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何時でも何処でも一人デモ

 一人デモ用の画像を幾つか用意しました。宜しければお使い下さい。
 お好きな文句をコンビニでプリントアウトして適当な大きさにカットし、文房具屋や100円ショップで扱っている名札入れに入れてお使い下さい。胸等に着けて歩けば、毎日の日常生活がそのまま一人デモになります。カジュアルに抗議の意思表示を行いましょう。

注意:プラカード用ではありません。ネームプレート用です。

ユーザー番号:「 7NC5FCHZUU 」を入力してA4等でプリントしてお使い下さい。
ローソン、ファミリーマート、サークルK・サンクスで使用出来ます。
使用方法











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辺野古の座り込みデモ襲撃事件に於ける警察の不作為 ~法治主義の時代は終わるのか?

 15/08/19(土)深夜、ツイッターのTLに衝撃的な画像が流れた。沖縄の辺野古で座り込みデモを続ける抗議者達を右翼が襲撃、テント等を滅茶苦茶に破壊したと云うのだ。現地の模様を実況するツイキャス映像では更に衝撃的な情報が伝えられた。警察に通報したのに、まるで取り合ってくれないと云うのだ。少なくとも数十人以上が目撃した筈だが、TLには「何故こんなことをするのか」と云う悲痛な叫びや、「刃物を持った男が暴れてるのに何故逮捕しないんだ!」と云う批判の声が溢れた。

 翌日のメディアでこの事件を報じたところは殆ど無かった。真っ先に報じたのは沖縄の地元誌で、沖縄タイムス琉球新報。全国メディアでは辛うじてNHK朝日が報じた様だが、NHKは襲撃者が街宣車に乗っていたことには言及せず、単なる酔っ払いの犯行である様に報じている。また後の2つでは、警察が最初の通報を受けてから現場に駆け付けるまでに何と6時間以上も掛かったと云う点には一言も触れられていない。更に遅れた時事通信では、何故か「ゲート前で警備していた警察官が騒動に気付き、駆け付けた」となっており、こちらも、それ以前に何度も通報が有ったことを報じていない。

 今回の事件に対して重要な点は2つ。曲がりなりとも非暴力的な抗議行動に対して物理的な実力による攻撃が加えられたと云う点と、それを警察が故意に防がなかったと云う点だ。私の見る限りでは、前者の様な悪質な暴力行使も勿論問題だが、より重大なのは後者の方だ。警察と抗議市民達にはテントの設置等を巡って前々から緊張関係が続いていたことは周知の事実だが、若しそれが今回の出動の遅れに繋がったのであれば、これは明らかに警察の不作為であると言える。反日沖縄人の陰謀だとネトウヨはまた騒ぐかも知れないが、ネットで大勢が目撃していたことは先に述べた通り。器物破損と傷害の現行犯であって、現場で判断に迷う理由が有ろう筈も無く、対応に当たった警察官は公式に釈明をすべきだろう。テントの設置が違法であるかどうかも今回は全く関係が無い。テント撤去の警告が正当なものであるかと云う点については私は疑っているが、仮に相手が犯罪者であったとしても、「犯罪者に対しては犯罪を犯しても良い」などと云うルールは、この国のどんな法律を引っ繰り返してみても出て来ない。どんな主義主張が有ろうとも、暴力による言論の弾圧は厳重に禁じられるべきだ。

