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右とか左とか、もうホントにどうでも良いわ。

2021/01/15(金)の呟きより。

COVID-19パンデミック詐欺に於て、従来右派に分類されて来た人々が政府や保健当局の公式の物語に疑問を抱く様になって来ている。

左派に分類されて来た人々は寧ろ当局の権威や無責任なマスコミ報道に全く疑問を持たず、公式の物語を全面的に抱擁し、社会全体の収容所化を手放しで賞賛するばかりか、寧ろもっと厳しく全体主義化しろと要求している。

グローバル・パワーエリート層が紡ぎ出す物語の現実認識構築能力の前では、右だの左だのと云った区別は二次的な重要性しか持たないのだと痛感する。「普通の日本人」の言い草を真似る様だが、右も左も最早全くアテにならないのだ。

分類等に最早意味は無い。先へ進めるのは、真実に固執し続ける人々、歪められた現実認識を自力で何とか修正しようと足掻き続ける人々、権力者達の嘘に騙されまいと、試行錯誤を繰り返しながらも日々努力する人々だけだ。
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COVID-19と云う名のタマネギの皮を剝いてみる。

2021/01/13(水)の呟きより。

・臨床診断のみに基付いてCOVID-19かどうかを判断することは出来ない。

・COVID-19に特有の症状は存在しない。COVID-19に有って他の呼吸器疾患には無い症状は存在しない。COVID-19と他の呼吸器疾患の症状(外見)は同じである。

・COVID-19と他の呼吸器疾患を区別するにはPCR等の検査をするしか無い。逆に言えば、検査を行わなければ、COVID-19と他の呼吸器疾患の違いには誰も気が付かない。

・PCR検査も抗原検査も精度は極めて低く、高い確率で偽陽性反応を出す。

・そもそも両検査とも、問題となるウィルスそのものを検知する訳ではない。他のウィルスやバクテリア等にも反応する。

・SARS-CoV-2(のみ)がCOVID-19のものとされる諸症状を引き起こす原因であると云う証拠は無い。

未確認ウィルスSARS-CoV-2なる空虚な核の周りに、「殺人ウィルスによるパンデミック」なる巨大な虚像が形作られるカラクリの骨子を説き起こしてみると、こんな感じになるのではないかと思う。正に「検査によって捏造されたパンデミック」だ。

理屈の楽しさを知らない人達。

2021/01/01(金)の呟きより。

「理屈」を毛嫌いする人種が居る。「世の中理屈じゃない」「そんなのは理屈だ」と云う感じに、論理的に相手に反論する能力を持たない人達は、往々にしてちゃぶ台返しをして論理的思考を拒否し、権威や情動等のドクサに訴えたがる。

論理的に考える訓練を積むのは楽しいことだ。色々なことが解る様になるし、思考の選択肢が広がるので視野も広がり、想像力も培われ、寛容な精神を育むことにもなる。こんな楽しいことを自ら放棄する人達は、折角ホモ・サピエンスに生まれついた機会をむざむざ逸していると思う。

彼等は恐らく理屈と屁理屈の区別が出来ない様な生活環境で育って来たのではないだろうか。論理的な思考によって世界を解明し広げる楽しさを知らないまま大人になってしまったのではないだろうか。

個人的には、自ら狭い檻に自分を閉じ込めている様な彼等の態度を気の毒に思うことも有る。だがその種の人間にあれこれ指図を受けねばならない状況に落ち込んだ時には、正直堪ったものではないと思う。

(現象として)「コロナは風邪」と言って何か問題が?

