
もう何年も前になるが、TVで一風変わったマジックショーを観たことが有る(当時私は自分用のTVは既に持っていなかったので、帰省した時に実家で観たのだ)。マジシャンが手品を披露した後、直ぐそのタネを明かすと云う趣向の番組だった。自分の飯のタネを自ら放棄するなんて、よっぽど新しいトリックを作り続けることに自信が有るのだろうかと思って観ていたのだが、その中のひとつにこう云う手品が有った。大勢の人が手を繋いで輪を作り、その中にヘリコプターが置かれているのだが、僅か数秒の間に、人々は依然として輪になっているのに、中のヘリコプターだけが忽然と消えてしまうのだ。タネはこうだ。視聴者の目が塞がれている間に人々は手を離して急いで少し離れた別の場所に移動して輪を作り直す。TVカメラは素知らぬ顔で角度を変えてそちらを映し、恰もヘリコプターだけがその場所から消えた様に見せ掛ける。何のことは無い、参加者もカメラも両方共犯者だった訳で、これは「手品を遂行するのはマジシャンだけ。参加者は何も知らされず、何が起こるのか解らないままマジシャンの指示に従っているだけの無垢な人々で、カメラは単に目の前の事象を公正明大に映し取っているだけ」と云う視聴者の暗黙の了解を利用したトリックだ。
タネを明かしてみれば全く単純な話だ。確かに言われてみれば、「参加者は無垢である」も、「カメラは中立である」も、どちらも何の保証が与えられている訳でもない、単なる思い込みに過ぎない。これまではその様なタイプのマジックショーばかり放送されていたと云う経験則は別に法で決められている訳でもなし、何処から何処までがトリックの領分に入るべきなのか、明確に定まったルールが有る訳ではないのだ。だがこの種の、視聴者の視野そのものの安定性を脅かす様なトリックは、編集を利用した昔の特撮(例えば古典的なのは、人の居る画像と人の居ない画像を繋ぎ合わせることによって、突然目の前の人が消える様に見える)の領域に半ば足を踏み入れている。だから従来のタイプのマジックショーに慣れた人々は何処かで「このトリックはずるい」と云う感覚を抱くことになる。
アガサ・クリスティーが1925年に
『アクロイド殺し』を発表した時も、「このトリックはフェアかアンフェアか」と云う論争が巻き起こった。大変有名な作品なので今更ネタバレを怖れずに解説してしまうと、この推理小説の犯人は物語の語り手―――伝統的に「ワトスン役」と呼ばれる役割の人物だ。確かにそのつもりで最初から読み返してみると、物語の記述は彼が犯人であることと論理的に矛盾を起こさない様に書かれているし、「ワトスン役は犯人であってはいけない」と云う決まり事が有る訳ではない。だが叙述形式そのものをトリックとして利用すると云う手法は当時は斬新なもので、物語が提示される枠組みの安定性を疑わなければ真相が掴めない、と云う事態は、読者の不安を掻き立てた訳だ。物語を安心して楽しむ為には、物語が提示される仕方そのものは無条件に疑い得ないものとして保証されていなければならない。天才クリスティーの思い付いたトリックは、このタブーに触れたのだ。
ワトスン役が敢えて読者に事実を伏せておき、後でタネ明かしをして読者をびっくりさせる、と云う叙述形式は今では珍しくないが、これは主にショックを与える為に使われるもので、純粋に推理を楽しむタイプの推理小説では、余程上手くやらないことには読者から「安易なセンセーショナリズムに走った」と非難されることも有る。この路線のひとつの極限とも言えるのが、アニメ化もされた同人ゲーム『ひぐらしのなく頃に』で、これは有名な
「ノックスの十戒」を悉く破ったと指摘されてネット上で話題になったのだが、この物語は推理の前提となるルールの枠組みが、物理法則も含めて物語の進展と共にコロコロ変わって行くので、読者はこれが推理小説なのか怪奇小説なのかSFなのか、途中まではそもそもどの世界観を選択したら良いのかに悩まされることになる。これは同じくSF的設定を使って推理(謎解き)小説を書いたアイザック・アシモフが、物語がどの様なルールの下で展開されているのかを読者に明示した上で叙述していたのとは大きく異なる。読者は「この物語にはどのルールが適用されるのか」と云うレヴェルで悩まなければいけないのだ。当然ながらここまでラディカルなトリックは汎用性が低い。物語を成立させるルール自体が「何でもアリ」と云うことになってしまうと、それは当然、物語自体を崩壊させる契機を否応無く孕むことになるからだ。