 警察の故意の不作為は、右翼の犯罪よりももっと恐ろしい。警察が市民をその主義主張の如何に関わらず平等に遇しなければならないことは、憲法14条で国民の平等が宣言されている限り当然なのだが、その大原則が破られた、と云うことだ。先日大雨被害が出た際に、ネットでは「安保法制に反対する市民も救助するなんて、自衛隊は偉い」などと云う、安倍支持派による妄言が流れたが、その時は「何をバカなことを言っているんだ」と唯批判して切り捨てることが出来た。だが、若し日本国内の暴力装置や司法制度が、為政者を批判しているか否かで市民に対する処遇を変えたとしたら、これは実質的に治安維持法が施行されているも同然だ。警察や自衛隊が「どんな市民も平等に扱う」ことを「立派だ」とわざわざ褒めなければならない時代が来るとしたら、その時は日本は暗黒時代に突入したと云うことだ。隣国中国の言論弾圧を嗤う資格なぞ無い。為政者のみならず、末端の公務員や市民自らがその弾圧に加担する「空気」が蔓延する未来が、私には容易に想像出来る。これが杞憂なら良い。後から思い返して「心配し過ぎだったか」と苦笑すれば済む。だがこれが現実になった時のことを考えると、私は少なからず戦慄を禁じ得ない。



 国会で強行採決されたばかりの(「採決」と呼んで良いのかさえ不明なのだが)安保法案も同じ様なものだ。「憲法守って国滅ぶ」と支持派は言うが、憲法はこの国の在り方を規定する根本的なルールであり、国の形、国の枠組み、大日本帝国風に言うなら「國體」だ。それがその時々の為政者の判断で如何様にも解釈出来ると云うのであれば、憲法の下に制定されているあらゆる法律も恣意的な運用が可能になる。詰まりは立憲国家、法治国家としての土台が揺らぐと云うことだ。これが意味することの恐ろしさを理解出来ない人が居るとすれば、余りにも無知、余りにも想像力不足であって、歴史から何も学んでおらず、平和ボケして正常な判断力が失われてしまっているとしか私には思えない。

 ここで安倍氏の先例に倣って、バカにでも解る様に、これを日常生活に置き換えて説明してみよう。或る村の駐在所に勤務する警察官が、或る日突然こんなことを言い出したとする。

 「皆聞いてくれ。最近世の中色々と物騒になって来て、いちいち法律なんか守ってたんじゃ間に合わねェ。これからは俺が法律だ。何が犯罪で、誰が犯罪者で、犯罪者をどう処罰するかは、その時の気分で、その場のノリで、俺が決めることにするから、宜しくな!」

 これを聞いた村人達はどうするだろうか。彼等にまともな判断力が有れば、仮令その警察官がどれだけ個人的に親しい間柄で、個人としては「良い人」であったとしても、頼むからどうかそんなバカな真似はやめて正気に戻ってくれ、と必死になって懇願するだろう。第一その警察官には、そんなことをする権限も資格も与えらていないのだし、そんなことをして貰おうと思って村人達は彼に警察官でいて貰っている訳ではない。飽く迄既存のルールに従って、きちんと法律を守って、法律を破る者を取り締まる為に警察官でいて欲しいと思っている筈だ。

 更にその警察官がこう付け加えたとしたらどうだろう。

 「俺一人じゃあどうも心許ねぇから、隣町の大親分さんに話をつけて、『血の杯』を交わして来らァ。俺っちが親分さんに取り入って目を掛けて貰える様な働きをすりゃあ、この村も安泰ってもんよ。実は親分さんは今幾つかの組と抗争の真っ最中でな、迂闊に近付いたりしたら本当は危ねぇんだが、なァに、俺はしっかりしてるから、危なくなったらきっぱり断ってサッサと逃げて来らァ。何も心配は要らねェよ。」

 村人達が直ぐ様彼を取り押さえて警察官の肩書きを剥奪しようとしなかったとしたら、それこそどうかしている。

 法の恣意的な解釈や運用とはこう云うことだ。個々の解釈者や運用者の勝手なその場の判断で法が捩じ曲げられ得るとしたら、それは最早法ではない。その社会は法治社会から人治社会へと変貌したと云うことだ。今日本国と云う国で起こっていることはこう云うことだ。こうした状況に多少なりとも危機感を抱く人間が「平和ボケ」などと逆に罵られる状況は異常だ。日本国民の中には、グローバル化した21世紀の国際社会と云う現実よりも、時代劇や西部劇の中に住みたいと思っている者が大勢居ると云うことなのだろうか。



