マクシム・アルテミエフ:西側は1990年代にロシアの弱さに付け込んだが、それが引き起こしたトラウマを理解することが出来ていない
RTに掲載された、ロシアの作家、歴史家、ジャーナリストのマクシム・アルテミエフの論説。短いので全文訳してみた。日本人や西側市民はとにかく資本主義/帝国主義/新旧植民地主義システムの周辺で搾取され弾圧されている国々に対する知識と想像力が圧倒的に欠落しているので、被害者諸国から見た時に自分達の国がどれだけ酷く見えるかについて全く無関心だ。無知と無関心の悪循環がやがてコミュニケーション・ギャップを拡大させ、最終的には今のウクライナ紛争の様に、互いに全く異なる現実を見てしまう羽目になる。相手がロシアだろうと中国だろうとDPRKだろうと同じことだが、相手が経験して来た苦難を知り、相手の立場になって考えてみることが出来なければ、何時まで経っても被害諸国の人々が何を考え、何に怯えているのかは理解出来る様にはならない。ここで書かれているのはその一例だ。今「ロシアのウクライナ侵略!」に怒っている人達は、NATOがじわじわとロシアを侵略して来たこの30年間、一体どんなパラレルワールドを見て来たんだと云う話である。
Maxim Artemyev: The West took advantage of Russian weakness in the 1990s and is unable to understand the trauma it unleashed
米国主導の世界は、過去30年間、誰の犠牲によって強くなって来たかを忘れてしまった。ロシアはその記憶を呼び覚ます為に戻って来た。
8月にワシントン・ポスト紙に掲載された、ロシアのウクライナ軍事攻勢に至る経緯とその第一段階の作戦に関する一連の記事は、重要な問題を提起している。西側諸国の人々は、この状況をどれだけ現実的、客観的に捉えているのだろうか?
私はここで、欧米では気付かれないことの多い幾つかの重要な点を指摘しておきたい。
この紛争の根は1985〜91年にまで遡る。当時はミハイル・ゴルバチョフはソ連を軍拡競争から撤退させて冷戦を終結させ、この動きは世界を核による終末から救うものだと考えられていた。
それだけでは足りないかの様に、ゴルバチョフは、西側の政治家達の想像を遙かに超える様な一方的な行動を数多く起こした。ソ連はアフガニスタンから撤退し、ベルリンの壁の取り壊しに同意し、ドイツの再統一を許した。
彼等はまた新しいドイツがNATOに加盟することを許し、東側からソ連軍を撤退させる一方で、西側に米軍が留まり続けることを許した。そして旧加盟諸国が米国主導の軍事ブロックに参加することを妨げる法的拘束力を持った規約無しに、ワルシャワ条約を解散させてしまった。
ソ連はまた、ニカラグアからアンゴラ、カンボジア、エチオピアに至るまで、世界中の反西側勢力への支援を打ち切った。更にその上、ゴルバチョフはアメリカが望むことさえ出来なかったことをやらかした———彼は、歴史的にロシアの領土であったものの大部分を15の国に分割してソ連を解体することによって、モスクワを劇的に弱体化させ、改革前の人口の50%を奪ったのだ。
ソ連崩壊から生まれた新生ロシアは、見返りに何を得たのだろうか? 一言で言えば、何も。交換条件など無かった。NATOは存続し、米国はその帝国を1インチも諦めず、グアムもサモアもプエルトリコも手放さず、グアンタナモをキューバに返還することも無かった。それどころか、アメリカ人はロシアの一時的な弱さを利用して、ロシアの歴史的領土を侵食したのだ。
ワシントンはNATOの加盟国を、恐れなければならない対象など無かった東欧諸国(ヨーロッパの真ん中に位置するチェコ共和国やハンガリーの様に)に拡大するだけでなく、1700年代初頭からロシアの支配下に在ったバルト諸国にも拡大した。米国はそれでも足りないかの様に、ウクライナやグルジアにもNATOへの加盟の可能性をちらつかせた。因みにこの両国は、ソ連の指導者の中で最も長く在職した2人の指導者、レオニード・ブレジネフとヨシフ・スターリンの故郷だ。