私達は世界の提示のされ方自体を疑わなければいけないと云う事態には慣れていない。世界は自明のものとして、在りの儘の姿で私達に与えられている、と云う暗黙の了解が、世界に対する私達の信頼を支えている。世界がどの様に提示されているかを疑わなければならない事態は、世界に対する信頼を損なうことになる。それは場合に応じて程度の差は有れ、私達の根源的な不安を呼び起こす。それは私達を世界との一体感から切り離し、文目も判らぬ虚無の中へと放り込む。一体何を信じれば良いのか解らない液状化した現代社会に於ては、人々はより一層、確たる不動の精神の拠り所を求めたがる。
人間の中にはそうした根源的な不安に耐えつつ、真実を探究する為の踏み台として疑いを思惟の根底に据えた者達が居る。
懐疑主義者達だ。世界を謎と見做す思想は古来から存在するが、世界の提示のされ方を主たる考察のテーマとして選んだ近代哲学の系譜は、主観性を巡る多様で豊穣な思索を生み出して来た。彼等は「世界は在りの儘の形で私達に与えられている」と云う通念に果敢に挑戦し、世界の深淵さ、組み尽くせなさ、不可知性と云った発想を様々な言葉で表現して来た。近年では認知科学や進化心理学等の立場から人間の認識の在り方そのものを自然科学的に問い直す試みも盛んで、
「私達が直知している世界は、世界の数多の有り得た解釈から偶々選び取られたひとつの選択肢に過ぎない」と云う知見は寧ろ有り触れたものになっているが、私は個々人によって生きられた生に於ける知を問題にしたいので、ここでは哲学の分野に話を限ろう。
近代に於ける懐疑主義の伝統が収斂したひとつの傾向は、「私達の知は所与の条件によって予め規定されている」と云うものだ。後期フッサールはそれを
「生活世界」、後期ウィトゲンシュタインは
「言語ゲーム」、トーマス・クーンは
「パラダイム」と呼んだが、「それ以上疑い得ないものを探究して行った結果、それ以上疑い得ないものとはデカルトの cogito の様な色も形も名前も無い一種の虚焦点ではなく、或る程度の広がりを持った一定の法則やパターンであることを、彼等は見出した。私達の知の在り方が今その様な形であることを予め定め、私達の思考が依って立つべきルールを決定しているもの―――それをどう表現するかは、どの様なコンテクストに於て問いを設定するのかに依っているのだが、それらは私達の意思によって左右される部分も有るが、基本的には私達自身の自由にはならないものであって、私達が気が付いた時には既にそこに与えられている諸条件だ。私は、私より大きな何かによって常に先取られている。世界はその「何か」によって具体的な背景が与えられることで、舞台の上で動くべ登場人物や筋書きを決めることが可能になり、そこで初めて日常生活の些細な行為から「科学」と呼ばれる高度に専門的な知の営みに至るまで、私達の知的・精神的活動が成立することになる。それ以上疑ったり読み解いたりする必要の無い無条件に信すべき前提は、空気の様に必須のものとして空気の様に不可視化される。そこに常に在って、それ無くしては一切が成り立たないが、そこに在ることを誰も改めて問い直そうと思わないものが設定されることによって初めて、「世界は透明に私達に与えられている」と云う信仰が可能になる。無の舞台の上には混沌しか無い。私達が登場人物や筋書きに集中している限りは誰も背景に注目したりはしないが、背景こそが舞台の上で起こる一切のことの意味を保証しているのであって、舞台裏についてあれこれ思いを巡らせる必要が無いことを観客に確約している。コンテクストは出しゃばってはいけない。自己主張は許されない。それは常に透明でなくてはならない。だがそれがあらゆるものを可能にしている。物自体は断念しなくてはならないが、そこでその都度生起するものとしての「事象そのもの」が、世界の豊穣性と多産性の担保となる。
私は今事実の話をしている(敢えて「真実」とは言うまい。私はアラン・ソーカルの言う
”Fashionable Nonsense”について語りたい訳ではないのだ)。極くシンプルな、最大公約数的に共有可能な現実としての事実、検証可能で触知可能で、法廷に持ち出して、理性有る者であれば万人が各自の権利に於てあれこれ議論することが可能な事実の話をしているのだが、巨大な嘘によってどう仕様も無く分断され切ったこの発狂した現代の世界に於て、近年益々顕著になって来ている傾向は、この背景の二極化だ。「それ以上疑い得ないもの」をどの辺りに設定するかについての、合意の不一致の拡大だ。
