fc2ブログ

一部外者から見た鳥山明の変容とその時代

 2024/03/01、漫画家・デザイナーの鳥山明氏が死亡した。68歳だった。このニュースに日本のみならず世界の各地から彼の死を悼む声が上がっていて騒がしいので、私もこの機会に一寸気分を変えて彼に関連する話をしてみたいと思う。

 最初に断っておくと、私は鳥山氏のファンではない。寧ろ苦手としていた方なので、「早過ぎる天才の死を悼む」的な、ファン同士で共感を得る文章を読みたい読者はこの先は読まない方がいいかも知れない(寧ろ不快感すら覚えるかも知れない)。私は単に彼の作品を手掛かりにして、『ドラゴンボール(以下DB)』が大流行した時代の潮流を不完全ながら振り返ってみたいだけなので、その点は最初にお断りしておく。

 私の書棚に彼の本は1冊も無い。私がまともに読んだことが有るのは『Dr.スランプ(以下DS)』だけで、DBも最初の数巻には目を通した記憶が有るが、私の好みには合わないのでそれ以降はほったらかしだった。DBのアニメ版も観ていなかったし、私は全くゲームもやらないしで、それ以降のDBシリーズやゲームデザイン等についての彼の仕事についての私の知識は殆ど全てが間接的なものだ。従って以下の文章は彼の作品に関する正面からの批評などではないので、鳥山作品の熱心な読者から見れば不正確な点や偏った点が見付かるかも知れない。私はアンチではないがファンでもない。社会現象としての鳥山ブームに関心が有るだけだ。これは飽く迄ファンではない一部外者からの視点に過ぎない。

 【これはファンによるファン向けの文章ではありません】。いいですか、警告はしましたぞ。

 彼のデビュー作であり出世作であるDSは宮台真司的な表現を借りれば、広い意味で「終わりなき日常を生きる」タイプの作品だった。基本構造が決して変わらない日常を舞台とした基本的に1話読切形式のこのシリーズものは、所謂思春期の「不安の立像」的な要素は希薄なので、単に児童向けの日常ものと括ることも可能だろうが、オタク的なガジェットに対する嗜好や、内輪受け的な性格の強いギャグ(同時代の『オレたちひょうきん族』的)等は明らかに二次創作に慣れた十代以上のオタク世代の感性の産物であって、連載開始当時の作者もまだ二十代の若者であったことを考えれば、これは広い意味でのオタク文化の範疇に入れて考えても差し支え無いのではないかと思う。
 
 DBはこの読切形式を長編物語形式に直し、個々のエピソードを或る程度独立して楽しむことも出来るものの、基本的には息の長い読者を想定した構成になっている。私はこの作品に限らず、当時のジャンプ作品に特に多かった脳筋系の諸作品が全般的に苦手で、主人公やその仲間が何やら強敵に遭遇して何やかや有って大抵のことは筋肉と根性で何とか乗り越える、と云うパターンの物語は退屈でしかなかったので、私は最初の方しかチェックしていなかったのだが、その後シリーズがいよいよ筋肉志向を強めて行くにつれて、巷の人気は上がって行った様だったが、私は益々関心を失って行った(これは鳥山氏本人とは直接関係無いが、アニメ版DBの主題歌の「頭カラッポの方が夢詰め込める」と云う歌詞を、私は虫唾の走る程嫌っていた。巷には頭もカラッポなら夢も無い大馬鹿野郎共が溢れ返っているからだ。この歌詞を聞くと私は今でも、新入社員に座禅を組ませるブラック企業なんかを連想してしまう)。

 DBに限らず、当時の筋肉系の漫画やアニメは本当に何かに取り憑かれた様に戦いを繰り返していた。敵を倒して、もっと強い敵が現れたら修行するなり何かのアイテムを手に入れるなりしてパワーアップしてまた倒して、更に強い敵が現れたら更にパワーアップしてまた倒して、次の強敵が現れたら………と云う具合に延々「敵」を求めては強くなって、主人公はどんどん常人離れして行って、基本的に筋肉と根性で倒す、と云うパターンの繰り返しは、当時のバブル絶頂期やその後のバブル崩壊機のこの国の狂気を反映している様で、私は寧ろ怖かった。この人達は一体何を求めてこんなに際限無く戦っているのだろう、とよく不思議に思っていたものだ。当時の熱狂的なDBブームは、社会的中毒現象の様に私の目には映っていた。