2020/12/28(月)の呟きより。

基礎からお浚いしておくと、コロナウィルスは毎年の10〜20%程度の風邪の原因となっており、時に多少の被害を齎すことも有るが、人類とは概ね平和的に共存している。「コロナは風邪」はこの意味では隠謀論でも何でもなく、単なる一般的な科学的事実。

新型のコロナウィルス(と言われている)SARS-CoV-2は従来のコロナウィルスとは違うと言われているが、感染致死率や感染拡大の推移を見る限り、これも従来型と大差無いことが判っている。

今までの毎年の風邪もCOVID-19の様にPCR検査を使って検知したら、恐らく今の状況と似た様な結果が出る(今まで誰もそんな無意味なことをやらなかったから判らなかっただけ。マスコミの誤報道を鵜呑みにしている人達は恐らくその辺が酷く混乱している)。

従って「COVID-19は風邪の一種であり、リスクは従来の風邪と大差無く、対策としてすべきことは今までの風邪対策と同じである」と云う結論が導かれる。

「天安門事件」がやっぱり嘘だった件について。

2020/12/23(水)の呟きより。

私が「天安門事件」の真相の概要を知ったのは極く最近のことだが、実を言うとそれ以前から疑念は抱いていた。何せ決定的証拠と言える映像や写真が、大量に有って然るべきなのに、何故かひとつも存在しなかったからだ。

だから私は「TVや新聞は虐殺が有った有ったと騒いでいるけれども、実のところは何だかよく解らないこと」に事件を分類して、長年判断を保留していた。だから真相を知った時にも私の反応は「ええーっ、まさかぁ」ではなく、「あーやっぱりね。これでやっと合点が行った」だった。

メディアの権威よりも自分の目と耳で確かめたこと、自分自身の素朴な直観の方を信じた結果な訳で、この点で私は昔の自分を褒めてやりたいと思う。

「仮令予備知識はそれ程無かったとしても、懐疑する精神、現実を吟味する精神を持ち続けてさえいれば、見抜ける嘘は多い」と云うのは昔からの私の信念の様なもので、実際この様に、与えられた情報を鵜呑みにしないだけで、大きな嘘を見破ることに繋がることも有る。

「メディアの権威が信じられなければ、一体何を信じたら良いんだ。もう何も信じられない!」と云う泣き言や皮肉を時々耳にすることも有るが、絶望したり嘲笑したりする必要は全く無いと思う。自分の判断を信じれば良いのだ。最終的に頼りに出来るのは結局それしか無い。

誰かが安直で解り易い答えをタダで与えてくれるのを口を開けて待っているのを少し我慢しさえれすれば、もっとずっと色鮮やかで可能性と謎と驚異に満ちた世界が開けて来る。それはより寛容さに溢れた世界だろうし、生きててより面白い世界ではないかと思う。

政府の無能と無責任にこそ感謝すべき倒錯。

2020/12/20(日)の呟きより。

2011年の3.11後、政府やマスコミは科学的根拠の無い「安全・安心」を人々の心に植え付けようと最大限の努力をした。2020年の3.11後は真逆で、科学的根拠の無い恐怖を植え付けようとしている。方向性は真逆だが、本質は同じ、自分達の権力の維持・強化、そしてショック・ドクトリンだ。

にしても、安倍=菅政権がGoToなんぞと騒いでいるのは、英独仏等の様に確信犯的にロックダウン政策を進めている国々と違って、世界的な趨勢に渋々従っているだけなのだからなのだろうな。ダボス階級の企みに日本政府の連中は呼ばれていなかったか? 安倍外交による国際的な地位低下の影響がここにも。

安倍政権の外交的無能と、科学の権威を屁とも思わない幼稚さのお陰で、日本ではロックダウン政策による被害が今の程度で済んでいる。安倍がCOVID-19問題を低線量被曝の問題と同じ様に「解決(即ち検査せず実態を調査せず国民に情報を与えないことによって問題を不可視化する)」しようとしたお陰だ。

安倍がもう少し頭の回る人物だったら、COVID-19「対策」による経済的被害や健康被害は今よりずっと酷かった筈だ。私達は最早、政府の有能さや責任感ではなくいっそ無能さと無責任さにこそ期待せねばならないのだろうか。私達は実に奇妙で倒錯した時代を生きている。