 安保法案が無法に強行採決されてしまったことにされてしまった直後、南スーダンでのPKO活動に従事している自衛隊員に対し、武器の使用が大幅に緩和された。元々法的に問題の有った自衛隊を、場当たり的なPKO法案と云う法律で正当化して海外派遣を行うと云う無理を行って来たのがこの20年間の歩みだが、法的な不備が有るのを、現場の知恵と工夫で何とか穏便にやり過ごして来た、と云うのが実情だと聞く(イラクに派遣されたヒゲの隊長こと佐藤正久氏の様に、平和構築任務の何たるかを全く理解していない武闘派も中には居た様だが)。その一方で各地のPKO活動は益々武力行使の方向に傾きつつあり、現地の緊張感は20年前より格段に増しているとも聞く。そんな中で、自衛隊のPKO活動そのものの意義を問い直す作業もせず、「危険になったらしいからとにかく武器を使えるようにしよう」と云う発想で行われたのが今回の措置。武器を持ったその後、自衛隊員の誰かが殺されてしまった後や、自衛隊員が誰かを殺してしまった後のことについては殆ど想定しておらず、具体的な方針や対応に幾つもの問題を抱えた儘、必要な法整備を行っていないのが現状だ。

 また、PKO活動は基本的に治外法権で行われるのだそうだ。現地の法は、派遣された部隊に対しては適用されない。沖縄に駐留している米軍と同じだ。「在日米軍裁判権放棄密約」により特権的に守られていた米兵が犯罪を犯しても起訴もされない、裁判にも掛けられない、と云う状況に対して、多くの沖縄県人は怒り心頭に達していた訳だが、その例からも解る様に、軍法を持たない非常識極まり無い武装組織である自衛隊が、若し現地で何かトラブルを起こした場合、ひとつ対応を間違えれば、現地での自衛隊の評判は一気に地に墜ちる可能性も有る。武器使用の緩和は、そのリスクを飛躍的に増大させる。その場凌ぎが出来れば任務は達成される訳ではない。任務の大義や法的正当性そのものが疑問視されれば、幾ら自衛隊員や他の国の兵士の生命が守れたとしても、任務としては意味が無くなる。何の為にわざわざ危険を冒して海外に派遣などさせたのか、と云う話になる。本当に自衛隊に他の「普通の国」の軍隊が陥っている様な泥沼に足を突っ込ませたいのであれば、自衛隊法と憲法第76条(第2項「特別裁判所は、これを設置することができない」)をそもそも改訂する必要が有る。安倍政権はそのことを検討しているだろうか。仮にやっているのであれば、武器使用の緩和を認める前に、厳密な法整備を行っておくべきだった。

 市民が政治家に政治を丸投げする「お任せ民主主義」も大問題だが、政治家が穴だらけの法律の枠内で自衛隊を派遣し、「後は良きに計らえ」とばかりに丸投げする「お任せ自衛隊派遣」も問題だらけだ。法は現場判断だけで適当に解釈・運用して良いものではない。況してや、それ以前の立法作業を良い加減にやって良い筈が無い。今の安倍政権には、そうした意味で法一般に対する正常な畏敬の念や現実的な戦略的眼差しが決定的に欠如している。

LEARN OR PERISH. ~9条と市民運動の更に先へ~

 さてこれだけ国内の情勢が騒然として来ると、アメリカの方も無関心ではいられないのではないかと推測する今日この頃。安倍氏が公然と鉤十時を振り翳したりヘイトスピーチを撒き散らす支持者達のことを恐らく厄介に思っているであろうのと同様、アメリカの方でも、今のどちらへ進むのか良く解らない、暴走の可能性も有り、しかも国内の人心の掌握も碌に出来ないしやる気も無い指導者に率いられた日本から幾ら一方的に熱烈なラブコールを送られても、正直言って迷惑に思う部分が大きいのではないだろうか。