 後から振り返れば、DSで鳥山氏の描いていたキャラクターやストーリーから推測すれば、こうした砂地獄の様な展開になるのは予想出来たことだったとも言える。基本的に彼はキャラクターの精神的成長を描かない。描けない、と言った方が良いのかも知れない。主人公であるアラレちゃんはロボットであり、そもそも物理的に成長しない。彼女を発明した則巻博士は、鉄腕アトムを産んだ天馬博士の様に、何故ロボットの背が伸びないのか、などと云う不合理な悩みから愛情を失ったりはしない(実の我が子を失った代償として身代わりに作った人工の子供に対して身勝手で不合理な期待を抱き、その子自身にはどう仕様も無いことで勝手に失望して愛情を失うのだから、彼の振舞いは親としては理不尽極まり無いのだが、それ故に人間的な矛盾と苦悩に溢れている)。舞台となるペンギン村でも一応時は流れて、キャラクター同士の関係性が変わったりすることも有るが、基本的に中身は一緒だ。関係性が変わるドラマは時々付け足しの様に散発的に描かれるだけで、決してそれがメインではない。手塚治虫の漫画は短編であってもビルドゥングス・ロマン(教養小説、人格陶冶物語)だが、DSの様なタイプの作品のキャラクターは決してビルドゥングスしたりしない。舞台の変化やフェーズの移行は有るが、キャラクターの目的の有る内発的な成長は起こらない。時間の停止したペンギン村と云う遊具場で延々と傷付かずに戯れ続ける―――それがDSの魅力だ。それが悪いと言っている訳ではない。逆に言えば手塚治虫には終わり無き日常タイプの漫画は描けなかったろうし、それぞれのタイプの作品にはそれぞれの魅力が有る。

 少し抽象的かも知れないので、映画の話で補足してみよう。ダブル伝記『黒澤明と早坂文雄』を書いた西村雄一郎は、最初期に自分の作風を模索していた天才、黒澤明は、もう一人の天才、作曲家の早坂文雄と出会うことでその才能を全面的に開花させる様になったが、早坂が41歳の若さで早世してからは、それまでの黒澤映画のダイナミズムを支えていた彼の中の対立軸が失われてしまったと分析している。

 早坂とコンビを組んでいた頃の黒澤映画の代表的登場人物である、『七人の侍』の菊千代と、早坂亡き後の黒澤映画の代表的登場人物である、『用心棒』と『椿三十郎』の三十郎を比較してみよう。菊千代は初登場シーンから、何かを真剣に探し求めている人物であることが示唆されている。彼は未熟で、その未熟さを痛感している登場人物として描かれている。百姓の出身にしては背が高いし荒削りな自己流の強さは有るものの、観客の関心を集めるのは彼の腕っ節の強さでない、彼が己の未熟さや世の中の儘ならぬことに直面した後、どう生きるかを選択するかだ。他方、三十郎は「不惑の年」に近い、最初から完成した姿で登場しており、これ以上内面的な成長の余地は無い。彼は「どう生きるべきか」などと青臭い問題に頭を悩ませたりはしない。彼が頭を悩ませるのは目の前の具体的な困難をどう乗り越えるかであり、自らの生き様についてではない。観客が関心を持つのは彼の内面の成長ではなく、外部に現れた彼の言動の方だ。棒っ切れを放り投げて適当に行き先を決める彼の態度は、最早最初期の黒澤映画(『姿三十郎』や『わが青春に悔いなし』等)ではもっとギラギラと前面に押し出されていた求道者のそれではない。早坂期に作られた『生きる』に登場する小役人は、死を目前に控えてさえも、自分は残された人生をどう生きるべきなのかに迷い、絶望に駆られて街を彷徨う。だが早坂後の黒澤映画からはこうした模索する姿勢は影を潜め、更に海外進出に失敗して自殺未遂の後にカラー作品に移行する様になると、それまでの力動的な特徴はすっかり後退して、まるで静止した風景画の様な作風に移行して行く。

