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フルシチョフのクーデター(スターリンの死とフルシチョフの権力掌握)

スターリンの死後にソヴィエト連邦の最高権力者の座に上ったニキータ・フルシチョフは、所謂「秘密演説」でスターリンを非難する嘘を流し、前任者の体制を全否定することによって自分の権力の基盤を固めようとした訳だが、この記事&動画では、軍事クーデターによりフルシチョフがソ連を乗っ取った、と云う仮説に基付いてその経緯を説明している。興味深いので要点を纏めてみた。ソースに興味が有るのであれば、元記事の最後に一覧が載っている。
The Khrushchev Coup (Death of Stalin & Khrushchev’s Rise to Power)




 ・スターリンの晩年、彼の周囲に居た人々(秘書やボディガード)は次々と胡散臭い理由で排除されていた。

 ・複数の外国人の証言に拠れば、スターリンはその死の直前まで完全な健康体だった。

 ・スターリンが発作を起こしてから治療が開始されるまで、何故か半日も時間が空いている。

 ・当局はスターリンが死亡した場所について嘘を吐き、クンツェヴォの別荘ではなくモスクワのアパートで死去したと発表した。

 ・修正主義者の共謀者達には、自らの保身の為にスターリンを排除したいと云う十分な動機が有った。スターリンは1947年に党のプログラムの更新を提案していたが(これは公開されなかったが、この事実を指摘しているのは反スターリン派の研究者であり、スターリンを美化する様な嘘を吐くとは考え難い)、これは国家の役割を「主に社会の経済生活を管理する機関」へと縮小するなど、レーニンの路線よりも更にプロレタリアートに力を持たせ、ボトムアップによる国家運営を志向するものだった。こうした下からの民主主義的改革案は、中央委員会のメンバーを年に1/6以上「強制更新」する条項を含み、一般市民による党指導部の批判を奨励していたので、党指導部達は自分達の地位が安泰ではなくなることを懸念した。が、詳細は不明だが、この提案は却下された。

 ・スターリンの親しい同盟者だったジダーノフは1948年に心臓発作で亡くなった(これは偶然だったかも知れない)。これにより持ち上がった「医師団陰謀事件」には明確な証拠は無いが、幾つかは明らかにフルシチョフが画策した詐欺であり、彼はこれを政敵の攻撃に利用した。スターリンは医師団の有罪には懐疑的だったが、彼自身、この5年後に十分な治療を受けられない状態で不審な死を遂げている。

 ・これらの事情は、ソ連で実質的な権力を握っていたのは、西側での冷戦神話の様にスターリン個人やその周辺ではなく、党の中間管理職と第一書記官達であったことを示唆している(今で言うところのディープ・ステート)。スターリンは寧ろ少数派であって、彼とジダーノフの新しいプログラムは、腐敗し易いこの特権層を攻撃するものだった。

 ・党メンバーの構成を見ると、スターリンの時代はレーニンの時代よりもプロレタリア志向だった(政治局は1929年に党を「プロレタリア化」すると決定した)。だがスターリンの死後はプロレタリアの数は半減し、代わりにホワイトカラーが激増した。スターリンの死後、ソ連共産党は殆ど別の組織に生まれ変わったのだ。スターリンが官僚カーストの指導者であったと云うトロツキストの非難は、この点で馬鹿げている。スターリンはレーニンよりも更に平等主義、民主主義、プロレタリア化の努力を推し進めた。


 ・スターリンの死後数週間以内に、彼は殺害されたのだと云う噂が囁かれ始めた。「連中は私の父を殺した。くそったれ共が!」と叫んだスターリンの息子ヴァシリーは逮捕・隔離され、1961年まで刑務所で過ごしたが、釈放・追放された後、直ぐに亡くなった。

 ・スターリンの断固たる支持者達も、彼の死の直後に相次いで謎の死を遂げている(チェコのクレメント・ゴットヴァルト、ポーランドのボレスワフ・ベイルート)。

 ・アルバニアのエンヴェル・ホッジャは、スターリンの殺害についてはっきりとフルシチョフ派を非難し、その一人であるアナスタス・ミコヤンがその事実を彼に認めたと主張した。ミコヤンは自身の著書の中で、後に修正主義者達が行うことになる市場指向型の改革に反対したスターリンの見解を「信じられない程の左翼的逸脱」と表現している。

 ・スターリンは1953/03/05の午後9時50分に死亡したが、翌朝の午前6時前に、米国人ジャーナリストは内務省の治安部隊の分遣隊(正規の軍隊ではない)が出動し、モスクワ全市を封鎖するのを目撃している。

 ・03/07、共産党中央委員会、閣僚評議会、ソ連最高会議の合同緊急会議を開催するよう求める十分な支援が動員されることで、クーデターは当面は延期されたが、時間の問題だった。

 ・7月、副大統領兼内務大臣のベリヤ(スターリンの死後、ソ連で最も有力な人物の一人)を軍が逮捕。外国の帝国主義勢力と通じて党指導部に対して陰謀を企てていたとの告発だったが、驚くべきことに、後になってフルシチョフ自身が、この告発に証拠が無いことを認めている。

 ・スターリンの民主的改革案を支持したベリヤは処刑され、マレンコフは追放された。マレンコフは政治家の給与を削減する決定を支持したが、フルシチョフは逆にこの政策を覆し、協力した党官僚機構の一部により高い給与で報いた。

 ・1956年、フルシチョフは所謂「秘密演説」によってスターリンへの攻撃を開始した。マルクス・レーニン主義路線とは異なる政策を実施しようとしていたフルシチョフにとって、スターリンの正当性を攻撃してその民主的改革と平等主義プログラムと闘い、フルシチョフ自身が率いる党官僚機構の手に権力を取り戻すことが必要だったのだ。毛沢東の分析通り、ソ連は腐敗し、修正主義者になったのだ。この告発は捏造であったことが証明されているが、資本主義社会はこの嘘に喝采を送った。

 ・フルシチョフの攻撃の対象になったのはモロトフ、カガノヴィッチ、マレンコフ、ベリア等、彼の主要な政敵全員だった。マレンコフとベリアがスターリンに忠誠を誓っていたかは疑わしいが、フルシチョフは彼等に一様に「スターリン主義者」とレッテルを貼った。

 ・モロトフとカガノヴィッチが何故フルシチョフの嘘に公に反論しなかったのかは謎。毛沢東や前述のエンヴェル・ホッジャも、公に秘密演説の内容自体を非難することはしなかった。

 ・1957年7月、モロトフ、カガノヴィッチ、マレンコフは到頭協力して幹部会議でフルシチョフを追放しようとした。だがフルシチョフは中央委員会のプレナムだけが彼を解任出来ると主張した。中央委員会の臨時会期が開かれると、軍事指導者のゲオルギー・ジューコフがフルシチョフを支持し、軍を使って彼を支持するとさえ脅したことで、形勢は逆転した。

 ・ジューコフは後に、スターリンは偉大な​​指導者であり、フルシチョフは不誠実で虚栄心のある日和見主義者であると認めた。なら何故フルシチョフを支持したのか? スターリンは彼を汚職で降格させたが、フルシチョフは彼を国防相に昇進させた。

 ・この謀略と腐敗のネットワークが、一般に「フルシチョフ・クーデター」と呼ばれるものの全容だ。瀕死のスターリンの殺害または犯罪的なネグレクト、大勢のフルシチョフの政敵の暗殺、無数の他の人々の周辺化、嘘、賄賂、あからさまな軍事的乗っ取り、党民主主義の全面拒否。スターリンがその取り巻きがやったと主張したことを、正に当のフルシチョフはやったのだ。
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