日本帝国がソ連に負けた歴史的事実を、日本人は忘れたいのか? いやそもそも知っているのか?
2023/06/24、ロシアはこれまで「第二次世界大戦終結の日」として来た09/03(連合国の対日勝利記念日)の名称を「軍国主義日本に対する勝利と第2次大戦終結の日」と変更することを決定した。
09/01、日本の外務省はモスクワ、サンクトペテルブルク、レニングラード等で記念集会が開かれる可能性を指摘し、「外出の際には周囲の状況をよく確認し、人が多く集まる場所を避けて行動するようにしてください」と注意喚起を行った。
同日、林芳正外務大臣は記者会見で、この件について「政府としてコメントすることは差し控えますが、ロシア側による9月3日の軍事的栄光の日の改称につきましては、ロシアに対して、日本側の立場を申し入れるとともに、日露両国民の間の無用な感情的対立、これを煽ることのないよう、適切に対応するということを求めてきております」と発言した。このことはロシアでも報道された。
日本政府はこれまでも、ロシアが対日戦勝記念日を祝うことに対して拒否反応を示す等、日本が無条件降伏した相手は米国ではなくソ連を含む連合国であると云う歴史的事実を否認するかの様な言動を繰り返して来た。日本を挑発する様なロシアの行動が大人気無いとするなら、明白な事実を否定して、自国以外では全く通用しない様な強弁を繰り返す日本政府の言動は弁護し様も無い程に幼稚だ。だが、これは一概に政府だけの暴走とも言い切れない。幼稚な政府を野放しにしている国民の側にも、同様の現実否認は共有されていないのだろうか。
第二次世界大戦に於ける勝利の主役はソ連赤軍であって米軍ではない。日本帝国軍もまた、太平洋艦隊が破れた相手は米軍だったが、主力部隊である帝国陸軍関東軍を破ったのはソ連赤軍だ。戦争を反省するTV番組等では何故か前者ばかりが注目されるので、日本帝国はまるで米国だけを相手に戦ったかの様に信じている日本人が多い様だが、史実は全く違う。「敗戦記念日」を「終戦記念日」と呼び変え、戦争がまるで自然災害か何かだったか様に、昭和天皇やA級戦犯を筆頭としてその責任の所在を戦後徹底的に曖昧にして来た日本人の殆どは、「日本帝国はソ連に敗北した」と云う単純な事実を全く理解していないのではなかろうか、と云う深刻な疑問が浮かび上がる。「戦争は嫌だ、もう二度と繰り返したくない」と口先では言いながら、自国がアメリカ帝国の永久戦争体制の重要な一翼を担って来たと云う事実から目を背け続けて来た日本人は、今や目の前で起こっている戦争すら全く理解していない。多くの日本人が、自分では戦争に反対しているつもりで、実際には第3次世界大戦に声援を送っている。何と間抜けでグロテスクな光景だろうか。嘘に嘘を重ねてのうのうと平和国家を自称して来たツケが、ここに来て最早誤魔化し切れなくなる程噴出して来ているのではないかと思わざるを得ない。
「戦争を知らない子供達」と云う表現が私は昔から大嫌いだ。それは第二次世界大戦後に育った/生まれた世代は、戦争とは全く無関係に生きていると主張しているからだ。だが「戦後」僅か5年で、米軍は隣の朝鮮半島で日本で行ったよりも更に大規模で冷酷無慈悲な大量殺戮戦争を始めている。日本は米軍の後方支援拠点として機能することでその恩恵を受け、経済復興の足掛かりを掴んだ。子供の頃、教科書で初めて「朝鮮特需」のことを知った時、隣国にナパームの雨を降らせて、黒焦げの死体の山を築くことによって経済発展するなど、日本は何とあさましい国なのだろうと思ったことを、今でもよく覚えている。そしてそれを平然と「平和」と呼ぶなどとは、何と云う偽善なのだろうと。だが、そう思う日本人はどうも超少数派だった様だ。被害者の苦境にまで思いを巡らせていては、繁栄を心行くまで享受出来ない、と云う訳だろうか。「自国の平和」を信じ続ける為には、無知でいることが絶対条件なのだ………。ROK(韓国)は後にヴェトナム侵略で似た様なことをやったが、日本と違ってこちらは自軍の兵士達を大勢戦場に派遣している。日本とROKと、倫理的に見て果たしてどちらがより非難されるべきかは、議論の余地の有るところだ。
