何となく、文体と連帯
2021/09/01(水)の呟きより
ブログなんかの文章は読者に解り易くして注意を惹く為に口語体を多用して色々な工夫を施しているものが多いけれども、例えばそれらの文章を書籍の形式で改めてじっくり読んでみると、私の場合は逆に疲れる。
読者の思考を誘導したり、印象を押し付けようと云う筆者の思惑が行間から透けて見えてしまって、読み続ける内にうんざりしてしまう。読者との一体感を演出する様な文章は、所詮そのノリに乗れなければそれまでなのだ。
だから私は読者との間に一定の距離を置く様な硬い文章の方が寧ろラクに感じる。それはこちらに、自力で感じ思考する余裕を与えてくれる。
私もSNSでは比較的砕けた感じで書いているけれども、最も砕けた調子で1万字も続けてみろと言われると難しい。自分の思考をまとめる上でも、多少硬い文章の方が楽だ。馴れ馴れしい長文は寧ろ相当計算しないと書けない。
多分これは或る程度、日頃の在り方が反映されているのだろうと思う。私は基本的にぼっち野郎なので、人に馴れ馴れしくする仕方を知らない。
「もっとフランクに!」とか言われても、口から言葉が出て来る前に「フランクであるとはどう云うことか」とか考えてしまうタイプの人間にはそれはハードルが高い。
ぼっちは人見知りで警戒感が強い。警戒心を解くには時間が掛かる。だから誰とも知れぬ不特定多数の人間に馴れ馴れしい文体を使うなんて、怖くて出来ない。無防備な自分を曝け出してしまう様で心許無い。或る程度ガードを固めておいた方が安心出来るのだ。
恐らく誰かとリアルで対面したら、高確率で「何てつまらない、打ち解けない奴なんだ」と思われる自信が有る。
同じ様な理由で、私には自分が直接的な抵抗運動や抗議行動等には向かないだろうな、と云う自覚が有る。他人と協力したり連帯しろとか言われても、正直言って途方に暮れてしまう。他人との距離の取り方がよく解らないので、一寸したキッカケで「隣のシンジくん」みたいな状態になってしまう。
私が日々抵抗や連帯について書きたがるのは、自分がそれを上手くやれているからではない、その逆だ、リアルでは自分が全然上手くやれていないから、せめてネット上でこうして踠いている。
偽善的だと言われればそうかも知れない。私のやっているささやかな反逆など、この世の一体何を変えていると云うのだろうか。現に今も目の前に押し寄せる狂気の大波を、私は全く止められないでいる。
或いはルソーが「人類を愛した人間嫌い」だった様に、私は人類の行く末を案じてはいても、目の前の具体的な個々人は見えていないのかも知れない。この不毛な自意識は私の宿痾の様なものだ。
何のかんの言っても、私もまた社会的な闘い方を忘れてしまった(或いは、忘れさせられてしまった)世代の一員だ。どう闘えば勝てるのか、と云う問題以前に、どうしたら闘えるのか、と云うところで躓いてしまっている大勢の一人だ。
闘えるのか?と問われても、さぁどうだろうとしか答えられない。取り敢えず手近で思い付くことを幾つか試してみているだけで、これが闘いなのか?と問われても、別段確信が有る訳ではない。
私は勝利を確信する者ではなく寧ろ最初から敗残者の意識で以てこの闘いと呼ぶのも烏滸がましい闘いを続けている。これでいいのかどうかは判らない。何だか思い付きで迷走しては自滅する、そんな仕様も無いことの繰り返しばかり延々と続けて来た気がする。
子供の頃からこの世界は狂っていると思っていた。だが大人になって勉強すればする程、世界は私が想像していたよりも遙かに酷く狂っていて、今尚更に狂って行こうとしていることが解って来た。
その流れは私一人では絶対に変えられないことは解っている。だが変える為には人と繋がらなくてはならないが、私のやり様は如何にも無様で無力だ。
シャカイとかニンゲンとかって、何処に落ちてるものなの? 何処を探せば私にも手の届く様なのが見付かるの?