1992年以来、米国は、ポスト・ソヴィエト空間を纏めようとするモスクワの努力に対抗する政策を公然と追求して来た。ワシントンは、ロシアが決して大国として生まれ変わらぬように、あらゆることをやってのけた。そして勿論、ゴルバチョフ政権下のソ連にも、ボリス・エリツィン大統領下のロシアにも、まともな財政援助は全く行われなかった。これは一方通行だったのだ。
繰り返すが、西側は全てを手に入れ、ロシアは何も手にしなかった。
ロシアは弱体化し、バラバラにされた。しかし、米国とソ連/ロシアの指導者達が署名したどの文書にも、モスクワが自滅するだろうなどと書かれていた訳ではない。1991年8月に戻ると、ジョージ・H・W・ブッシュでさえ、キエフで演説した際に、ソ連を引き裂かないようにとウクライナ人に呼び掛けた。彼の目にはその方向へ踏み出すことは、無数の災いを齎すだろうことは明白だったからだ。
1980年代から1990年代に掛けてのソ連の、そしてロシアの政治家の殆どが、有能とは言えなかったことは事実だ。多くの同胞達から見れば、彼等はあらゆる間違い(或いは背信———好きに呼べば良い)を犯した。だが相手側の西側諸国、特に米国は、ロシアの犠牲を考えれば、もっと文明的に振る舞うことが出来た筈だ。彼等はモスクワの一時的な弱さに付け込むのを控えることも出来た筈だが、彼等はそうしなかった。
ソ連は第二次世界大戦後の日本やドイツの様な敗戦国ではなく、降伏文書に署名した訳でもないことを銘記しておく必要が有る。自らを15に切り刻む義務など無かったのだ。歴史的なロシアの崩壊は、ゴルバチョフの著しく弱いリーダーシップとエリツィンの個人的な野心の結果だ。エリツィンはより小さな国家であっても、権力を固めようとしたのだ。
何世紀も掛けて形作られた国の運命や、最も重要なことだが人々のことなど、誰も考えていなかったのだ。
既に1991年以前から「ロシア」の解体は西側の主要な目標であり、ベラルーシやタジキスタンの人々はずっと独立を夢見ていた、と言う人が居る。この様な推測は、ソヴィエト連邦に住んでいた人であれば誰だろうと全く馬鹿馬鹿しいと思うことだろう。西側の政治家達は、フルシチョフ、ブレジネフ、ゴルバチョフと会談した時には、決してこのテーマを切り出したりはしなかった。
ポーランドは、現在最も攻撃的なロシア恐怖症の国のひとつだが、国が崩壊するこのトラウマを肌で覚えている。ワルシャワは第二次世界大戦後、スターリンから寛大な扱いを受け、シレジア、東プロイセン、ポメラニアの支配権を与えられた。
だがロシアの損失を補償してくれた者は誰も居ない。喩えるならば現在のロシア連邦は、リヴィウ、グロドノ、ビリニュスどころか、ヴロツワフ、シュチェチン、グダンスクすら無いポーランドなのだ。
例えば、1945年以降にフランスでモーリス・トレーズ率いる共産党が政権を握ったとしよう(有り得ないシナリオではない)。そして国をブルターニュ、アルザス・ロレーヌ、フランドル、コルシカ、オクシタニア等の民族共和国に分割したとしよう(1917年以降にロシアで起こった様に)。さて、1991年にフランス共産党の支配が崩壊し、それらの共和国が独立国家となったと想像してみよう。オクシタニアはフランス語を禁止し、ヴィクトル・ユゴーの像を取り壊してフレデリック・ミストラルの記念碑に置き換え、マルセイユの政府はパリに植民地支配とオック語の消滅に対する補償を要求し始めるのだ。
エマニュエル・マクロンがウクライナを支持する発言をする度に、彼は本当はこう自問すべきではないのだろうか、「オクシタニアの自由の為に私は何をしたのか?」と。
歴史に終わりは無い。ロシアはバラバラになった様に、再びひとつになることも有り得る。これは過去にも二度起きている———1600年代初頭の「苦難の時代」、そしてその後の1917年の革命後だ。このプロセスが不可逆的だと考えるのは間違いだ。ドイツとイタリアは千年もの分裂の末に再統一された。イスラエルが生まれ変わるのには二千年掛かった。
そして今、1991年の分裂から30年の歳月を経て、この流れが逆転しようとしている。それがこの先どうなるのか、誰に分かるだろうか?