 第一、実態はどうあれ、自由と民主主義を至上の価値とするアメリカの建前はまだ生きている。幾ら地政学上の目的を達する為とは云え、それを公然と踏みにじってヒトラー紛いの法的・政治的クーデターを敢行して見せる安倍氏の振る舞いに対しては、この儘続けば何れ国際的な非難の声が高まって来るだろう。その時、国内の反撥世論に対して強硬な姿勢を取り続けたとしたら、非難の矛先がやがてアメリカにまで飛び火し、これまで従順なポチであった日本の国内から反米の声が上がりかねない。

 アメリカが望んでいるのは安定した進出拠点としての日本であって、その肝心要の安定性を捨ててまで要らぬ友情を押し付けられて来たとしたら、日米関係がそれで冷え込む可能性は十分に有る。下手をすると完全に呆れられて、ニクソン訪中の時の様に、アメリカと中国との間で、日本の頭越しに対話路線をどんどん進められてしまって、気が付いたら日本だけが取り残されてしまっていた、と云うシナリオだって有るかも知れない。残念乍ら安倍政権がそうした可能性を想像出来ているかと問うてみると、まぁ10人中10人がNOと答えるだろうと云うのが現実だ(そんな可能性は考慮するに値しない、と安倍政権を支持する人も多いかも知れないが)。

 その一方で、安保法案反対派の方はどうか。日本での抗議行動は自民党の違法な国鉄組合潰し以来最早絶滅の危機に瀕しているものと思われていのだが、21世紀になってから世界各国で様々な新しい形態の抗議行動が出現する様になってから、先例に触発されたのか、幾つもの試行錯誤が行われて来た。特に3.11以降、これからの時代のあるべき抗議行動の在り方を模索する努力が実を結んで来たのか、具体的なルール設定や実際の行動が実にスマートになって来ている。非暴力路線はその最たるものだ。ことここに至って緊張感が増して来た所為か、中には過激な行動に出る者も出て来た様だが、まだ極く一部に過ぎない。寧ろ国会内の野党議員連中の方が、今だ旧態依然とした武闘派体質を捨て切れずにいる者達が多い位だ。

 非暴力は、暴力装置をそれに対する弾圧や抑圧に利用しようとする為政者の野蛮性を際立たせる。「武力や暴力では問題の解決には成らない。寧ろ頭と勇気を持って丸腰でいることこそ、最強の戦略だ」と云うことは、グローバル化した世界の中で20世紀的な勢力圏闘争が哀れな失敗を続けている今の国際社会の力学としても当て嵌まることだと思うが、これは社会運動一般についても言えることだ(日本の場合、社会運動で得られた教訓を国際社会全体に敷衍して行くと云う可能性も拓けている。私見では、その為の最大の武器が日本国憲法第9条なのだ)。人の心を建設的な方向に持続的に動かすのは剝き出しの怒りではなく、制御され、武装放棄した、持続的な怒りだ。言論や思想が現実を変える力は目に見え難く、その歩みは遅々たるものだが、各地での数々の成功例が、力を持たぬ者達の希望と意欲を掻き立てている。その進化と増殖は、武力による紛争の解決が今だ失敗と迷走を続けているのと対照的だ。広範な情報の共有に支えられた共感の広がりは、どんなイージス艦でも勝てない無敵の盾を形成する。