大雑把に行こう。

2020/12/15(火)の呟きより。

大抵の人は「世の中の有名なTVや新聞が揃いも揃って嘘を吐くなんて信じられない」と思っているが、色々な切っ掛けで何かおかしいと気付く人もそれなりに居る。良く解らない人は、取り敢えずチョムスキー&ハーマンの『マニュファクチャリング・コンセント』を読めば良い。多分世界の見方が全く変わる。

チョムスキー氏は今だに「隠謀論者」「相対論者」などと揶揄されることも有る(そしてそんなことを言う不見識な輩が「思想界のホープ」とか言われてTVで特集を組まれたり、フェイクニュースについて講釈を垂れたりしている。)

だが、「権威に頼るな。嘘吐きを信じるな。事実を自分で確かめよう」と云うシンプルなメッセージを意図的に曲解しようとする輩は、どうせどんな証拠を積み上げてもまともに検証する気など無いだろうから、最初から無視すれば良いと思う。

余談だが、私がこの種のことを書くと、「チョムスキーは◯◯みたいなことも言っている。こんな奴を支持するなんて!」とか非難を浴びせて来る人が時々居る。断っておくが私は氏のMCの功績については非常に尊敬しているが、全ての点に於て彼の主張を支持している訳ではない。

私が誰かのAと云う主張について支持しているからと云って、それはBと云う主張についても支持していることを意味しないし、Bを支持しないからと云って、Aを支持しないことにはならない。AはA、BはBで、私はなるべく割り切って考え、属人的発想は避ける様にしている。

人は皆違った考えを持っているものだし、それが当たり前。自分自身でさえ矛盾する考えを持つことも有るし、時と共に考えが全く変わることさえ珍しくない。自分と少しでも違った考えを持つ人間を即「敵」認定する様な姿勢は非常に不毛だと思う。

「何もかも100%一致している相手でなければ支持出来ない!」と云う極端な党派主義は柔軟性や寛容性に欠けるし、人の多様性・多面性を否定するものだ。そして何より疲れる。差異や過ちを容認しない姿勢は長続きしない。

なのでこの問題に関する私のポリシーは「出来る限りテキトーに」だ。大体の方向性さえ判っていれば、細かい違いは極力気にしない。新しい「敵」を見付けることには私は興味が無い。どうせ増やすなら味方が良い。

味方同士でも一人ひとり違っているのは当然。差異ではなく共通部分を見付けることに集中した方が建設的ではないかと思う。SNSの様に情報量が限られている場に於てのコミュニケーションに於ては、特にそうした大雑把さが必要ではないかと私は考えている。

流行りの言葉で言うと「キャンセル文化」だろうか、何もかも100点満点でなければ気が済まない相手と遣り取りをすると、とにかくとても疲れるのだ。私は無駄に疲れるのも嫌だし、誰かを無駄に疲れさせたくもない。日々消尽もとい精進である。

こんな感じの距離の取り方で何故いけないのかと思う。意見の相違が見られるからと云って、それを直ぐ相手の全人格否定へと繋げる様な姿勢は、健全ではないし息苦しいと思う。

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非暴力のヒーローのカッコ良さについて

2020/12/14(月)の呟きより。

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イギリスの少年向けSFTVシリーズ『ドクター・フー』は色々と偽善に満ちてはいるのだが、「暴力で問題を解決することを断固として拒否するヒーロー」と云う設定は実に貴重だと思うし、そこに込められた製作者達の思いは尊ばれるべきだと思う。

CG技術によって映像表現の可能性が広がったお陰も有って、最近では物理的な超能力を振るうことで問題を解決するアメコミヒーロー映画が盛んだ。余りに複雑化し過ぎた社会に倦み疲れた人々は、より解り易くて目に見える強さを求めているのだろう。

原初的な身体感覚に訴える表現はその点で広く万人に浸透し易い。どんな種類の強さかは見れば解るし、いちいち深く考える必要が無い。単純そのもの。単純さはそれ自体で快楽を生む。

