ガリツィアのジェノサイド:現在の西ウクライナでロシアのアイデンティティが一掃された経緯(要点)
学術史家マシュー・ラファエル・ジョンソン氏に拠ると、ウクライナのナショナリズムには元々反ロシアの要素は存在しなかったそうだが、RTのこの記事ではオーストリア=ハンガリー帝国の分断統治の結果としてガリツィアに反ロシア的要素が齎された経緯を解説している。
The Galician genocide: How Russian identity was wiped out in what is now Western Ukraine
ウクライナ西部のガリツィアは現在ウクライナの反ロシア的なショナリズムの中心地となっているが、100年程前は全く真逆で、親ロシア派と親ウクライナ派の政治運動が対立し、地元のルテニア人(Rutheni、ロシア人のこと)の忠誠心を巡って争っていた。
だが当時のオーストリア=ハンガリー帝国は分断統治政策の一環としてこの運動を分裂させ、オーストリアを支持した親ウクライナ派が主導権を握ることになった。
1914/08/18にロシア帝国軍がガリツィアに攻撃を開始すると、親ロシア派達は、これをロシアとの再統一への一歩として歓迎した。
だがオーストリア当局は親ロシア派に対して大規模な弾圧を加え、人々はロシアの文学書を持っている、ロシア社会の一員である、ロシアの教育を受けている、サンクトペテルブルクに同情的、ロシア人だと名乗る、ロシアの名前を持っている、ロシアを訪れたことが有る、ロシアの新聞を読んだ、「親ロシア派」として知られている、等の様々な理由で逮捕されたり処刑されたりした。

最初に標的となったのは略全ての知識人層と正教会の司祭達だが、その後には何千人もの農民達も逮捕された。

迫害はエスカレートしたが、既存の刑務所では手狭になった。1914/08/28の時点で、リヴィウだけでも2,000人の囚人が居たが、オーストリア当局は強制収容所の設置を決定し、翌9月、巨大なターラーホフ収容所に最初の囚人が収容された。
囚人達は「様々な階級と年齢の人々」から成っていた。「聖職者、弁護士、医師、教師、役人、農民、作家、学生」達が居て、年齢も幼児から100歳までと多様だった。
誤って親ウクライナ派が逮捕されることも有ったが、そう云う場合はロシア名を放棄して「ウクライナ人リスト」に登録することで釈放された。
ターラーホフ収容所には1915年の冬まで建物が無く、雨や霜に関わらず、人々は屋外で地面に寝ていた。衛生状態は劣悪で、トイレは一度に20人が使用した。バラックが建てられると、予定の200人ではなく500人が収容され、過密状態に陥った。囚人達は滅多に取り替えられない藁のベッドで寝た。当然、疫病が蔓延し、1914年11月から僅か2カ月で、3,000人以上の囚人が発疹チフスで死亡した。医療体制は不十分で、医師達ですら囚人達に敵対的だった。病院が建設されてからも、医師達は患者達に殆ど薬を与えなかった。
キャンプ全体は柱で囲まれ、定期的にこの柱に「違反者(夜に屋内で喫煙する等)」が吊るされて恐怖を煽った。懲罰用として鉄の拘束具も使用され、女性ですらその対象になった。収容所には他に有刺鉄線、歩哨の居る監視塔、吠える犬、スローガンを掲げたポスター、プロパガンダ、拷問施設、処刑用の堀、絞首台、墓地等が有った。