 また最近デモや集会で掲げられるプラカードには英語で書かれたものが多いが、これは上手い戦略だ(中には唯「何となくカッコ良いから」と云う理由で英語を使っている人も居るだろうが)。今の抗議行動は世界中で繋がっている。NYや中東諸国や香港で起きた抗議行動は、世界中にその情報が発信され、日本だろうと何処だろうと、ネットやマスメディアを通じて、その熱気や心意気や戦術や思想が共有される。今日本で起きている抗議行動の眼差しは、日本の国会に向けられていると同時に、国際社会、或いはグローバル化した世界共同体の同志達に向けられている。これには国内の既存のメディアに対する失望や不信感もその背景に有るのだが、と同時に、自分達の手で自分達の意思や思想や信条を発信し伝達する手段が世界規模で確立しつつあると云う要因がやはり大きい。その方面では、英語は今や世界共通の抗議言語になりつつある。マスコミが各種の抗議行動の様子を動画や写真付きで報じる時、そこに英語で読み取れる文字が有れば、彼等の主張は見る者の目にとってより身近で、具体的で、理解可能なものとなる。

 少し話を広げさせて貰えば、これは強大な権力を持たぬ市民運動が「国際的な」アピール力を獲得する様になって来た、と云うだけの話に留まらない。その効果や戦略を超えて、今、我々自身の意識のスケールを調整する試みが、こうした様々なネットワークの構築によって行われている。今の時代の抗議者達は、一種のコスモポリタンな実存体験の巨大な実験場として、自分達の抱える個々の社会を問題利用していると言っても良い。この流れは不可避のものだし、当人達がそれを自覚することによって、何倍にも加速され得る。国籍や民族や性別や階級等によって分断され得ない、世界市民としての経験と意識の実績が、既成事実として積み重ねられて行く時、それは人類全体の過去と成り、共有財産と成る。そこでは個々の成功や失敗でさえ、第一義的に重要なものではない。成功と失敗、そのどちらからも、人類は学ぶことが出来る。冷静な理性に基付く対話と熟議がそれを可能にする。世界の歴史の潮流は今や、それが実際に可能のだと云うことを日々教えてくれている。

 今日本で起きていることは、日本だけで起きていることではない。それは普遍的な価値を構築し、共有し、多様性と手を携えた調和を望む全ての人類が分かち合う、ひとつの巨大な実験の一部なのだ。それと同時に日本と云う国は、仮令欺瞞と隠蔽に塗れて既にボロボロになっているとは云え、世界の他のどの国もまだ持っていない、時代の最先端を行く強力な普遍的価値、普遍的戦略を有している。憲法9条だ。本来であれば国連憲章とセットとして考えれば、70年前に実現されていなければならなかった世界平和へ至る道筋は今、冷戦も終了しグローバル化の津波が世界のあらゆる国に押し寄せている現在になってようやっと、現実問題として可能かも知れない、と云う希望が見えて来ている。曙光は既に差しているのだ。

 武力の放棄、戦力の否定は、真の意味で全世界共通の秩序を打ち立てる上で、遅かれ早かれ議論の俎上に載せられる。その時、日本人は圧倒的に優位に立っている。世界の世論をリードして行くだけの力が、日本には秘められている。その強みを自ら手放す様な愚かな真似を、日本国民は為政者にさせてはならない。それは曲がりなりにも日本国憲法と云う根本的ルールのに築かれていた日本国と云う国の歴史を否定することであると同時に、これからの人類の歴史全体に対する裏切りでもある。

 我々が今問われているのは個々の選挙の結果などではない、もっと大きな、未だ来ぬものからの呼び掛けへの応答なのだ。その為には唯9条を守れば良いと云うのではない、旧来の護憲派が堅持して来た立場だけでは不十分だ。一国平和主義、或いは日米含めた二国平和主義から脱して、グローバルな意味での積極的平和主義を推進する為の戦略と思想を、これから我々は具体的に錬って行かねばならない。その機は今正に熟しつつある。