Maxim Artemyev: The West took advantage of Russian weakness in the 1990s and is unable to understand the trauma it unleashed
米国主導の世界は、過去30年間、誰の犠牲によって強くなって来たかを忘れてしまった。ロシアはその記憶を呼び覚ます為に戻って来た。
8月にワシントン・ポスト紙に掲載された、ロシアのウクライナ軍事攻勢に至る経緯とその第一段階の作戦に関する一連の記事は、重要な問題を提起している。西側諸国の人々は、この状況をどれだけ現実的、客観的に捉えているのだろうか?
私はここで、欧米では気付かれないことの多い幾つかの重要な点を指摘しておきたい。
この紛争の根は1985〜91年にまで遡る。当時はミハイル・ゴルバチョフはソ連を軍拡競争から撤退させて冷戦を終結させ、この動きは世界を核による終末から救うものだと考えられていた。
それだけでは足りないかの様に、ゴルバチョフは、西側の政治家達の想像を遙かに超える様な一方的な行動を数多く起こした。ソ連はアフガニスタンから撤退し、ベルリンの壁の取り壊しに同意し、ドイツの再統一を許した。
彼等はまた新しいドイツがNATOに加盟することを許し、東側からソ連軍を撤退させる一方で、西側に米軍が留まり続けることを許した。そして旧加盟諸国が米国主導の軍事ブロックに参加することを妨げる法的拘束力を持った規約無しに、ワルシャワ条約を解散させてしまった。
ソ連はまた、ニカラグアからアンゴラ、カンボジア、エチオピアに至るまで、世界中の反西側勢力への支援を打ち切った。更にその上、ゴルバチョフはアメリカが望むことさえ出来なかったことをやらかした———彼は、歴史的にロシアの領土であったものの大部分を15の国に分割してソ連を解体することによって、モスクワを劇的に弱体化させ、改革前の人口の50%を奪ったのだ。
ソ連崩壊から生まれた新生ロシアは、見返りに何を得たのだろうか? 一言で言えば、何も。交換条件など無かった。NATOは存続し、米国はその帝国を1インチも諦めず、グアムもサモアもプエルトリコも手放さず、グアンタナモをキューバに返還することも無かった。それどころか、アメリカ人はロシアの一時的な弱さを利用して、ロシアの歴史的領土を侵食したのだ。
ワシントンはNATOの加盟国を、恐れなければならない対象など無かった東欧諸国(ヨーロッパの真ん中に位置するチェコ共和国やハンガリーの様に)に拡大するだけでなく、1700年代初頭からロシアの支配下に在ったバルト諸国にも拡大した。米国はそれでも足りないかの様に、ウクライナやグルジアにもNATOへの加盟の可能性をちらつかせた。因みにこの両国は、ソ連の指導者の中で最も長く在職した2人の指導者、レオニード・ブレジネフとヨシフ・スターリンの故郷だ。
1992年以来、米国は、ポスト・ソヴィエト空間を纏めようとするモスクワの努力に対抗する政策を公然と追求して来た。ワシントンは、ロシアが決して大国として生まれ変わらぬように、あらゆることをやってのけた。そして勿論、ゴルバチョフ政権下のソ連にも、ボリス・エリツィン大統領下のロシアにも、まともな財政援助は全く行われなかった。これは一方通行だったのだ。
繰り返すが、西側は全てを手に入れ、ロシアは何も手にしなかった。