私が欲しいのは取り敢えず言い訳だ。この狂気の度を深め行く世界を前にして、私はこの生涯で黙って何もせず指を咥えて呆然と眺めていただけではない、私は無力だったかも知れないが、全く無責任だった訳ではない、と云う、自分に対するせめてもの言い訳が欲しいのだ。
何時か今際の際に「ああ、無駄だったかも知れないが、私はあんなこともやったなぁ」と思い出せる様な、ささやかなアリバイ作りがしたいのだ。
………こんな独白など書いていないで、もっと具体的な世界の嘘を暴いていた方が良いのかも知れない。私にも出来る抵抗と云ったらその位だ。だが先述した様に、これは私のビョーキだ。そしてこれは恐らく或る程度まで、私と同じ時代を生きる人々のビョーキでもある。
この広い世界には居るかも知れない、同じビョーキを抱えた人達にとって、私と云う一事例の状況をこうして書き出して対自化してみることによって、治療や解決法とまでは言わないまでも、何か前進する為のヒントが生まれるかも知れない。
いや何の役にも立たないかも知れない。誰かを怒らせたり呆れさせたりするかも知れない。
或いはそんなことはどうでも良いのかも知れない。
前代未聞のとんでもない危機が日々悪化しつつあるこの状況で、今更「何を為すべきか?」などと云う問いを蒸し返すことに意味が有るのだろうか?―――そんなことは知らない、人生は意味の無いもので一杯だ。あらゆることに意味を求めたがる衝動もまた、過ぎれば一種の狂気だ。
少なくともこれはひとつの証言だ。狂気の時代で正気を保っていたいと願う一人の人間の、迷走と逡巡と躊躇いの告白だ。私は正解を持ち合わせていないし、正しい質問も解らないが、少なくとも解らないことは解っていて、それをこうして誰にも見える形に表すことは出来る。
そして私は来るべき世界が怖い。そのことについて「怖い!」と声を大にして言いたい。この取り留めの無い呟きは、要するにそう云うことなのかも知れない。
おかしいな、最初はこんなこと書く積もりじゃなかったんだけどな。
ブログなんかの文章は読者に解り易くして注意を惹く為に口語体を多用して色々な工夫を施しているものが多いけれども、例えばそれらの文章を書籍の形式で改めてじっくり読んでみると、私の場合は逆に疲れる。
読者の思考を誘導したり、印象を押し付けようと云う筆者の思惑が行間から透けて見えてしまって、読み続ける内にうんざりしてしまう。読者との一体感を演出する様な文章は、所詮そのノリに乗れなければそれまでなのだ。
だから私は読者との間に一定の距離を置く様な硬い文章の方が寧ろラクに感じる。それはこちらに、自力で感じ思考する余裕を与えてくれる。
私もSNSでは比較的砕けた感じで書いているけれども、最も砕けた調子で1万字も続けてみろと言われると難しい。自分の思考をまとめる上でも、多少硬い文章の方が楽だ。馴れ馴れしい長文は寧ろ相当計算しないと書けない。
多分これは或る程度、日頃の在り方が反映されているのだろうと思う。私は基本的にぼっち野郎なので、人に馴れ馴れしくする仕方を知らない。
「もっとフランクに!」とか言われても、口から言葉が出て来る前に「フランクであるとはどう云うことか」とか考えてしまうタイプの人間にはそれはハードルが高い。
ぼっちは人見知りで警戒感が強い。警戒心を解くには時間が掛かる。だから誰とも知れぬ不特定多数の人間に馴れ馴れしい文体を使うなんて、怖くて出来ない。無防備な自分を曝け出してしまう様で心許無い。或る程度ガードを固めておいた方が安心出来るのだ。
恐らく誰かとリアルで対面したら、高確率で「何てつまらない、打ち解けない奴なんだ」と思われる自信が有る。
同じ様な理由で、私には自分が直接的な抵抗運動や抗議行動等には向かないだろうな、と云う自覚が有る。他人と協力したり連帯しろとか言われても、正直言って途方に暮れてしまう。他人との距離の取り方がよく解らないので、一寸したキッカケで「隣のシンジくん」みたいな状態になってしまう。
