スレブレニツァの虐殺の真相
RTのドキュメンタリー。「スレブレニツァのジェノサイド」は、セルビア人に対するNATOの爆撃を正当化する為に、殆ど捏造と言えるまでに歪曲された物語だったが、実際にはセルビア人は、西洋の諜報部が支援するイスラム過激派による民族浄化の犠牲者だった。CIA界隈は今だにこの嘘を熱心に繰り返している。
Bosnia and Herzegovina: Rise of the Caliphate
How jihadists exploited the collapse of Yugoslavia
★スレブレニツァの虐殺の犠牲者数が大幅に水増しされた件に関する記事の要点。
スレブレニツァの「数字ゲーム」に関する更なる証拠(要点)
2020年8月からの西側の政治工作員アレクセイ・ナワリヌイの実に馬鹿馬鹿しいドタバタ毒殺未遂狂言に於て、特別仕立ての救急車を用意してロシアからドイツのシャリテ大学病院までわざわざ彼を移送した資金源不明の謎の映画団体「シネマ・フォー・ピース」は「ジェノサイド・フィルム・ライブラリー」なるものを作って、スレブレニツァの虐殺を含む「ボスニア・ヘルツェゴビナと1992年から1995年の紛争」の資料ライブラリーにしようとしている。CIAは映画を使ったこの種の情報操作プロパガンダが大好きだし、シャリテはCIAとMI6から情報提供を受けたと報じられているので、これも恐らくCIAのプロパガンダ作戦のひとつなのではないかと思う。

Genocide Film Library
2005/06/01、スロボダン・ミロシェヴィッチ(11年後に無罪判が出る)の公判中、ジェフリー・ナイス検察官はオブラッド・ステバノビッチ証人に対して、スロボダン・メディッチと云うセルビア内務省の役人を知っているかと尋ね、承認は否定した。すると検察官はメディッチが現れたトルノヴォ(スレブレニツァから約160km離れた場所)で撮影されたと言われる処刑動画を上映した。証人は自分には関係の無い動画だと否定して抗議し、裁判官すら当惑して検察官を非難した。メディアは立証されていない検察側の主張を確立された事実として扱い、「これはセルビア内務省の職員がスレブレニツァ出身のボスニアのイスラム教徒達6人を処刑している光景だ」と主張した。スレブレニツァの虐殺では検察側は8,000人が殺害されたと(主に「推定」に基付いて)主張しているが、8,000人の大量殺戮を隠蔽する為に、たった6人の囚人をわざわざ160kmも離れた地域にトラック輸送して処刑するなど、意味不明にも程が有る。当時NATOの偵察機がセルビア軍の動向を鵜の目鷹の目で監視していたので、大規模なトラック群が移動していれば発見していた筈だが、その様な報告は何もされていない。
因みにジャレド・イスラエル氏は、検察側が虐殺の埋葬場所をスレブレニツァからトレスカヴィツァ地域に移そうとしたのは、1995年の4〜7月にトレスカヴィツァとその周辺で、主にイスラム教徒から成る多数の戦闘員が殺害されたと云う報告が有るが、戦場を片付ける為に時には共同墓地に死者を埋葬するのが標準的な慣習だからだと推測している。検察側はスレブレニツァで8,000人が殺害されたと主張していたが、それまで物的証拠となる遺体はスレブレニツァからは発見されていなかった。「実はトレスカヴィツァに埋められていたのだ」と云うことにすれば、必要な遺体が見付かるかも知れないと云う訳だ。

Trnovo Execution Video: Another Low Point in the Conduct of The Hague Tribunal for Yugoslavia (ICTY)
これが問題の動画(視聴制限有)。
Srebrenica Executions - Trnovo
1991年のボスニア・ヘルツェゴビナの国勢調査では、スレブレニツァには人口の1/4に当たる8,315人のセルビア人が住んでいた。だが1992年から1995年6月まで西側が支援するイスラム過激派によるセルビア人に対する民族浄化が続いた結果、1995年7月にセルビア軍がスレブレニツァを奪還した時、セルビア人は一人も残ってはいなかった。推計では約1,000人が殺害され、残りは周辺のセルビア人支配地域に追放されたと見られている。西側はセルビア人側の一時的な報復を誇張することによってこれを「セルビア人『による民族浄化』」と云う真逆の物語に作り変えた訳だ。

Srebrenica: A Genocide Narrative that Is Running Out of Steam
1995年7月に発生したスレブレニツァの虐殺は、それ以前にセルビア人に対して執拗な民族浄化が行われていたと云う文脈を全く無視して「セルビア人によるイスラム教徒達の民族浄化」として西側によって喧伝された事件だが、これが「発見」されたのは何故か2年も経った1997年のサラエボでの国際会議の席上だった。しかも8,000人が殺害されたと云う法医学的証拠は事件から四半世紀経っても提出されず、大部分は検察側の「推定」に基付いた数字だった。出土検死報告書には集団墓地からは約1,920体の遺体が発見されたと書かれているが、、処刑と一致する損傷のパターンを示していたのは約半数のみで、残りは紛れも無い戦闘による外傷を示している(これはセルビア軍と交戦したと云う既知の事実と合致している)。ハーグのICMP(失踪者に関する国際委員会)はまだ新しく信頼性の低い技術だったDNAによる証拠を提示したが、これは死因や死亡方法を無視したこじつけめいた強引な結論であったことが判明しており、これを実行した人選も偏ったものだった。ICTY(旧ユーゴスラヴィア国際戦犯法廷)はスレブレニツァの虐殺の約2週間後にゼパで3人が殺害された事件も、彼等が地域の重要人物であり彼等抜きでは5,000人の住人の生活が成り立たない、と云う奇妙な理由で、これも「ジェノサイド」と認定した。ICTYも後継のICC(国際刑事裁判所)も、この様に「人道問題」を増幅することで帝国主義勢力の非人道的な「人道的介入」を正当化する機能を果たしている。