 これと同じで、DSにはキャラクターの内面的な弁証法的成長を促す対立軸が存在しない。従ってこの同じ作者が長い物語の中でキャラクターの何等かの形での成長を描こうとするならば、内面ではなく外部にその軸を求めざるを得ない。一番手っ取り早いのが「敵」の存在だ。先ず怪獣が登場しなければウルトラマンの出番が無い様に、ヒーローをヒーローとして活躍させる為には、相応しい敵役をあてがってやるのが一番手軽だし、確実だ。単なる「課題」では弱い。ミステリ分野に於て窃盗や詐欺事件より殺人事件の方が謎解きの対象として好まれる様に、より多くの読者を獲得したければ、より過激な対立軸を用意してやった方が目立つし話題性が有る。何より解り易いので、異なる文化圏にも輸出が容易で商業的にも旨みが有る。当時のバブルやその残滓の狂乱の風潮の中では、より強い敵、もっと手強くてそう簡単には倒せない敵を次々持って来るのは、読者を減らさずにストーリーを進める確実な方法としては自然な発想だったのだろう。これは「敵」を必要とするあらゆるシリーズもののパターンとして今では全く珍しいことではなくなってしまったが、当時はここまでシリーズを通して敵のエスカレーションに執着する作品はそれ程多くなかった筈だ。最終回でゼットンやらパンドンやらが出てきて主人公がピンチに陥る展開なんかは定番だが、DBの様にシリーズを通してその強化圧力が持続するシリーズは、鳥山氏についてはDS時代の印象が強かった私の様な非ファンにとってはひたすら異質で異様なものに映った。これらのキャラクター達の成長にはそれ自体としての目的が無い。出て来た「敵」に対応して場当たり的に理由や動機がくっ付けられているだけで、筋肉と根性は成長するかも知れないが、精神的な深みは無い。成長はストーリーを先に進める為の推進力として後付けで添えられたものに過ぎないのだ。

 だが、目的無き無際限の成長に対する恐怖は、恐らくDBに熱狂した多くの青少年達の心の底にも蟠っていた筈であって、でなければバブル崩壊後に『新世紀エヴァンゲリオン』(特にその旧劇場版)があれだけヒットした筈が無い。あれはDBの様な作品が意図的に無視して来た「ココロのスキマ」を埋めるタイプの作品だった。

 恐らくこの展開は、鳥山氏当人にとっても異質なものだったのではないか、と私は推測する。先に述べた様に私は原作のDBは最初の数巻しか読んでいないし、これは巷に溢れ返っていた断片的な情報を基にした判断でしかないのだが、シリーズが進むにつれて、氏の画風は明らかに固くなって行くのは私の様な部外者にもはっきりと判った。それがイイ、あの頃が彼の絶頂期だ、どんどん進化している、などと持て囃す人も多い様だが、キャラクターの表情がもっと柔らかく自由で多様だった時代の鳥山作品を知っている身からすると、キャラクターの表情や質感がどんどん固くなって行き、笑顔が如何にも無理やり作った、判で押した様なものに変わって行く光景を見ると、この人はこんなものを描いていて果たして楽しいのだろうか、と思わずにはいられなかった。単なる加齢による筆の衰え、と解釈することも出来るが、それだけではないだろう。


 DSの頃の絵柄は、思わず子供が真似して描きたくなるような柔らかい線に満ちていた。例えば幼さや可愛らしさ、野放図さを一筆で表した口元の表現などは、よくこんなものを思い付いたなぁと私でも感心する。だがDBのキャラクター達は頭身が高くなるにつれて、こうした定型からの「崩し」がどんどん消え失せて行った。初期のもっと自由奔放な感じが失われて行って、硬直して型に嵌った造形が。




