スターリンの怒りからフルシチョフのウクライナへの贈り物まで:クリミアのタタール人少数派は死、悲惨、追放に直面して来た(要点)
クリミアの歴史についてのRTの解説記事。
From Stalin's wrath to Khrushchev's gift to Ukraine: Crimea's Tatar minority has faced death, misery and deportation

クリミアは2014年の住民投票で96%以上と云う圧倒的民意で以て平和的・合法的・この上も無く民主主義的にロシアへの再統合を果たした訳だが、クリミア半島の少数派であるタタール人コミュニティの立場は2つに分かれているらしい。
この問題は1940年代にまで遡る。当時クリミアは合計約2年間、ナチスドイツの支配下に置かれた訳だが、分割統治の手法に従って、ナチスに協力するタタール人が大勢居た。
赤軍後方に回り込む者、ナチのプロパガンダを広める者………中には半島のロシア人を皆殺しにする提言を行う程熱心な協力者達も居て、戦争犯罪も数多く行われた。
1944年にクリミアが解放された時、NKVD長官のベリヤは、クリミア半島ではタタール人を含む5,000人以上の協力者が逮捕され、タタール人の「かなりの部分」がナチスに協力していたとスターリンに報告した。
ベリヤはまたタタール人を強制立ち退きさせてウズベキスタンに送り込むことを提言した。
約18万人が中央アジアに送り込まれ、諸権利を制限されて、財産の押収、新しい場所での困難な生活条件、慣れない気候、戦後直ぐの大飢饉等に苦しめられた。
最終的には協力者の罪をタタール人全体に負わせるのは不当であったとの布告が出され、1990年には大量帰還が始まった。
2014年のクーデター時にはクリミアのタタール人を名乗る数百人の親ウクライナの活動家集団がクリミアのインフラの破壊等を求めて警察と衝突したが、当時クリミア半島の殆どはロシア人(クリミア在住のロシア語話者)であり、活動場所はウクライナ側だった為、これは殆ど実体を持たない名称だ。
From Stalin's wrath to Khrushchev's gift to Ukraine: Crimea's Tatar minority has faced death, misery and deportation

クリミアは2014年の住民投票で96%以上と云う圧倒的民意で以て平和的・合法的・この上も無く民主主義的にロシアへの再統合を果たした訳だが、クリミア半島の少数派であるタタール人コミュニティの立場は2つに分かれているらしい。
この問題は1940年代にまで遡る。当時クリミアは合計約2年間、ナチスドイツの支配下に置かれた訳だが、分割統治の手法に従って、ナチスに協力するタタール人が大勢居た。
赤軍後方に回り込む者、ナチのプロパガンダを広める者………中には半島のロシア人を皆殺しにする提言を行う程熱心な協力者達も居て、戦争犯罪も数多く行われた。
1944年にクリミアが解放された時、NKVD長官のベリヤは、クリミア半島ではタタール人を含む5,000人以上の協力者が逮捕され、タタール人の「かなりの部分」がナチスに協力していたとスターリンに報告した。
ベリヤはまたタタール人を強制立ち退きさせてウズベキスタンに送り込むことを提言した。
約18万人が中央アジアに送り込まれ、諸権利を制限されて、財産の押収、新しい場所での困難な生活条件、慣れない気候、戦後直ぐの大飢饉等に苦しめられた。
最終的には協力者の罪をタタール人全体に負わせるのは不当であったとの布告が出され、1990年には大量帰還が始まった。
2014年のクーデター時にはクリミアのタタール人を名乗る数百人の親ウクライナの活動家集団がクリミアのインフラの破壊等を求めて警察と衝突したが、当時クリミア半島の殆どはロシア人(クリミア在住のロシア語話者)であり、活動場所はウクライナ側だった為、これは殆ど実体を持たない名称だ。
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