日本で言うと特にジャンプ系漫画に昔からこの傾向が顕著だ。漫画やアニメと云った視覚的媒体では、登場人物の葛藤や苦悩や対立を物理的暴力表現と云う形で結実させ易い。心理的な遣り取りも拳の応酬で表現する方が読者/視聴者の情動を喚起し易いし、それ故に強い説得力を持つ。

だが子供の頃の私にとっては、物理的な暴力表現それ自体には大してドラマが無かった(運動が苦手だったことも一因だったかも知れない)。宮崎駿の様にそれが上手い表現者が居ない訳ではなかったのだが、極めて稀。多くの場合、暴力は単なる暴力としか映らなかった。

画面の向こうの派手なガチンコはスペクタクルかも知れないが、基本的にドラマが無い。少女漫画の方がよっぽどドラマ性に富んでいた。

それに私は「ひたすら物理的により強い敵と戦い続けるヒーロー」の「取り敢えず殴って解決」と云うスタンスがとにかく嫌いだった。怪し気なカルトか何かの中毒の様な臭いを感じて厭だったのだ。

一体それ自体に何の意味が有るのか解らない暴力表現のエスカレーションは、この国の偽りの繁栄の腐臭とでも呼ぶべき臭いを放っていた。或る程度までの誇張された暴力表現までは私も楽しめた。だがより刺激的な表現を求める周囲の人々の欲望には際限が無い様に見えた。

度を越したより強度の高い視覚的刺激の追求はイカれているとしか思えなかった(今でもそう思っているが)。物理的暴力表現は何処まで追求してもそれ自体としては暴力をしか表現しない。ドラマが無い。

だから私の関心は自然とそれ以外の表現方法に向かって行った。好意的な言い方をするならば、相性が悪かったのだ。

だからTVと云う視覚表現媒体に於て、「腕っ節が強い奴より、知恵を絞る奴の方がカッコ良いんだぜ」と云うメッセージを子供達に伝えてくれるヒーローには、それだけで拍手を送りたいと思う。

21世紀に入ってリブートされた後の『ドクター・フー』は、大人が観ても結構面白いが、例えば日本の『ウルトラマン』や『仮面ライダー』と云った古いヒーローをリブートしてみたところで、大人の鑑賞に耐え得る作品が作られる可能性は極めて低いだろう。製作者側でその様な作品を作ろうとしないからだ。

日本の子供向け番組製作者達は、基本的に子供の可能性を信じていないと思う。作り手の側の基礎教養の低下と云う問題も有るだろうが、何より先ず「難しいことを言ったって子供達には理解出来ない。もっと解り易く簡単な表現にしよう」と云うスタンスから意図的に知的水準を落としている様に見える。

だから日本で「子供向け」と言ったらイコール子供騙しのことになってしまう。「売り上げ」と云う単純な物差しで測れる商業主義の観点からすれば、レヴェルを落とした方が恐らく目先の売り上げは保証されるし、要らぬ冒険はしたくとも出来ない。

子供達のことを考えるより先に、先ず自分達の生活のことを気にせねばならないのだ。だがそれでは背伸びをしたい子供達の欲求には全く応えられないし、長く子供達の心に残るヒーローは生まれ難い。

そもそも表現者達は子供達に何を伝えたいのか? 売りたいだけか? 仮に売り上げが伸びなかったとしても、歯を食い縛ってでも「子供達にこれだけは伝えなければ」と思うメッセージは持っているのだろうか?

貧すれば鈍す、とはこのことだろうか。その種の冒険をやろうとしない、やりたくても出来ない、病んで衰えて後ろ向きなこの国の表現の現状を、私は残念に思う。
プロフィール

川流桃桜

Author:川流桃桜
一介の反帝国主義者。
2022年3月に検閲を受けてTwitterとFBのアカウントを停止された為、それ以降は情報発信の拠点をブログに変更。基本はテーマ毎のオープンスレッド形式。検閲によって検索ではヒットし難くなっているので、気に入った記事や発言が有れば拡散して頂けると助かります。
全体像が知りたい場合は「カテゴリ」の「テーマ別スレッド一覧」を参照。

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