隣国の戦争で儲けること、自国の国土を人類史上最大最悪の軍事基地帝国の為に差し出すこと、それが他国を軍事的に蹂躙するに際して「思いやり」と称して毎年何千億円もの経済的支援を提供すること、その兵士達が自国民達に犯罪を犯すことに対して基本的に不処罰にすること、戦争遂行の一部であるマスコミの戦争プロパガンダ(日本には戦前・戦中の記者クラブが無傷で生き残っている上、「戦後」はCIAの反共十字軍と関係を深めた)に接すること、偽善的な冷戦・新冷戦体制を支える為にマスコミや学界や出版界が捻じ曲げた物語に接すること、ペトロダラーの仕組みを通じて宗主国アメリカの覇権的侵略戦争の負債を間接的に肩代わりすること、新植民地主義的収奪や戦争や紛争や様々なハイブリッド戦争の成果として獲得された大量の安価な資源に基付く「文化的な生活」を享受すること———これら全ては、「戦争を知らない子供達」と呼ばれて来た戦後世代の日本人が直接的に自分達の体験として知っている戦争の一部だ。現実の戦争に於ては、銃や大砲や戦闘機の出番が有るのはほんの一部に過ぎない。進化し続けるハイブリッド戦争が常態化している状況では、日々を普通に生きることそれ自体が、戦争の体験になっている。自衛隊員が大挙して人殺しに出掛けなければ戦争ではない、と云う視野狭窄的見解は、偽善的であるばかりではなく、極めて危険だ。歴史的健忘症をこじらせ続けた日本人の殆どは、今や目の前の現実すら理解出来なくなっている。私には子供の頃から当たり前のものとして見えていた目の前の偽善的な戦争体制が、多くの日本人には全く何ひとつ見えていないらしいと云う現実を思い知らされて、私は最近よくショックを受けている。
歴史的教訓を得ないのは簡単だ。日々何となく生きて、報道の行間を読まず、腐敗した権力者共が垂れ流すプロパガンダに接しても疑問を持たなければ良いのだ。大きな流れに逆らって進むのは大変だ。人々の分断と、富の寡占が進んだ(従ってメディアの寡占も進んだ)社会に於ては特にしんどい。日本中の多くの人々が「原子力ムラの嘘に翻弄されるのはもう沢山だ」と痛切に思ったであろう原発事故を思い出してみよう。この事故が起こってから僅か12年しか経っていないが、今や再び、原子力ムラのメンバー達が自分達の無責任さを棚に上げて逆ギレする発言が連日マスコミを賑わせる様になってしまった。昔の戦争と同じく、亡国の輩は愛国者や人道主義者を気取っているが、その腐臭は行間から溢れ出ている。だがそこまでコケにされてもメディアの無責任さにまだ気が付かない日本人が大勢居る様だ。後数十年もすれば、「何時まで昔の話を引き摺っているんだ。もう『ミソギ』は済んだ」と言う声はもっと大きくなるだろう。人々の沈黙はもっと重くなるだろう。教訓は風化するだろう。いや、そもそも日本人は一度でも教訓を学んだのだろうか………?
私は日本に生まれて物心ついてこの方、この国を戦争を放棄した平和国家だとも、主権が国民に在るとも、基本的人権の尊重を不可侵とする国だとも思ったことは一度も無い。日本のマスコミが信頼出来る情報源だと思ったことも無い。その所為か、行間の読めない/行間を読まない人々との間のギャップが日々拡大する一方であることを痛切に感じている。この国はその場限りのフワフワした「空気」が有るばかりで、地に足の着いた事実に立脚した歴史を持たないのではないか、と云う疑いが、年齢を重ねると共に強くなる(そしてそうした部分を自分の中にも見付けて時々ゾッとする)。確たる過去を持てない国に、果たして確たる未来のヴィジョンが築けるものだろうか?