COVID-19パンデミック詐欺に於ける科学を取り上げてみよう。「科学」が具体的に何を意味するかは、人に依って実に様々だ。或る人にとってはそれは具体的なデータや論文によって裏付けられた検証可能な知見の集合体だが、別の或る人にとっては「科学の権威」がTVや新聞を通して大衆に伝達する屢々相矛盾する発言内容のことであり、また別の或る人にとっては官僚=ペーパードクターや御用学者が書いた根拠不明な作文のことであり、また別の人にとってはTVや新聞が切り取った情報に基付いて素人があれこれ弄り回す非論理的な想像のことだ。要するに各人が何を科学と見做すかは各人が各人の信条(或いはその欠落)に基付いて勝手に設定しているのであり、その人が科学だと思えばそれがその人にとっての科学となる。人々はスーパーの陳列棚から商品を選ぶ様に、科学の何たるかを各人のその時の気分や心情によって好きに選ぶことが出来る。まぁ一般人の科学についての認識とは元々そんなものだと言ってしまえばそれまでだが、この差異は現在巨大なプロパガンダ・マシンによって意図的に拡大され、遺伝子ワクチンを含む様々なCOVID-19「対策」への参与(マスクや社会的距離)という形で様々に可視化され、各人の日常生活にまで甚大な影響を及ぼしているので、事態は深刻だ。曾て科学哲学者のポール・フィイヤアーベントは科学とは
”anything goes(何でもアリ)”なのだと言ったが、ここまで野放図な「科学」、安っぽく叩き売りされるデタラメ放題の「科学」の登場など、果たして彼は想像出来ただろうか。
科学と宗教の関係は一枚岩ではなく安易な要約を許さないが、COVID-19詐欺は、一般人のみならず、科学的営為の実践や知見に対して比較的近くから関係している人々にとってもまた、科学の大部分は「信仰」と呼ぶのが相応しい様な信念から成り立っていることをこれまでに無く明らかにした(ユニバーサルマスクや遺伝子ワクチンを真面目に受け取っている公衆衛生当局者や医療従事者が何と多いことか!)。イアン・デイヴィス氏の
Pseudopandemic の区分に従えば、パンデミック詐欺は core conspirator と informed influencer と deceived influencer の3つの主要なアクターによって推進されているのだが、この deceived influencer―――アントニー・ファウチやニール・ファーガソンやクリスティアン・ドロステンの様な腐り切った御用学者連中の主張を真面目に信じているか、少なくとも信じている振りをしている人達の層が異常に分厚い様だ。彼等は一応専門的知識を持っていることになっているのだが、彼等は教科書に書かれていることを丸暗記して資格を取っただけの人であって、異端視されるのを覚悟で自ら情報をチェックする人は極く少数派に留まる。まぁ内心のことは解らないので、異常に気が付いてはいても自らの知性と良心を押し殺して表には出していないだけなのかも知れず、この辺の見極めは付け様が無いのだが、基本的に彼等にとっては上から「これが科学だ。疑問を持つな」と命じられたことが即ち科学を指すのであり、疑問を持つことは即ち異端の罪を犯すことなのだろう。敢えて個人の責任に於て知性と良心を発揮しようとする者には、解雇や免職や様々な特権や恩恵の喪失、そして「反ワクチン」「陰謀論者」と云うレッテルと云う有難くない贈り物が待っている。迫害を恐れる人々は、「それ以上疑うことの出来ない壁」を、意識的にせよ無意識的にせよ、自らの知性に到達可能な領域よりももっと手前に持って来る。
私達は科学が科学的事実の上に成り立っていると思っているが、私達が実際に知っていることなど極く僅かで、殆どは伝聞だ。それは各分野の専門家達が誠実に正直に研究を行い、超俗的な関心を持って真摯に研究を行い、論文を書いているのだろうと云う信頼に基付いている。が、その信頼は正確な現実認識に基付いているとは限らない。そもそも基となるデータが利益最優先の方針の下で捏造され、改竄され、「情報ロンダリング」の為の専門の業者が論文を濫造している現実など、殆どの人は知らない。政府や規制当局や研究機関がビッグファーマと癒着し、医療従事者達が日々あの手この手で洗脳され懐柔されている実態など、TVや新聞は殆ど報じない。科学が組織的に政治化され歪曲されていることが、発表される「科学的知見」にどれだけ影を落としているかなど、私達には殆ど知り様が無い。教科書や政府のガイドラインに書かれていることを鵜呑みにすることで事実を勉強することが出来ると信じている人達は、「科学は私達に対して透明に与えられている」と云う前提そのものを疑ってみたことが無いし、往々にして疑うと云う選択肢が有り得ること自体を想像出来ない。彼等の想像力は上から落とし込まれた枠組みの中でだけ発動する。そうでなければ、同じ枠組みの中でしか活動していない他の人々と波長を合わせることが出来ない。事実に固執して唯一人立つことを怖れない態度は、取り敢えず周囲の合意に合わせることによって生活を成り立たせている大衆にとって馴染みの有るものではない。
