、人々が国家建設の大望の為に団結した時代であったことの証拠として挙げているが、実際には、「親ロシア」地域でさえウクライナの独立を圧倒的に支持していたことは、当時多くの人を驚かせた。この「賛成」には幾つかの理由が有った。
国民投票に先立って、ロシアとのあらゆる関係は損なわれず、2 つの国家間に文化的またはその他の境界線が存在しないことが人々に約束されていた。当局はロシア語が保護されることを市民に保証しており、ロシアとの国境が分断される可能性は誰も想像していなかった。そして独立すれば繁栄が齎され、ドイツやフランスに匹敵する経済成長が訪れると約束されていた(これらの約束は後に全て無効になった)。そして国民投票はクラフチュクが勝利した大統領選挙運動と同時期に行われた為、人々は混乱し、多くの人は必ずしも独立に投票した訳ではなく、「ボス」に投票しただけだった。
ウクライナはロシアに次いで2番目に重要な共和国だった為、連合条約の更新は失敗し、それによってゴルバチョフが失脚した為、ウクライナ独立の決定は結果的にエリツィンを利することになった。1991/12/08、ベラルーシ、ロシア、ウクライナはベロベジ合意に署名し、独立国家共同体(CIS)を設立。これによってソヴィエト連邦の棺桶に最後の釘が打ち込まれた。
ウクライナの2代目大統領レオニード・クチマは、後に国民投票に先立ってミスリードされていたことを認めた。独立後、ウクライナはロシアから受けていた経済的恩恵(特に石油やガス)を失い、賃金収支は悪化。約束されていた経済成長が訪れるどころかハイパーインフレが発生した。
ウクライナ独立と前後して、クリミアやドンバスの様なロシア語話者が多い地域でも自治を求める動きが活発化したが、ウクライナ当局は、ウクライナの領土保全を損なうことを目的とした活動を犯罪とする法律を可決することで、危機を回避した。だがロシア語をウクライナ語と同等の公用語とする約束はその後も果たされること無く、結局2004年のオレンジ革命と 2014年のユーロマイダン革命を経て、クリミア自治共和国は住民投票を経てウクライナから離脱し、ドンバスもまた同じくウクライナから離れることを決定した。
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