私が日々抵抗や連帯について書きたがるのは、自分がそれを上手くやれているからではない、その逆だ、リアルでは自分が全然上手くやれていないから、せめてネット上でこうして踠いている。
偽善的だと言われればそうかも知れない。私のやっているささやかな反逆など、この世の一体何を変えていると云うのだろうか。現に今も目の前に押し寄せる狂気の大波を、私は全く止められないでいる。
或いはルソーが「人類を愛した人間嫌い」だった様に、私は人類の行く末を案じてはいても、目の前の具体的な個々人は見えていないのかも知れない。この不毛な自意識は私の宿痾の様なものだ。
何のかんの言っても、私もまた社会的な闘い方を忘れてしまった(或いは、忘れさせられてしまった)世代の一員だ。どう闘えば勝てるのか、と云う問題以前に、どうしたら闘えるのか、と云うところで躓いてしまっている大勢の一人だ。
闘えるのか?と問われても、さぁどうだろうとしか答えられない。取り敢えず手近で思い付くことを幾つか試してみているだけで、これが闘いなのか?と問われても、別段確信が有る訳ではない。
私は勝利を確信する者ではなく寧ろ最初から敗残者の意識で以てこの闘いと呼ぶのも烏滸がましい闘いを続けている。これでいいのかどうかは判らない。何だか思い付きで迷走しては自滅する、そんな仕様も無いことの繰り返しばかり延々と続けて来た気がする。
子供の頃からこの世界は狂っていると思っていた。だが大人になって勉強すればする程、世界は私が想像していたよりも遙かに酷く狂っていて、今尚更に狂って行こうとしていることが解って来た。
その流れは私一人では絶対に変えられないことは解っている。だが変える為には人と繋がらなくてはならないが、私のやり様は如何にも無様で無力だ。
シャカイとかニンゲンとかって、何処に落ちてるものなの? 何処を探せば私にも手の届く様なのが見付かるの?
私が欲しいのは取り敢えず言い訳だ。この狂気の度を深め行く世界を前にして、私はこの生涯で黙って何もせず指を咥えて呆然と眺めていただけではない、私は無力だったかも知れないが、全く無責任だった訳ではない、と云う、自分に対するせめてもの言い訳が欲しいのだ。
何時か今際の際に「ああ、無駄だったかも知れないが、私はあんなこともやったなぁ」と思い出せる様な、ささやかなアリバイ作りがしたいのだ。
………こんな独白など書いていないで、もっと具体的な世界の嘘を暴いていた方が良いのかも知れない。私にも出来る抵抗と云ったらその位だ。だが先述した様に、これは私のビョーキだ。そしてこれは恐らく或る程度まで、私と同じ時代を生きる人々のビョーキでもある。
この広い世界には居るかも知れない、同じビョーキを抱えた人達にとって、私と云う一事例の状況をこうして書き出して対自化してみることによって、治療や解決法とまでは言わないまでも、何か前進する為のヒントが生まれるかも知れない。
いや何の役にも立たないかも知れない。誰かを怒らせたり呆れさせたりするかも知れない。
或いはそんなことはどうでも良いのかも知れない。
前代未聞のとんでもない危機が日々悪化しつつあるこの状況で、今更「何を為すべきか?」などと云う問いを蒸し返すことに意味が有るのだろうか?―――そんなことは知らない、人生は意味の無いもので一杯だ。あらゆることに意味を求めたがる衝動もまた、過ぎれば一種の狂気だ。
少なくともこれはひとつの証言だ。狂気の時代で正気を保っていたいと願う一人の人間の、迷走と逡巡と躊躇いの告白だ。私は正解を持ち合わせていないし、正しい質問も解らないが、少なくとも解らないことは解っていて、それをこうして誰にも見える形に表すことは出来る。
そして私は来るべき世界が怖い。そのことについて「怖い!」と声を大にして言いたい。この取り留めの無い呟きは、要するにそう云うことなのかも知れない。
おかしいな、最初はこんなこと書く積もりじゃなかったんだけどな。
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