 鳥山氏と同じく集英社の同じくジャンプ系列で2020年から連載中の、伊丹十三的な意味での社会派ドラマ漫画『【推しの子】』では、週刊連載漫画家の自虐的ギャグ発言として、編集者の仕事とは「売れる漫画を作らせる事」と、「売れた漫画を終わらせない事」と云う台詞が出て来る。「こわ………」とか別のキャラクターに繰り返し言わせているので、茶化してはいるが割とマジな発言なのだろう。私は舞台裏の詳しい事情は知らないが、死去の報を受けたファンの間でも、鳥山氏は切りのいいところで連載を終わらせたかったが編集部の圧力によって終わらせて貰えなかった、と云う指摘が上がっているので、この推測は恐らく当たっていると見ても良いだろうと思う(Wiki記事を確認したらやはりそれっぽいことを書いてあった)。DBは無論超大ヒット作なので、編集部はそう簡単には連載終了を許してはくれなかった筈だ。『推しの子』の同じ話では、漫画の週刊連載とは「基本的に人間のやる仕事じゃない」、「脳を週刊用にチューンナップされた兵士がやる仕事」とまで言っているので、10年半に及ぶ連載は、「闘いの漫画を描く気が無くなってしまった」「血圧高めで薄味好きのオジサン」にはさぞかし苦痛だったことだろう。描ける作品と描きたい作品が一致しているのは幸運なことだろうが、そうでない場合はどれだけヒットしていようが関係無いだろう。ファンと云うのは身勝手なもので、勿論理解を寄せてくれる人も多いだろうが(二次創作が広がったお陰か、創作の苦労を知って作者に同情する風潮も強くなった様に思う)、基本的に作者の苦痛など知ったこっちゃ無い。ジャック・ロンドンの半自伝的小説『マーティン・イーデン』の主人公なぞは、自分の作品が自分の望んだ時に売れずに後からヒットしたことに虚しさを覚えて命を絶ってしまう。売れることはいいことばかりではないのだ。



 またこれは原作漫画ではなくアニメ版をかなり断片的に観た感想になってしまうのだが、作者本人の意に反して続けられたであろうDBの不幸に関してもう一点指摘しておくべきは、その反アクション性だ。人間に与えられた肉体の束縛から逃れたいと云うのは古来からの人類の夢だ。その夢の一部を見せてくれる活劇やアクションもののフィクションは、DBの主人公の名前「孫悟空」の由来となった『西遊記』も含めて、昔から大衆に人気が有った。男性なら子供の頃に友達とチャンバラごっこやそれに類する時代時代に応じたヴァージョンの遊びに加わり、体を動かしたことの有る人も多いだろう。だがシリーズが進むにつれてキャラクター達がどんどん人間離れして行くDBでは、「バトル」の内容もどんどん生身の身体感覚から乖離して行く。

 アニメーションに於てこの点の描写に優れている有名どころのクリエイターとしては宮崎駿が挙げられるだろう。彼の作品に登場するキャラクター達は屢々荒唐無稽で生身の人間には到底不可能な動きをする。だがそれは実際の生身の感覚がベースに有るものであって、彼の描くキャラクター達は肉体の桎梏を絵の中ではこんなに軽々と超えられるんだぜと云う楽しさに溢れている。彼の作品は「バトルもの」ではないが、肉体の感覚を研ぎ澄まし、肉体を通じて世界の地平の中に自らの存在を拡大したり切り裂いたり溶け込んだりすると云う点で、そこらのバトルものより遙かに、自由な肉体を感じさせるものだ。