“Srebrenica Genocide” Narrative Bites the Dust
Bosnia and Herzegovina: Rise of the Caliphate
How jihadists exploited the collapse of Yugoslavia
★スレブレニツァの虐殺の犠牲者数が大幅に水増しされた件に関する記事の要点。
スレブレニツァの「数字ゲーム」に関する更なる証拠(要点)
2020年8月からの西側の政治工作員アレクセイ・ナワリヌイの実に馬鹿馬鹿しいドタバタ毒殺未遂狂言に於て、特別仕立ての救急車を用意してロシアからドイツのシャリテ大学病院までわざわざ彼を移送した資金源不明の謎の映画団体「シネマ・フォー・ピース」は「ジェノサイド・フィルム・ライブラリー」なるものを作って、スレブレニツァの虐殺を含む「ボスニア・ヘルツェゴビナと1992年から1995年の紛争」の資料ライブラリーにしようとしている。CIAは映画を使ったこの種の情報操作プロパガンダが大好きだし、シャリテはCIAとMI6から情報提供を受けたと報じられているので、これも恐らくCIAのプロパガンダ作戦のひとつなのではないかと思う。

Genocide Film Library
2005/06/01、スロボダン・ミロシェヴィッチ(11年後に無罪判が出る)の公判中、ジェフリー・ナイス検察官はオブラッド・ステバノビッチ証人に対して、スロボダン・メディッチと云うセルビア内務省の役人を知っているかと尋ね、承認は否定した。すると検察官はメディッチが現れたトルノヴォ(スレブレニツァから約160km離れた場所)で撮影されたと言われる処刑動画を上映した。証人は自分には関係の無い動画だと否定して抗議し、裁判官すら当惑して検察官を非難した。メディアは立証されていない検察側の主張を確立された事実として扱い、「これはセルビア内務省の職員がスレブレニツァ出身のボスニアのイスラム教徒達6人を処刑している光景だ」と主張した。スレブレニツァの虐殺では検察側は8,000人が殺害されたと(主に「推定」に基付いて)主張しているが、8,000人の大量殺戮を隠蔽する為に、たった6人の囚人をわざわざ160kmも離れた地域にトラック輸送して処刑するなど、意味不明にも程が有る。当時NATOの偵察機がセルビア軍の動向を鵜の目鷹の目で監視していたので、大規模なトラック群が移動していれば発見していた筈だが、その様な報告は何もされていない。
因みにジャレド・イスラエル氏は、検察側が虐殺の埋葬場所をスレブレニツァからトレスカヴィツァ地域に移そうとしたのは、1995年の4〜7月にトレスカヴィツァとその周辺で、主にイスラム教徒から成る多数の戦闘員が殺害されたと云う報告が有るが、戦場を片付ける為に時には共同墓地に死者を埋葬するのが標準的な慣習だからだと推測している。検察側はスレブレニツァで8,000人が殺害されたと主張していたが、それまで物的証拠となる遺体はスレブレニツァからは発見されていなかった。「実はトレスカヴィツァに埋められていたのだ」と云うことにすれば、必要な遺体が見付かるかも知れないと云う訳だ。

Trnovo Execution Video: Another Low Point in the Conduct of The Hague Tribunal for Yugoslavia (ICTY)
これが問題の動画(視聴制限有)。
Srebrenica Executions - Trnovo
1991年のボスニア・ヘルツェゴビナの国勢調査では、スレブレニツァには人口の1/4に当たる8,315人のセルビア人が住んでいた。だが1992年から1995年6月まで西側が支援するイスラム過激派によるセルビア人に対する民族浄化が続いた結果、1995年7月にセルビア軍がスレブレニツァを奪還した時、セルビア人は一人も残ってはいなかった。推計では約1,000人が殺害され、残りは周辺のセルビア人支配地域に追放されたと見られている。西側はセルビア人側の一時的な報復を誇張することによってこれを「セルビア人『による民族浄化』」と云う真逆の物語に作り変えた訳だ。

Srebrenica: A Genocide Narrative that Is Running Out of Steam
1995年7月に発生したスレブレニツァの虐殺は、それ以前にセルビア人に対して執拗な民族浄化が行われていたと云う文脈を全く無視して「セルビア人によるイスラム教徒達の民族浄化」として西側によって喧伝された事件だが、これが「発見」されたのは何故か2年も経った1997年のサラエボでの国際会議の席上だった。しかも8,000人が殺害されたと云う法医学的証拠は事件から四半世紀経っても提出されず、大部分は検察側の「推定」に基付いた数字だった。出土検死報告書には集団墓地からは約1,920体の遺体が発見されたと書かれているが、、処刑と一致する損傷のパターンを示していたのは約半数のみで、残りは紛れも無い戦闘による外傷を示している(これはセルビア軍と交戦したと云う既知の事実と合致している)。ハーグのICMP(失踪者に関する国際委員会)はまだ新しく信頼性の低い技術だったDNAによる証拠を提示したが、これは死因や死亡方法を無視したこじつけめいた強引な結論であったことが判明しており、これを実行した人選も偏ったものだった。ICTY(旧ユーゴスラヴィア国際戦犯法廷)はスレブレニツァの虐殺の約2週間後にゼパで3人が殺害された事件も、彼等が地域の重要人物であり彼等抜きでは5,000人の住人の生活が成り立たない、と云う奇妙な理由で、これも「ジェノサイド」と認定した。ICTYも後継のICC(国際刑事裁判所)も、この様に「人道問題」を増幅することで帝国主義勢力の非人道的な「人道的介入」を正当化する機能を果たしている。

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