国会前デモに対する警察の過剰警備に関する短いメモ

 09/14(月)の国会前のデモのことなのだが、警察はまたしても鉄柵で国会前を封鎖すると云う明らかな過剰警備を行い、デモに詰め掛けた人々が歩道に閉じ込められ、ぎゅうぎゅう詰めで危険な状態に陥ると云う事態を招いた。結局は08/30(日)のデモと同様、鉄柵は決壊し、ようやっと国会前の車道に人が溢れると云う結果になったのだが(ひょっとしてこれは19時のNHKのニュースに、車道が人で溢れている画像を出したくなかったからではないか、と云う邪推のひとつもしたくなる愚行だ)、ネットでは再び、例えば「#鉄柵どけろ」等のハッシュタグを見ると判る様に、「警察の設置した鉄柵を突破したのは怪しからん!」と云う、デモの参加者を非難する安倍支持派の声が溢れている。まぁ相変わらず安倍陣営は学習しないなーと云うのが正直な感想なのでいちいち相手をして反論する気にもなれないのだが、デモ支持派の中にも、鉄柵突破は正しいことなのかいけないことなのか、いまいちはっきり説明出来ない人も居る様なので、自分用の備忘録も兼ねて、簡単にメモを記しておく。



 先ず08/30(日)のデモに於ける警察の過剰警備について、具体的に次の様な抗議や追及が為されている。

8月30日の警備について、および今後の国会周辺での抗議行動についての申し入れ
‪【参・外交防衛委】藤田幸久(民主)「国会前抗議行動の警察の過剰警備に関して」20150910‬


 他にも有るが、取り敢えず基本的論点を押さえた上記2つにしっかり目を通しておけば、余計な混乱は大分省くことが出来ると思う。上記の主張は、ではどう云った法的根拠に基付くのか。これは反対派の主張を検証して行った方が話が早いだろう。ネットに溢れる殆どのデモ批判者の声は、「警察の決めたことに逆らうなんて、あいつらは無法者だ!」と云う、脊髄反射的な単なる罵倒なのだが、例えば東京都議会議員のおときた駿氏は、或る程度筋道立てて批判をしている。

国会前デモは、そもそも『デモ』ではなかった?!「表現の自由」で、公道の占拠は許されるのか

 「警察の決めたことは守らなきゃダメ! だってこれこれの法律でこれこれこう云う風に定められているから!」と彼が挙げているのは、悪名高い東京都の公安条例。どんな代物かと云うと、こんな代物。

集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例

 見れば判る通り公布が「昭和25年」と何とも実に古い条例なのだが、お察しの通り1950年は朝鮮戦争の年。これはGHQがアメリカの意向に逆らう異分子を弾圧する為に作ったルールなのだ。そもそもこれは違憲ではないかと云うことが過去に何度も裁判で争われていて、今のところ違憲判決は出ていない様なのだが(日本の裁判では取り敢えず違憲判決は出さないのが暗黙のルール。司法関係者はきちんと三権分立に基付いて仕事して下さい)、最近では2009年の麻生邸見学ツアー参加者の不当逮捕事件でも争われていて、運用する者の判断や裁量に依っては濫用の可能性が高く、極めて問題の有る条例だ。

麻生邸リアリティツアー事件国家賠償請求訴訟団
麻生邸RT事件国家賠償請求訴訟団‪@asoukokubai‬


 なので東京都の公安条例を若し法的な根拠として持ち出す為には、当日のデモが「公共の安寧を保持する上に直接危険を及ぼすと明らかに認められる場合」であることを立証する必要が有る。

 但し先に一言断っておくと、事前に公安に対して申請しているかどうかは、この際一義的な問題ではない。第六条を見てみよう。

 「第六条 この条例の各規定は、第一条に定める集会、集団行進又は集団示威運動以外に集会を行う権利を禁止し、若しくは制限(略)する権限を公安委員会、警察職員又はその他の都吏員、区、市、町、村の吏員若しくは職員に与えるものと解釈してはならない。」

 詰まり、仮令無申請、無許可のデモであっても、それ自体を理由にしてそれを禁止したり制限したりする権限は何処にも無いのだ。問題はデモが具体的に「公共の安寧」を乱すかどうか、「公共の秩序」に反するかどうかなのだ。