収容所は3年近く運営され、1917年5月にオーストリアのチャールズ1世の命令で閉鎖された。バラックは1936年に取り壊された、その後1,767体の死体が発掘され、近くのフェルトキルヒェン村の共同墓地に埋葬された。
正確な犠牲者数については今だに論争が続いているが、全体としては、第一次世界大戦中、オーストリア=ハンガリー当局は少なくとも60,000人のルシン人を殺害したと云うことになっている。
1934年以降、この惨劇の記念碑が次々に作られた。証拠書類と目撃証言を集めたターラーホフ年鑑も発行され、1928年と1934年には15,000人以上が参加したターラーホフ会議が開催された。
だがロシア人がガリツィアに居ると云う事実そのものがウクライナ化の障害と見做された為、ターラーホフの話題は暗黙の裡に禁止された。ガリツィアが1939年にソ連の一部となると、親ロシア派組織の殆どは閉鎖された。追悼式は続いたが、目撃者や同時代人が高齢化したことで、記念碑を訪れる人は次第に少なくなって行った。
現代のウクライナでは、ルシン人虐殺は公に議論されておらず、ターラーホフは、国のどの歴史教科書にも記載されていない。殆どの若者はターラーホフについて聞いたことすら無い。
第一次世界大戦後にオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊すると、ガリツィアはウクライナ・ナショナリズムの中心地となった。この地に曾てロシア人が住んでいたと云う事実は、彼等のイデオロギーからすれば適切ではないのだ。
The Galician genocide: How Russian identity was wiped out in what is now Western Ukraine
ウクライナ西部のガリツィアは現在ウクライナの反ロシア的なショナリズムの中心地となっているが、100年程前は全く真逆で、親ロシア派と親ウクライナ派の政治運動が対立し、地元のルテニア人(Rutheni、ロシア人のこと)の忠誠心を巡って争っていた。
だが当時のオーストリア=ハンガリー帝国は分断統治政策の一環としてこの運動を分裂させ、オーストリアを支持した親ウクライナ派が主導権を握ることになった。
1914/08/18にロシア帝国軍がガリツィアに攻撃を開始すると、親ロシア派達は、これをロシアとの再統一への一歩として歓迎した。
だがオーストリア当局は親ロシア派に対して大規模な弾圧を加え、人々はロシアの文学書を持っている、ロシア社会の一員である、ロシアの教育を受けている、サンクトペテルブルクに同情的、ロシア人だと名乗る、ロシアの名前を持っている、ロシアを訪れたことが有る、ロシアの新聞を読んだ、「親ロシア派」として知られている、等の様々な理由で逮捕されたり処刑されたりした。

最初に標的となったのは略全ての知識人層と正教会の司祭達だが、その後には何千人もの農民達も逮捕された。

迫害はエスカレートしたが、既存の刑務所では手狭になった。1914/08/28の時点で、リヴィウだけでも2,000人の囚人が居たが、オーストリア当局は強制収容所の設置を決定し、翌9月、巨大なターラーホフ収容所に最初の囚人が収容された。
囚人達は「様々な階級と年齢の人々」から成っていた。「聖職者、弁護士、医師、教師、役人、農民、作家、学生」達が居て、年齢も幼児から100歳までと多様だった。
誤って親ウクライナ派が逮捕されることも有ったが、そう云う場合はロシア名を放棄して「ウクライナ人リスト」に登録することで釈放された。
ターラーホフ収容所には1915年の冬まで建物が無く、雨や霜に関わらず、人々は屋外で地面に寝ていた。衛生状態は劣悪で、トイレは一度に20人が使用した。バラックが建てられると、予定の200人ではなく500人が収容され、過密状態に陥った。囚人達は滅多に取り替えられない藁のベッドで寝た。当然、疫病が蔓延し、1914年11月から僅か2カ月で、3,000人以上の囚人が発疹チフスで死亡した。医療体制は不十分で、医師達ですら囚人達に敵対的だった。病院が建設されてからも、医師達は患者達に殆ど薬を与えなかった。
キャンプ全体は柱で囲まれ、定期的にこの柱に「違反者(夜に屋内で喫煙する等)」が吊るされて恐怖を煽った。懲罰用として鉄の拘束具も使用され、女性ですらその対象になった。収容所には他に有刺鉄線、歩哨の居る監視塔、吠える犬、スローガンを掲げたポスター、プロパガンダ、拷問施設、処刑用の堀、絞首台、墓地等が有った。

収容所は3年近く運営され、1917年5月にオーストリアのチャールズ1世の命令で閉鎖された。バラックは1936年に取り壊された、その後1,767体の死体が発掘され、近くのフェルトキルヒェン村の共同墓地に埋葬された。
正確な犠牲者数については今だに論争が続いているが、全体としては、第一次世界大戦中、オーストリア=ハンガリー当局は少なくとも60,000人のルシン人を殺害したと云うことになっている。
1934年以降、この惨劇の記念碑が次々に作られた。証拠書類と目撃証言を集めたターラーホフ年鑑も発行され、1928年と1934年には15,000人以上が参加したターラーホフ会議が開催された。
だがロシア人がガリツィアに居ると云う事実そのものがウクライナ化の障害と見做された為、ターラーホフの話題は暗黙の裡に禁止された。ガリツィアが1939年にソ連の一部となると、親ロシア派組織の殆どは閉鎖された。追悼式は続いたが、目撃者や同時代人が高齢化したことで、記念碑を訪れる人は次第に少なくなって行った。
現代のウクライナでは、ルシン人虐殺は公に議論されておらず、ターラーホフは、国のどの歴史教科書にも記載されていない。殆どの若者はターラーホフについて聞いたことすら無い。
第一次世界大戦後にオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊すると、ガリツィアはウクライナ・ナショナリズムの中心地となった。この地に曾てロシア人が住んでいたと云う事実は、彼等のイデオロギーからすれば適切ではないのだ。
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