歴史的健忘症を取り除く決意が無ければ、この国はこの国でしか通用しない曖昧な幻想の中に沈み込んで現実が理解出来ない儘、世界の歴史の中で周縁的な役割に留まり続けるだろう。
09/01、日本の外務省はモスクワ、サンクトペテルブルク、レニングラード等で記念集会が開かれる可能性を指摘し、「外出の際には周囲の状況をよく確認し、人が多く集まる場所を避けて行動するようにしてください」と注意喚起を行った。
同日、林芳正外務大臣は記者会見で、この件について「政府としてコメントすることは差し控えますが、ロシア側による9月3日の軍事的栄光の日の改称につきましては、ロシアに対して、日本側の立場を申し入れるとともに、日露両国民の間の無用な感情的対立、これを煽ることのないよう、適切に対応するということを求めてきております」と発言した。このことはロシアでも報道された。
日本政府はこれまでも、ロシアが対日戦勝記念日を祝うことに対して拒否反応を示す等、日本が無条件降伏した相手は米国ではなくソ連を含む連合国であると云う歴史的事実を否認するかの様な言動を繰り返して来た。日本を挑発する様なロシアの行動が大人気無いとするなら、明白な事実を否定して、自国以外では全く通用しない様な強弁を繰り返す日本政府の言動は弁護し様も無い程に幼稚だ。だが、これは一概に政府だけの暴走とも言い切れない。幼稚な政府を野放しにしている国民の側にも、同様の現実否認は共有されていないのだろうか。
第二次世界大戦に於ける勝利の主役はソ連赤軍であって米軍ではない。日本帝国軍もまた、太平洋艦隊が破れた相手は米軍だったが、主力部隊である帝国陸軍関東軍を破ったのはソ連赤軍だ。戦争を反省するTV番組等では何故か前者ばかりが注目されるので、日本帝国はまるで米国だけを相手に戦ったかの様に信じている日本人が多い様だが、史実は全く違う。「敗戦記念日」を「終戦記念日」と呼び変え、戦争がまるで自然災害か何かだったか様に、昭和天皇やA級戦犯を筆頭としてその責任の所在を戦後徹底的に曖昧にして来た日本人の殆どは、「日本帝国はソ連に敗北した」と云う単純な事実を全く理解していないのではなかろうか、と云う深刻な疑問が浮かび上がる。「戦争は嫌だ、もう二度と繰り返したくない」と口先では言いながら、自国がアメリカ帝国の永久戦争体制の重要な一翼を担って来たと云う事実から目を背け続けて来た日本人は、今や目の前で起こっている戦争すら全く理解していない。多くの日本人が、自分では戦争に反対しているつもりで、実際には第3次世界大戦に声援を送っている。何と間抜けでグロテスクな光景だろうか。嘘に嘘を重ねてのうのうと平和国家を自称して来たツケが、ここに来て最早誤魔化し切れなくなる程噴出して来ているのではないかと思わざるを得ない。
「戦争を知らない子供達」と云う表現が私は昔から大嫌いだ。それは第二次世界大戦後に育った/生まれた世代は、戦争とは全く無関係に生きていると主張しているからだ。だが「戦後」僅か5年で、米軍は隣の朝鮮半島で日本で行ったよりも更に大規模で冷酷無慈悲な大量殺戮戦争を始めている。日本は米軍の後方支援拠点として機能することでその恩恵を受け、経済復興の足掛かりを掴んだ。子供の頃、教科書で初めて「朝鮮特需」のことを知った時、隣国にナパームの雨を降らせて、黒焦げの死体の山を築くことによって経済発展するなど、日本は何とあさましい国なのだろうと思ったことを、今でもよく覚えている。そしてそれを平然と「平和」と呼ぶなどとは、何と云う偽善なのだろうと。だが、そう思う日本人はどうも超少数派だった様だ。被害者の苦境にまで思いを巡らせていては、繁栄を心行くまで享受出来ない、と云う訳だろうか。「自国の平和」を信じ続ける為には、無知でいることが絶対条件なのだ………。ROK(韓国)は後にヴェトナム侵略で似た様なことをやったが、日本と違ってこちらは自軍の兵士達を大勢戦場に派遣している。日本とROKと、倫理的に見て果たしてどちらがより非難されるべきかは、議論の余地の有るところだ。