ロシアは弱体化し、バラバラにされた。しかし、米国とソ連/ロシアの指導者達が署名したどの文書にも、モスクワが自滅するだろうなどと書かれていた訳ではない。1991年8月に戻ると、ジョージ・H・W・ブッシュでさえ、キエフで演説した際に、ソ連を引き裂かないようにとウクライナ人に呼び掛けた。彼の目にはその方向へ踏み出すことは、無数の災いを齎すだろうことは明白だったからだ。
1980年代から1990年代に掛けてのソ連の、そしてロシアの政治家の殆どが、有能とは言えなかったことは事実だ。多くの同胞達から見れば、彼等はあらゆる間違い(或いは背信———好きに呼べば良い)を犯した。だが相手側の西側諸国、特に米国は、ロシアの犠牲を考えれば、もっと文明的に振る舞うことが出来た筈だ。彼等はモスクワの一時的な弱さに付け込むのを控えることも出来た筈だが、彼等はそうしなかった。
ソ連は第二次世界大戦後の日本やドイツの様な敗戦国ではなく、降伏文書に署名した訳でもないことを銘記しておく必要が有る。自らを15に切り刻む義務など無かったのだ。歴史的なロシアの崩壊は、ゴルバチョフの著しく弱いリーダーシップとエリツィンの個人的な野心の結果だ。エリツィンはより小さな国家であっても、権力を固めようとしたのだ。
何世紀も掛けて形作られた国の運命や、最も重要なことだが人々のことなど、誰も考えていなかったのだ。
既に1991年以前から「ロシア」の解体は西側の主要な目標であり、ベラルーシやタジキスタンの人々はずっと独立を夢見ていた、と言う人が居る。この様な推測は、ソヴィエト連邦に住んでいた人であれば誰だろうと全く馬鹿馬鹿しいと思うことだろう。西側の政治家達は、フルシチョフ、ブレジネフ、ゴルバチョフと会談した時には、決してこのテーマを切り出したりはしなかった。
ポーランドは、現在最も攻撃的なロシア恐怖症の国のひとつだが、国が崩壊するこのトラウマを肌で覚えている。ワルシャワは第二次世界大戦後、スターリンから寛大な扱いを受け、シレジア、東プロイセン、ポメラニアの支配権を与えられた。
だがロシアの損失を補償してくれた者は誰も居ない。喩えるならば現在のロシア連邦は、リヴィウ、グロドノ、ビリニュスどころか、ヴロツワフ、シュチェチン、グダンスクすら無いポーランドなのだ。
例えば、1945年以降にフランスでモーリス・トレーズ率いる共産党が政権を握ったとしよう(有り得ないシナリオではない)。そして国をブルターニュ、アルザス・ロレーヌ、フランドル、コルシカ、オクシタニア等の民族共和国に分割したとしよう(1917年以降にロシアで起こった様に)。さて、1991年にフランス共産党の支配が崩壊し、それらの共和国が独立国家となったと想像してみよう。オクシタニアはフランス語を禁止し、ヴィクトル・ユゴーの像を取り壊してフレデリック・ミストラルの記念碑に置き換え、マルセイユの政府はパリに植民地支配とオック語の消滅に対する補償を要求し始めるのだ。
エマニュエル・マクロンがウクライナを支持する発言をする度に、彼は本当はこう自問すべきではないのだろうか、「オクシタニアの自由の為に私は何をしたのか?」と。
歴史に終わりは無い。ロシアはバラバラになった様に、再びひとつになることも有り得る。これは過去にも二度起きている———1600年代初頭の「苦難の時代」、そしてその後の1917年の革命後だ。このプロセスが不可逆的だと考えるのは間違いだ。ドイツとイタリアは千年もの分裂の末に再統一された。イスラエルが生まれ変わるのには二千年掛かった。
そして今、1991年の分裂から30年の歳月を経て、この流れが逆転しようとしている。それがこの先どうなるのか、誰に分かるだろうか?
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