責任回避したがるコロナカルト信者達
2021/05/22(土)の呟きより
コロナカルト信者と話していて気が付くことのひとつは、彼等の多くは屢々執拗に一人称を回避したがると云うことだ。
「政府がそう言っていますから」「ルールで決まっていることですから」「あなたが○○なので私も○○せざるを得ない」等、「私が私個人の責任に於てそう判断し行動している」と云うニュアンスの表現を大変に嫌う。
それで会話の筋道が成り立たなくなってしまってもお構い無し。彼等は壊れたレコードの様に、自分の判断の責任をひたすら他者に転嫁したがる。
彼等は恐らく自分の判断に絶対的な確信を抱いている訳ではない。寧ろ何を信じて良いのかさっぱり分からないから、取り敢えず権威や多数派の命じるところに従っているだけなのだろう。
自分の判断の根拠が実はあやふやで危ういものであることから目を背け、判断を他者に丸投げしていると云う現実を必死で否認したがっている。
そうでなければ、公の物語に逆らう異分子に向けるあの異様なまでの敵意や、現代版非国民狩りに向ける不可解な情熱は説明がつかないだろう。
彼等は自信が有るから声高に自説を他者に押し付けたがる訳ではない、自信が無いからこそ、異端の声に対して耳を塞ぎ、自分の判断が絶対無謬のものであると云う幻想にしがみつかなければならないのだ。
それは社会的恐怖に根差す傾向であって、「唯一人、実存として立つ」と云う不安から逃れようとする逃避行動の一種であろうと思う。
根本的には彼等は巣鴨のA級戦犯達と同じ精神性を持っている。独立した個として自らの生を引き受け、その言動やその結果に対して個人として責任を持つことを極端に怖がっているのだ。集団に埋没していたいのだ。
集団こそが自分の存在と行動に根拠を与えてくれると云う信仰にずっと酩酊していたいのだ。自分の存在を何かより大きな他者が引き受けてくれることに望みを繋いで生きているのだ。
彼等が必ずしも悪意有る存在だとは私は考えたくない。彼等は自分達が騙されていたと云う現実を直視し、自分達が信じていたものに実は根拠が無かったと云う世界観の動揺を受け止め、事実と理性を頼りにして軌道修正に向けて試行錯誤するだけの精神的なキャパシティが無いだけだ。
それは無能力や精神的未発達の問題であって、必ずしも選択された悪意と見做すべきものではない………。
だが悪意とは、世界の豊穣さを否定して自らが恣意的に用意した狭い枠の中に押し込め、溢れ出る余剰を認めず、ベッドの長さに合わせて寝る人の足を切り落とす様なことをする意志のことを言うのではないだろうか………。
ここで私は躊躇う。彼等は邪悪なのだろうか、それとも偶々全体主義の渦の中に巻き込まれて自力では脱出出来ないだけの、無力な子羊なのだろうか………。
コロナカルト信者と話していて気が付くことのひとつは、彼等の多くは屢々執拗に一人称を回避したがると云うことだ。
「政府がそう言っていますから」「ルールで決まっていることですから」「あなたが○○なので私も○○せざるを得ない」等、「私が私個人の責任に於てそう判断し行動している」と云うニュアンスの表現を大変に嫌う。
それで会話の筋道が成り立たなくなってしまってもお構い無し。彼等は壊れたレコードの様に、自分の判断の責任をひたすら他者に転嫁したがる。
彼等は恐らく自分の判断に絶対的な確信を抱いている訳ではない。寧ろ何を信じて良いのかさっぱり分からないから、取り敢えず権威や多数派の命じるところに従っているだけなのだろう。
自分の判断の根拠が実はあやふやで危ういものであることから目を背け、判断を他者に丸投げしていると云う現実を必死で否認したがっている。
そうでなければ、公の物語に逆らう異分子に向けるあの異様なまでの敵意や、現代版非国民狩りに向ける不可解な情熱は説明がつかないだろう。
彼等は自信が有るから声高に自説を他者に押し付けたがる訳ではない、自信が無いからこそ、異端の声に対して耳を塞ぎ、自分の判断が絶対無謬のものであると云う幻想にしがみつかなければならないのだ。
それは社会的恐怖に根差す傾向であって、「唯一人、実存として立つ」と云う不安から逃れようとする逃避行動の一種であろうと思う。
根本的には彼等は巣鴨のA級戦犯達と同じ精神性を持っている。独立した個として自らの生を引き受け、その言動やその結果に対して個人として責任を持つことを極端に怖がっているのだ。集団に埋没していたいのだ。
集団こそが自分の存在と行動に根拠を与えてくれると云う信仰にずっと酩酊していたいのだ。自分の存在を何かより大きな他者が引き受けてくれることに望みを繋いで生きているのだ。
彼等が必ずしも悪意有る存在だとは私は考えたくない。彼等は自分達が騙されていたと云う現実を直視し、自分達が信じていたものに実は根拠が無かったと云う世界観の動揺を受け止め、事実と理性を頼りにして軌道修正に向けて試行錯誤するだけの精神的なキャパシティが無いだけだ。
それは無能力や精神的未発達の問題であって、必ずしも選択された悪意と見做すべきものではない………。
だが悪意とは、世界の豊穣さを否定して自らが恣意的に用意した狭い枠の中に押し込め、溢れ出る余剰を認めず、ベッドの長さに合わせて寝る人の足を切り落とす様なことをする意志のことを言うのではないだろうか………。
ここで私は躊躇う。彼等は邪悪なのだろうか、それとも偶々全体主義の渦の中に巻き込まれて自力では脱出出来ないだけの、無力な子羊なのだろうか………。
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