(今は嘘に騙されている人の方が圧倒的多数派だ。だが嘘によって科学を捻じ曲げている連中のしていることは、長期的に見れば科学に対する人々の信頼を損なう所業に他ならず、既に気が付いている者達にとっては、世界が酷く不透明であると云う不安を掻き立てることになる。
キャリー・マリスはファウチがパンデミック・ビジネスの為に科学を殺した時に泣いたが、同様に私達は科学がすっかり資本主義化されている現状を憂い、嘆き、泣くべきだ。そして知性と良心を持つ人々であれば、正気を保ちたかったら疑念を持ち続けることを要求される現実について、激怒すべきだ。)
私達は何処かの地点に於て、それ以上疑うことを止めるコンテクストに着地する。それはその人の信条や性格や思考パターン、その時々の気分や傾向、その人の周囲を取り巻く環境や雰囲気に依って様々だ。だが最大公約数的に事実の権威としてその地位を確立しているものの代表格である科学からして、今はこの有様だ。同様の嘘としてはCOVID-19パンデミック対策と地続きの気候変動/SDGs詐欺が有るが、それらは科学と偽ったマントの下に、資本主義再起動計画の底意を隠している。だが大半の人(この種の普遍的な価値観にコミットする嘘に騙されるのは、伝統的な左派が多い様だ)にとってはそのマントはそれ以上疑う必要の無いものとして現れている。不透明なものを見なければならない所で、「何も隠されてはいない」と云う信仰が、真摯な知的探究の営為としての科学を静かに、しかし深く、悪意を込めて侵食している。疑わなくてはいけない時に疑いを放棄することによって、長期的には世界への根源的な信頼が徐々に崩壊へ向かって行くことになる。
私達は事実の領域を再設定しなければならない。私は形而上の話をしている訳ではない。私達から世界を隔てようとし、世界に対する私達の根源的な信頼を脅かそうとする様々の形而下的な、往々にして明確な悪意を秘めている嘘と戦わなくてはならないと言っているだけだ。だが殆どの人々は事実を求めない。恣意的で非合理的な、しかしどうやら魂の飢えを満たしてくれるらしい巨大な嘘の物語を、彼等は求め続ける。彼等は与えられた視野の外側を想像することを、檻の中から自らの意思で出ることを拒否する。舞台を、枠組みを、お膳立てされた世界観を疑うことを頑なに拒み続ける。それはもう、疑うことを知っている者の目から見ればカルト信者か何かの様に。
所与の対象や所与のカメラフレーム自体が恣意に設定されているのではないかと疑う者は、昨今では
「陰謀論者」と罵倒される。私はその様な言葉を使う思考停止した人々のことを「陰謀否定論者」と呼んで来たが、彼等の殆どは「論」と呼ぶ程立派な持説を持ち合わせてすらいない。彼等は基本的にTVや新聞と云ったプロパガンダメディアが広めている公式の物語(ナラティヴ)をその儘鸚鵡返しにしているだけで、現実に対するそれとは違う説明には悉く脊髄反射的に拒否反応を示す様になっているだけだ。現実が、自分が信じているのとは別の形の解釈を許す余地が有ると云う可能性を想像することが、彼等には耐えられないのだ。それは
「陰謀論」と云う言葉の元々の使い方―――JFK暗殺の真相についての、公式の物語とは違う解釈を提示する異論に否定的なイメージを持たせ、議論を拒絶させること―――にも適っている。議論や懐疑は現実が透明に与えられていると云う信頼を脅かす。何を信じたら良いのか解らない巨大なショック・ドクトリンの舞台に放り込まれた人々は、尚更
劇場のイドラ(権威による先入見)や市場のイドラ(伝聞による先入見)に頼りたがる。