隣国の戦争で儲けること、自国の国土を人類史上最大最悪の軍事基地帝国の為に差し出すこと、それが他国を軍事的に蹂躙するに際して「思いやり」と称して毎年何千億円もの経済的支援を提供すること、その兵士達が自国民達に犯罪を犯すことに対して基本的に不処罰にすること、戦争遂行の一部であるマスコミの戦争プロパガンダ(日本には戦前・戦中の記者クラブが無傷で生き残っている上、「戦後」はCIAの反共十字軍と関係を深めた)に接すること、偽善的な冷戦・新冷戦体制を支える為にマスコミや学界や出版界が捻じ曲げた物語に接すること、ペトロダラーの仕組みを通じて宗主国アメリカの覇権的侵略戦争の負債を間接的に肩代わりすること、新植民地主義的収奪や戦争や紛争や様々なハイブリッド戦争の成果として獲得された大量の安価な資源に基付く「文化的な生活」を享受すること———これら全ては、「戦争を知らない子供達」と呼ばれて来た戦後世代の日本人が直接的に自分達の体験として知っている戦争の一部だ。現実の戦争に於ては、銃や大砲や戦闘機の出番が有るのはほんの一部に過ぎない。進化し続けるハイブリッド戦争が常態化している状況では、日々を普通に生きることそれ自体が、戦争の体験になっている。自衛隊員が大挙して人殺しに出掛けなければ戦争ではない、と云う視野狭窄的見解は、偽善的であるばかりではなく、極めて危険だ。歴史的健忘症をこじらせ続けた日本人の殆どは、今や目の前の現実すら理解出来なくなっている。私には子供の頃から当たり前のものとして見えていた目の前の偽善的な戦争体制が、多くの日本人には全く何ひとつ見えていないらしいと云う現実を思い知らされて、私は最近よくショックを受けている。
歴史的教訓を得ないのは簡単だ。日々何となく生きて、報道の行間を読まず、腐敗した権力者共が垂れ流すプロパガンダに接しても疑問を持たなければ良いのだ。大きな流れに逆らって進むのは大変だ。人々の分断と、富の寡占が進んだ(従ってメディアの寡占も進んだ)社会に於ては特にしんどい。日本中の多くの人々が「原子力ムラの嘘に翻弄されるのはもう沢山だ」と痛切に思ったであろう原発事故を思い出してみよう。この事故が起こってから僅か12年しか経っていないが、今や再び、原子力ムラのメンバー達が自分達の無責任さを棚に上げて逆ギレする発言が連日マスコミを賑わせる様になってしまった。昔の戦争と同じく、亡国の輩は愛国者や人道主義者を気取っているが、その腐臭は行間から溢れ出ている。だがそこまでコケにされてもメディアの無責任さにまだ気が付かない日本人が大勢居る様だ。後数十年もすれば、「何時まで昔の話を引き摺っているんだ。もう『ミソギ』は済んだ」と言う声はもっと大きくなるだろう。人々の沈黙はもっと重くなるだろう。教訓は風化するだろう。いや、そもそも日本人は一度でも教訓を学んだのだろうか………?
私は日本に生まれて物心ついてこの方、この国を戦争を放棄した平和国家だとも、主権が国民に在るとも、基本的人権の尊重を不可侵とする国だとも思ったことは一度も無い。日本のマスコミが信頼出来る情報源だと思ったことも無い。その所為か、行間の読めない/行間を読まない人々との間のギャップが日々拡大する一方であることを痛切に感じている。この国はその場限りのフワフワした「空気」が有るばかりで、地に足の着いた事実に立脚した歴史を持たないのではないか、と云う疑いが、年齢を重ねると共に強くなる(そしてそうした部分を自分の中にも見付けて時々ゾッとする)。確たる過去を持てない国に、果たして確たる未来のヴィジョンが築けるものだろうか?
歴史的健忘症を取り除く決意が無ければ、この国はこの国でしか通用しない曖昧な幻想の中に沈み込んで現実が理解出来ない儘、世界の歴史の中で周縁的な役割に留まり続けるだろう。
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