 だがDBはそうではない。「バトル」に於けるキャラクター達の派手な動きは「敵」を痛め付ける為のものであって、当然ながら彼等は生身の肉体の限界を画面の上で超える時、余り楽しそうではない。そしてその動きは、従来のアクションものの様に人間の動作を模したり誇張したりしたと云った体のものではなく、寧ろゲーム画面のアバターの動きに似ている。アバターを動かすのは当然、画面の前で座ってコントローラーを握っているプレイヤーだ。作者の想像力は外を駆け回る肉体ではなく、部屋の中に閉じ籠って座りっ切りの生活を送っている不健康な人間の肉体に基付いている。現在ではこうしたタイプのアクションものは、VFXやアニメ技術の向上によって寧ろ主流派になってしまったが(例:マーヴェル映画、『進撃の巨人』、『鬼滅の刃』等々)、これらはその想像力ベースに着目した場合はアクションものと云うよりは反アクションものと言うべきだろう。当時アバター的アクション描写を広めた作品はDBだけではないが、バブル期の偏執狂的な想像力に従ってこの描写をグローバルなレヴェルでスタンダードにしたと云う点で、DBの果たした役割は恐らく大きいだろう。私達の肉体感覚は日々ドラスティックな形で改変されている。恐らく今の子供達は子供時代の私とはかなり違った身体的アイデンティティを持っていることだろう。私には畏怖と警戒心を持ってそれらを唯遠巻きに想像することしか出来ない。

 DBは、「この先子供達の想像力はどう変容して行ってしまうのだろう」と私が不安を覚えた作品のひとつだ。これがマイナーな作品だったら私もそこまで注意しなかったかも知れないが、国際的に大ヒットしたと云うのが気になる。ヒットした要因は何なのだろうか。結論が出ている訳ではないので言いっ放しで申し訳無いのだが、日々デジタル中毒化を深める今の子供達を見ていると、この懸念が今尚更に拡大中であると思わずにはいられない。
関連記事
スポンサーサイト



コメントの投稿

非公開コメント

左翼の劣化

こんにちは。
鳥山明については、私も『Dr.スランプ』以降興味が無くなつていました。川流さんが、心情的に人間的であたたかみのある絵が好きなのは、理解できます。ところで、絵画は、古典的なリアリズムから抽象主義や超現実主義へと進んで、非人間的な絵は昔からありました。その非人間性を解説するのも、当時の社会情勢から説明されてきましたのですが、どうでしょうか。
話は変わって、宮崎駿のことですが。私は、彼が左翼からもてはやされるのが、常々疑問に思っています。作品評価を別として、彼の言動は、左翼にとって擁護し難いものだと思います。
思い出すのは、3.12の後、このようなことは自作品で予言したことだ、と言って災害に便乗して自己宣伝して、自分のスタジオでは原発の電気を使わない、と言って放射能汚染を避けるという問題から目を逸らさせていました。9.11の後、シュトックハウゼンは、「アートの最大の作品」と発言して非難されたが、宮崎駿は、反原発の人から賞賛されていたのは、不思議に思っていました。
彼の自己宣伝の方法についてですが、作品ごとに文化人の名前(中尾佐助、網野善彦、半藤一利、司馬遼太郎、堀田 善衛、加藤周一など)を引合いにして自分が知的なように見せようとしていますが、こういったものほど軽薄で非知性的なものだと思います。読売グループも、こんな馬鹿は少しぐらい反自民的なこと言っても大丈夫だと思っているので、飼ってやってるのでしょう。
今の日本では、右翼がウヨとなって劣化したのと同様に、左翼も、宮崎駿に大江健三郎のような役割を求めていて、劣化しているのでしょう。まあ手塚治虫も、靖国神社に絵を奉納したのですが。
プロフィール

川流桃桜

Author:川流桃桜
一介の反帝国主義者。
2022年3月に検閲を受けてTwitterとFBのアカウントを停止された為、それ以降は情報発信の拠点をブログに変更。基本はテーマ毎のオープンスレッド形式。検閲によって検索ではヒットし難くなっているので、気に入った記事や発言が有れば拡散して頂けると助かります。
全体像が知りたい場合は「カテゴリ」の「テーマ別スレッド一覧」を参照。

ブログランキング
ブログランキング・にほんブログ村へ PVアクセスランキング にほんブログ村 人気ブログランキング
良ければクリックをお願いします。
最新記事
カテゴリ
リンク
最新コメント
月別アーカイブ
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR