土下座会見に見る眼差しの帝国

北海道斜里町の知床半島沖で乗客・乗員26人が乗った観光船「KAZUⅠ(カズワン)」が行方不明になった事故について、「知床遊覧船」の桂田精一社長が行った謝罪会見には多くの怒りや違和感の声が寄せられた様だ(例えばこの会見の発言が如何に不適切な会見であったかの分析がわざわざ記事になる程に)。私は元々この種の会見は大嫌いなのだが、今回はこの社長が余りにも口下手だった為か広く反発を引き起こすことになった様で、これ自体は正常なことだと思う。
大勢の人々が亡くなった事故に対して「お騒がせしまして大変申し訳ございません」と云う第一声は余りに軽々しいものだったし(この表現は通常はもっと深刻でない事態に際して使われるものだ)、「結果的には」自分の判断は誤っていたと云う言い草は、暴言や失言の謝罪会見で多用される「誤解を与えてしまった」と云う表現と同じだ。「誤解」云々とはつまり、自分の真意が正しく伝わっていれば自分は責められることは無かった筈なのだが、周囲が勝手に「この発言はタブーに抵触する」と判断してしまった為に、止む無くこの様な形でこれ以上自説に固執する気は無いことを世間様に周知せねばならなくなった、と云う底意が透けて見える表現で、実のところ謝罪と云うより自己保身の為の言い訳だ。自分が謝罪を要求される事態に陥ったのは偶々結果的にそうなっただけであり、「誤解=本来の意味とは異なった解釈をされてしまった」だけなのだと切り捨てることで、純粋な本来の自分は無傷の儘に保たれる訳だ。「結果的に」判断を誤ったと云う表現もこれと同類で、判断を下した時点ではそれが正しかったか誤っていたかははっきり言えないのだが、事故と云う結果が起きてしまったことで誤っていたことになってしまっただけなのだ、と云う底意が透けて見える。
「基本的に船のどの会社も最終的には船長判断だと思います」と云う発言から推測するに、昨今の不況を考えると当時の状況はグレイと見做されるべきだったのであって、似た様な危ない橋を渡る行為は他の会社だって散々やっている筈だ、と云うのが社長の本音だったのではないだろうか。それは現状認識としては恐らく間違ってはいない。事故にならない手前で踏み止まったお陰で表面化しなかったケースはこれまでも無数に有る筈で、その意味では今回のケースは何も特別なものではないのだろう。偶々「危ないところだった」では済まずに、一線を踏み越えてしまっただけとも言える。但しこの社長は踏み越えてしまった後のことを恐らく何も考えていなかったので、お茶の間の素人にもはっきり解ってしまう程杜撰な対応しか出来なかった、と云うところだろう。
何もこの社長を庇う訳ではないが、他の人ならもっと上手い対応が出来たのかと云うと、私は必ずしもそうだろうとは思わない。昨今コンプライアンスがやかましく言われるのは、この国の大勢を支配している昭和のおっさんと云うものが基本的にリスク管理や安全確保、人々の健康や福祉と云うものに無頓着であって、何か起きてしまった時のことを全く考えずに生きているのがデフォだからだろうと思う。上から与えられた命令であれば従う。罰則や報酬や管理手順が厳しく定めされていれば積極的に従うかも知れない。緩ければ適当に状況の応じて臨機応変に柔軟に対応するかも知れない。後はその時々の空気に応じて最大限の儲けを出せるように努力する。従業員や顧客は利益に繋がる限りに於てのみ意味を持つ存在であって、こっちだってとにかく食って行かなきゃならんのですからね、法令遵守とか人権尊重とか御立派なことを言うのはその後なんですよ、と云う訳なのだ。
それで何か被害が出た時のことは基本的に考えない。そうした都合の悪い可能性は「想定外」として想像の埒外に置いてしまえば良い。それが仮令危ない綱渡りであっても、落ちない限りは問題無い。メルトダウンするまでは原発は絶対安全なのだ。被害が広く知られない限りは、遺伝子ワクチンやユニバーサルマスクや各種非医薬品介入だって全く問題無いどころか、寧ろ人々の命と健康を守る為に必要なことなのだから積極的に推進するべきなのだ。だって「皆」それで問題無いと思っているし、それが事実に合致しているのかは誰も(極く一部のおかしな陰謀論者達を除いては)関心を持たないし、関心を持たれない限りはその問題は存在しないのと同じことなのだ。ナチによるドンバスの虐殺だって、TVや新聞が全く報じないのだから起きていないのと同じことにされているではないか。「流れ」が、「空気」が、「皆」の認識が変わるまでは、問題は存在していなかったことにされる、それが後期資本主義社会に於けるこの国の現実なのだ。問題は存在していない訳ではなく、目を逸らされているだけ、不可視化されているだけで、常にずっとそこに存在し続けている。そしてそれがいざ表面化する時、それは途方も無く無様でみっともなくて見当外れで要領を得ないものになる、今回の会見の様に。
桂田社長は誰に対して土下座をしたのだろう? 遺族でないことは確かだ。遺族へ向かって土下座をする光景をマスコミが中継したのではない、彼は誰かよく判らないが対象を特定せずにとにかく謝罪のポーズを示しただけだ。この時の彼を突き動かしていたものは何だっただろう? 運営・管理責任者としての自身の職業倫理だろうか? 判断ミスについての道義的責任だろうか? 遺族に対する自責の念だろうか? そのどれもだった様には私には思われない(遺族との遣り取りを見ても、彼が誠実な対応をする様な人であると云う印象は受けない)。彼は不特定の目に見えない何か、今その瞬間に自分を取り巻いている周囲の不定形の眼差しの集合体、マスコミや当局や遺族や世論等によって具現化されることになる所謂「世間様」と呼ばれる得体の知れない空気に向かって話し掛けていたのだ。何について? 「お騒がせ」したことをだ。自身の責任に於て大勢の人命を奪うことになったことではない、予定調和に満ちた世間様の空気を不用意に掻き乱したことを彼は謝っていた。お怒りをお鎮め下さいと土下座する彼の姿は、人に対するそれではない、人智を超えた荒ぶる神を鎮護しようとする信仰者のそれだった。彼は世間様の秩序に対して低姿勢に恭順の意を示すことによって、自分に「罰」が与えられるのを回避しようとしたのだ。それは一種の呪術だった。
さてそれで、その呪術的パフォーマンスはその場に於ては本当に不適切なものだったのだろうか? 自分達の身の丈に合った事件で、相手が叩き易い小物だったからだろうか、大きな問題に関しては嘘ばかり吐いているマスコミは、挙って長時間を割いてこの会見を取り上げていた様だが、そもそもそれらの見せ物は合理的で責任有る個人の登場を望んでいるものだろうか? 昨今では個人の責任に於て合理的な発言をする者はマスコミでは全く歓迎されないではないか。それらの「報道」と称するものは批判的思考や懐疑精神を欠いた視聴者や読者に、個人を超えた神の視点を提供する為の娯楽ではないだろうか? 小さな悪は大きな悪の存在を大衆に見逃させる為のガス抜きとして屢々利用されるが、この会見は正にその様な役割を果たしている。あれは無知な大衆の理解の及ぶ悪だ。論理的な行間を読む能力を持たぬ者でも全力で批判出来る、手の届く手頃な敵だ。不満を抱えた視聴者や読者が咬み付くことの出来る、食べ易い獲物だ。桂田社長叩きで盛り上がるマスコミと、それを無批判に支持する人々を見て、私はエサに群がる池の鯉を連想した。
合理的な観点からすれば意味が無く、批判的精神の持ち主にとってはひたすら不快でしかない呪術的パフォーマンスは、実は昨今は至る所で目撃することが出来る。解り易い例を挙げればユニバーサルマスクや社会的距離や外出自粛等のコロナ「対策」だ。厳密に言えばあれは感染症対策ではなく、あれを感染症対策だと信じている人達の眼差しに対する対策だ。この眼差しを担っているのが誰なのかは、実は一般に思われている程はっきりしていない。2020年の2~3月頃から言うことを180度変えた御用学者達が一応科学的な担保を与えてくれているのだろうと云う暗黙の合意は存在するが、科学的には無意味なガイダンスを律儀に遵守している人達は、必ずしもそうした「権威」から下される審判を気にしている訳ではないだろう。寧ろ具体的には特定の諸個人によって代表されはするが、これらの胡散臭い詐欺師達の主張を真に受けている人達が圧倒的多数派なので、「出る杭」になってバッシングを受けないようその状況に合わせている人達が、結構な割合で存在する。彼等が信じているのは科学的事実ではなく世間様の眼差しなので、ルールの遵守の仕方にも或る程度融通が利かせられる(その時の状況に応じて法令遵守をどの程度遵守するかを選択した桂田社長の様に)。
彼等はそれらのルール遵守が引き起こす様々な被害、特にそれらが個々人ではなく集団で行われた場合に引き起こされる甚大な被害に対しては、基本的に無関心だ。無知だと言っても良いが、彼等にとってはそれは抽象的な可能性の領域の話に過ぎないので、想像力が追い付かないのだ(事故が起きた時のことを想定していなかった桂田社長の様に)。広く浅く静かに進行する被害は彼等にとっては触知不可能なものも同然で、従ってそれは存在していないのと同じことになる。COVID-19ワクチン接種は間違い無く記録史上最大の医原性災害(薬害事件)なのだが、TVや新聞が報じなければそれは彼等にとっては起きていない。何か決定的なカタストロフが明らかになって「皆」が騒ぎ始めるまでは、健全な懐疑心を持って事実をチェックする様な「陰謀論者」的姿勢は寧ろ不道徳で非難すべき愚かなものなのだ。世界は透明で、世間様から与えられた通りに受け取って構わない素直で不協和音の無い純粋さを備えたものとして調和を保っている。「世界は不透明で嘘だらけだ」と云う、難解で不愉快な現実を指摘する者達は、その調和を掻き乱す悪だ。その偽善的な調和の水面にさざ波が立っている様に見えていない限りは、それが完全な世界の在るべき姿なのだ。最早誰にも誤魔化し様の無い形で「事故」が発生するまでは、偽善に対する恭順こそが褒むべき大人の倫理的態度なのだ。
「世間様」は個人の顔を持たない。明確な輪郭も、変わらぬ声も持たない。審級としての他者は、ここでは普遍の原理を持たない。遡及すべき原則は、それはその場その場の空気によって決定される、極めてコンテクスト依存的なものなのだ。それは不確実性の波の間に間に漂っているだけの大衆には心地が良いし、緩慢な経済的ジェノサイドに追い立てられる自分の生活とマスコミが日々詰め込んでくるゴミ情報だけで満杯になっている頭には、自分達を閉じ込めている認知的檻を超越した超時間的合理性について考察する余裕など有りはしない。人間は合理的であり得るが、そうなる為には或る程度の精神的ゆとりが必要だ。そしてそれは今や自覚的に追求しなければ容易には手に入らないものになっており、周囲には気を散らす材料が幾らでも転がっている。抵抗の芽は簡単に摘み取ることが出来るのだ。冷静に考え始めた途端、人々は猛烈な情報攻撃によって自立した個人であることを諦めてしまう。人は自分とは異なるコンテクストに置かれた他人の狂気は容易に見抜くことが出来るが、その他者が存在せず、誰もが同じコンテクストで同じ狂気に取り憑かれている時、目の前の状況から一歩身を引いて想像力を働かせられる者は異端者であり不信心者であり、排斥されるべき非国民と化す。何かの綻びによってそのコンテクストの自明性が失われた時になって初めて、彼等は自分が今まで置かれていた状況の異常さに頭を働かせ始めるのだ。
私達は眼差しの帝国の圧政下で生活している。だがこの眼差しには超越的な審級は無い。その場その場の同調圧力(この際「共同幻想」と言い換えても良い)によって、諸事実(科学的、物理的、生物学的、法的etc………)と一致しているかどうかに関係無く基準は決定される。この予定調和が何等かのカタストロフによって破綻を来すまで、疑問や批判は歓迎されない。問題が不可視化され続けている限り、それは「それで上手く行っている」ことになる。それは極く有り触れた当たり前の現実であり、思考停止した後期資本主義社会が長年の愚民化政策によって手に入れた輝かしくも悍ましい成果だ。本当に、それは全く特別なものではない。ハクスリーが『素晴らしき新世界』で描いた世界は、もう疾っくに私達のものなのだ………。
桂田社長が被害者遺族を始め、大勢から非難を受けているのは当然だと私は思う。だが「この人だけが特別なんじゃない、似た様なことをやっている連中は他にも沢山居る。今彼を非難している人々の中にも、同類は大勢居るんじゃないか」と言いたくなる。今コロナ対策や対ロシア制裁を盲目的に信仰し、それらのリスクについて一切調べようとしていない大人達は、果たして将来、次世代に対して土下座する用意は出来ているだろうか? いざ結果を突き付けられた時、彼等は「結果的には」当時の判断は誤っていたかも知れないが、当時はそんな可能性は思い付かなかった、他の人達だってやっていた、と言うしか無いのではないだろうか? この海難事故によって26人もの命が失われた。だが「たったの」26人だ。それよりも遙かに多くの人命が失われているドンバスの、イエメンの、アフガニスタンの、パキスタンの、シリアの、ロックダウン政策や対ロシア制裁によって甚大な経済的被害を被っているグローバルサウスの、或いはCOVID-19ワクチン接種が行われている世界各国の状況に、一体どれだけの人がそれに相応しいだけの関心を払っているだろう? しかもこれらの被害は単なる判断ミスによる事故ではなく、紛れも無く悪意を持った加害者達によって引き起こされている意図的な犯罪に他ならない。海難事故よりも遙かに大きな諸問題を「存在しない」ことにして生きている人達が桂田社長を非難する光景に、私は強い偽善を感じる。少なくとも現代社会の諸問題の根幹を支えるマスコミに、桂田社長を責める資格は無いと私は思う。全く、反吐が出る様な光景だ。昨今では誰も鏡を覗き込んでみたりしない………。
スポンサーサイト