 公道の占拠によって乱される公共の秩序と言えば、まぁ常識的に考えて交通秩序のことだ。車が通れなくなって困るじゃないかと云うこと。だが国会前に行ったことの有る人なら判る様に、あそこは国会が開かれる前後は例外として、通常は殆ど無人地帯で、車も殆ど通らない。

 08/30(日)の場合は、安倍支持派が盛んに「誰も居ない議事堂に向かって叫ぶのか」と冷やかしてくれていたが、彼等の御丁寧な御指摘の通り、あの日国会は開かれていない。議事堂には誰も居なかったのだ。まぁ設備等の維持管理の担当者や、警備や清掃担当者は居たかも知れないが、居たとしても問題となるのは出入りする極く一部の時間帯だけで、デモの時間帯と被っていたとは常識的に考え難い(普通日曜の昼下がりにシフト交替とかする?)。要するに、国会前の車道を占拠して困る人なんて殆ど居なかっただろうと推測出来る(まぁ物好きな観光客とかが居ないとも限らないので「殆ど」と留保条件を付けておく)。

 09/14(月)の場合は多少事情が異なる。車道に車は存在しいてた。私が各地の実況から確認出来た限りでは、当日走っていた車は3種。1)物々しい機動隊の装甲車。2)右翼の街宣車。3)デモの参加者を乗せたタクシーやバス。1)と3)についてはデモの関係車両なので除外して良いだろう。問題は2)だ。常識的に考えれば、右翼はデモに対する嫌がらせをする為に走っていたと考えるのが妥当だけれども、まぁこの日は何故か何時も走っている靖国通り界隈から気分を変えて、特に理由は無いのだけれども違う道を通ってみようかと云う気にふとなったのかも知れない。その場合、デモの批判者達が守るべき「公共の秩序」とは、具体的には右翼の街宣車が走る自由と云うことになる。それで良いのか? ………まぁ、右翼にだって表現の自由は有る。だとすれば後は権利と安全のトレードオフだ。あの場合、鉄柵封鎖を続けていれば、狭い場所に無理矢理押し込められたデモ参加者は転倒等の危険な状況に陥る可能性が有った。とすれば、数台の右翼の街宣車が周回する自由と、4万人が怪我をする危険性を天秤に掛けなければならない。無論私なぞに判断する権限が与えられている訳ではないが、この場合どちらを優先すべきかと問われれば、そう悩む必要の有る問題とも思えない。道義的にもそう複雑な問題ではないし、実際問題として4万人を実力で押し止めておくより、僅か数台の街宣車に少し回り道でもしてくれないかとお願いをする方がずっと簡単だ。



 無論、この程度の理屈は警察だって理解していない訳ではない。寧ろ、自分達が危ない橋を渡っていることは、彼等自身が重々承知していることだろう。09/14(月)のデモで出た逮捕者はたった1名。60代の女性が40代の機動隊員と揉めたとか云う、悪い冗談なのか何なのか良く解らないトラブルが有っただけだ。若し鉄柵突破が、デモを非難する人達が主張している様に本当に重大な法律違反なのだとしたら、警察には4万人を逮捕する責務が発生する筈だ。可成りの数の機動隊員も駆り出されていたので、現行犯逮捕なんてそこら中でやり放題だっただろう。まぁ現実的に4万人は難しくても、「主催者、指導者又は煽動者は、これを一年以下の懲役若しくは禁錮又は三十万円以下の罰金に処する。」とちゃーんと条文に書いてあるのだから、主催者達や、最初に鉄柵を破った人達に対しては逮捕状が出ていないとおかしい。それをしていないと云うことは、それが法的にヤバいことだと警察も自覚しているからだ。どうもその辺の単純な事実に想像力が及んでいない人が多くて実に辟易するのだけれども、はっきり言ってこの手の不毛な非難の応酬はさっさと終わらせてしまいたい。

