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1852〜1953年まで存在したフランスの強制労働収容所は、グラーグよりも酷かった(要点と補足)

フランスの強制労働収容所の実態を描いたドキュメンタリーの要点を纏めて、The Finnish Bolshevik さんの解説で多少補足してみた。
French work camps 1852-1953 worse than gulag




 ・1852年から1947年まで、フランス領ギアナには「悪魔の島」と呼ばれる政治囚向けの流刑地が存在した。一見風光明媚なこの場所に鎖に繋がれて送られて来た囚人達は過酷な扱いを受け、ギロチンにかけられなかった者には生き地獄が待っていた。無実の者も多かった。

 ・ギアナの刑務所制度に於て、最大の刑務所は本土に在った。刑務所街での囚人達の扱いは過酷で、多くの者が裁判を受ける前に疫病や飢えや虐待で死亡した。

 ・フランスは本国から囚人達を取り除く為に、彼等を流刑地に追放した。フランス司法は過酷で、有罪判決を受けた者は流刑地に送られる前に市中を引き回されたが、当局は大規模叛乱を恐れていた。

 ・刑務所街での労働の種類は選択することが出来たが、強制労働は1日17〜18時間にも上った。

 ・囚人達は夜は60人を収容する大部屋に詰め込まれたが、そこは看守すら手を出さない、飲酒・賭博・レイプが横行する無法地帯だった。

 ・「ジャガイモを盗んで刑期15年」などと云う19世紀の『レ・ミゼラブル』の様な理不尽な刑罰が20世紀でも罷り通っていた。

 ・「流刑者はゴミ」だったが、釈放された者も仏領ギアナでは差別を受けて仕事を得ることすら出来ず、野垂れ死にが待っていた。

 ・「矯正不可能」と見做された者(つまり強い意志の持ち主)は森に送られ、伐採作業の使い捨て要員としてバタバタと死んで行った。マラリア、チフス、黄熱病によって多くの囚人が死亡し、夜は檻に閉じ込められたが、逃げ場の無い彼等を蜘蛛・蛇・ムカデ・吸血コウモリが襲った。

 ・脱走は殆ど成功しなかったが、再び捕らえられた者は更に過酷な所へ送られた。カイエンの「救済諸島」、小さな3つの島から成るここに400人以上の囚人が詰め込まれた。

 ・贋作者として有名なフランシス・ラグランジュもここで過ごしたが、彼は流刑地生活を描いた数多くの傑作絵画を残した。

 ・囚人が死亡すると、葬式も無く、遺体はサメの泳ぐ海に投げ込まれたが、そのサメも飢えた囚人達の食料になった。

 ・最終地点は「悪魔の島」。ここには50人以下の政治犯が収容されていた。

 ・悪魔の島の最も有名な囚人はアルフレド・ドレフュス。仏軍で最初に士官になったユダヤ人の一人であり、反ユダヤ主義の陰謀の犠牲者だが、彼の脱走を恐れた当局は、彼だけの為に警備を更に厳重にした。

 ・少数だが脱走に成功した者も居て、世界にフランスの流刑地の非人道的な実態を伝えた。

 ・第二次大戦中も関係無く稼働していた刑務所制度は戦後に廃止が決定され、1947年に最後の囚人が釈放されたが、社会復帰は困難で、適応出来ずに自殺する者も居た。



補足

 ・西洋ではヒトラーの強制収容所並みに恐ろしい場所だと喧伝されているのが、スターリン時代のグラーグ(政治犯も含む刑務所・流刑地制度)。だが平時に於けるグラーグでの死亡率は3〜5%に過ぎず、ナチスドイツの様な「絶滅収容所」と呼ぶには程遠かった。

 ・当時は流刑地制度は西洋諸国を含む世界のあちこちで使われていたが、殆どはソ連と同じく1950年代に廃止された。

 ・仏領ギアナの「悪魔の島」での死亡率は95%にも上った。実態が「絶滅収容所」に近い刑務所制度が存在したと言うなら、それはソ連ではなくフランス帝国にこそ存在した。

 ・因みに「悪魔の島」に実際に収監されて脱獄したと主張したアンリ・シャリエールの自伝は、後にスティーヴ・マックィーン主演で『パピヨン』と云うタイトルで映画化されたが、その信憑性には疑問が投げ掛けられている。
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川流桃桜

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