ウクライナ紛争は西側諸国では2022年2月24日に、プーチンによっていきなり始められたことになっている。ロシア軍の特殊軍事作戦は「軍事侵攻」」と呼ばれ、それまでに起こった一切のこと―――2014年の米帝による違法で暴力的なクーデター、再起動させられたナチによるロシア語話者市民に対する組織的な迫害、ドンバスに対するジェノサイド、ウクライナ政府による度重なるミンスク合意の不履行、ウクライナの内政問題として穏便に事態を収拾しようとして来たウクライナやNATOや国連に向けたプーチンの努力、ウクライナとジョージアに設けられたペンタゴンのバイオラボに対するモスクワの抗議、2022年1月の時点で2月一杯でドンバスに対する攻撃準備を終わらせよとのウクライナ軍の秘密指令、弾圧激化に関するウクライナの野党議員の警告、2月16日に始まるドンバスに対するウクライナ軍の砲撃の激化、2月19日のミュンヘン保障会議に於ける核開発を仄めかすゼレンスキーの発言等々―――は、あっさり「無かったこと」にされている。設定された枠組みの中では、何かよく解らないが狂った野心に取り憑かれたプーチンが嘘によって自国民を洗脳して戦争を支持させ、ロシア軍に命令して罪の無いウクライナ人の生活と国土を破壊し、血も凍る様な戦争犯罪の数々を繰り返させたことになっている。この枠組み自体を疑うことを知らない西側市民の圧倒的大多数は、情報統制されて事実を知らされず、大量の大規模な嘘によって洗脳されているのが自分達の方であると云う可能性など思い付きもしない。それまでのインプットが少な過ぎるので、別の解釈の可能性が有り得ると云うことを想像出来ない。辻褄の合わない部分や矛盾する部分、よく解らない部分―――つまり認知的不協和を引き起こす可能性の有る部分は、合理的な疑いによってではなく全て「プーチンは狂っている」「ロシア軍は野蛮な犯罪者集団」と云う、理解不能な絶対悪が存在すると云う想定によって乗り越えられることになる。
このパターンは他の絶対悪―――冷戦/新冷戦プロパガンダに於ける中国やロシアの権威主義的独裁国家、COVID-19パンデミック詐欺に於ける恐怖の殺人ウィルス、気候変動詐欺に於ける地球に優しくない人為的二酸化炭素排出―――についても同様だ。あらゆる謎は、通常の理解を超えた不可解な悪を設定することで、極く単純な善悪二元論に還元される。ブッシュJr.が全世界を米帝の味方とテロリストの味方に二分した時には、公然と呆れ果てる人が大勢残っていた。だがそれから20年経った現在では、それよりも更に狂った二元論や還元主義が、更に多くの人々によって熱狂的に支持されている。私達はこの事態をどう理解すれば良いのだろうか。まるで「私達はこれ以上疑念を要求されることには耐えられない。現実の複雑さ、微妙なニュアンスや割り切れなさに我慢が出来ない!」と全世界が絶叫しているかの様だ。
ハリウッド映画に端的に見られる様に、先進諸国の人々はこの数十年であからさまに
幼稚化した。大勢は解り易く明示的でそれ以上行間を読んだり解釈や疑念を差し挟まなくても飲み下せる、スナック菓子や流動食の様な安易な情報へと流れる。トリックを見破る為に努力するより、「トリックなど存在しない。世界は無条件で在りの儘の姿で私達に与えられている」と思考停止した方がラクだし快適だ。ニール・ポストマンが
”Amusing Ourselves to Death(愉しみながら死んで行く/自分達を愉しみ殺す)”と云う言葉で、政治や歴史やニュース等の真面目に受け止めるべき話題がTVによって悉く娯楽へと還元されて行く事態を警告したのは1985年のことだが、人々を安逸の海の中へ沈める小道具、オルダス・ハクスリーの
『素晴らしき新世界』に出て来るソーマに該当する技術は更に多様化して私達の日常生活の中に浸透している。理性や懐疑的精神は最早歓迎されない。人々はその時その時に与えられる刺激に反応しているだけだ。与えられた画面の中で展開される手品に驚いているだけでも日々をやり過ごすことは出来る。
盲目的な、しかし誘導された衝動が社会を支配している。呆れ果てた極く少数の人々は嵐の中で空しく叫んでいる。
霧の中に象が立っている。私達にはその全容を一時に見渡すことは出来ない。だがおずおずと、畏敬の念を持って、恭しく私達は手を差し伸べ、それが何であるかを知ろうとしなくてはならない。事実が大事だと思うなら、不透明な世界に耐えなければならない。騙されるのが嫌ならば、霧の中に足を踏み出さなければならない。捏造された世界の終わりを叫ぶコーラスに参加して後世の人々から「何故この時代の人々はここまで信じられない様な狂気にあっさり陥ってしまったのだろう」と呆れられたくなければ、異端者と指を差され、時には石もて逐われることを覚悟せねばならない。私達はカメラフレームを、与えられたコンテクストを、自明のものとして問い直されることの無い背景を相対化する勇気を持たなければならない。巨大な嘘が大量に跳梁跋扈する時代に正気を保ち続けたかったら、それ以外に方法は無い。