 ここまで書いてもまだ理解してくれない人も居るかも知れないので念押ししておこう。国会前デモに対する警察の鉄柵封鎖は、その危険度に比して法的な根拠が極めて乏しく、合理的な理由も怪しい。ならばこれが一体誰の権限で、どの様な判断で、何を根拠にして行われたのか、市民には追及する義務が有る。



 暴力装置がその実力を行使する際、その運用が適切なものであるか監視するのは、市民としての当然の責務だ。それを単に「警察がやっていることだから従わなきゃダメだ」などと憤るのは、ひたすらお上の権威を有難がることしか知らない思考停止に過ぎない。盲目的な権威主義は、ファシズムへの近道だ。そして権力に盲従するのは、平和ボケした無責任漢のやることだ。安保法案反対のデモが気に食わないなら、安保法案賛成のデモでも何でもやれば宜しい。安保法案反対デモの支持者の多くは文句なんか言わないだろう。過去のヘイトデモ等の数々の実績を見る限り、警察は寧ろ弾圧するより守ろうとするかも知れない。仮にそんなことになった時、その非対称的な対応を見て何も感じないのであれば、その人は民主主義社会なんか、本当は嫌いなのだろうと言うしか無い。

私が心底激怒した参考人質疑

 (日付が変更してからにのアップになってしまいましたので、以下の「今日」は09/10、「昨日」は09/09のことだと思ってお読み下さい。)



 私は普段の夜は「乍らツイッター」で暫くSNSで軽い調べものや呟きをし乍ら過ごすのだが、昨夜は早めに用事を切り上げて、何時もよりずっと早く就寝してしまった。それと云うのも、その儘SNSを続けていたら憤りの余りに感情に任せて口汚い罵倒を連ねそうだったからだ。何故憤ったかと云うと、Youtubeで山本太郎氏の15/09/08(火)の「我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会質疑・参考人質疑」の動画を観て、その答弁の余りの傍若無人振りに衝撃を受けたからだ。端的には強い激しい怒りを感じたのだが、昨夜のその情動は胃の底にでっかい石ころでも詰めたみたいな強烈な身体的異和感と成って表れ、正に怒りで身体が震え、胸が張り裂けそうな感覚を覚えるにまで至った。そう云う時には頭で無闇にジタバタしたって無駄なので、素直に降参宣言をして眠りが心の痛みを癒してくれるのを凝っと待つことにしている。一晩の睡眠と忙しい一日を間に挟むことによって、少しは身体も頭も冷えた様に思うので、精神の平静を保つ為にも、少し気持ちの整理がてら、昨日の衝撃の感想を簡単に纏めてみる。

 今日になって書き起こしの文章をもう一度読み返してみたのだが、冷静に振り返ってみると、そこまで興奮する様な内容ではなかったのかも知れない。あの程度の悲惨な答弁はこれまでに何度も観て来た筈だし、その度に失望や呆れや恐怖や嫌悪を感じて来た筈だ。但、昨日の場合は文章ではなく動画で観ることによって、答弁した参考人達の個人的な印象の持つインパクトに惑わされてしまった部分が大きい。何時もは政治に関わる愚行を目撃する際には成る可く感情をフラットにして、簡単には心にダメージを負わないよう、情緒的反応に流されないよう出来るだけ無感動のポーズを装っているのだけれども、昨日の体験はどうやら何かの弾みでその通常の許容閾値を超えてしまった様だ。特に宮家邦彦氏の威丈高で傲岸不遜で高圧的な態度は、私が直接その場で酷い侮蔑を受けたかの様な衝撃を齎した。

 山本太郎氏が政治家になって間も無い頃、円形脱毛症になったと云う話を聞いたのだが(今はどうなのだろう?)、しょっちゅうああした場面で主役を演じなければならないとなると、成る程政治家と云うのは過度のストレスに曝されるのが当たり前の生き物らしい。私の様に神経の細いメンヘラー上がりなんかが足を突っ込んだら、胃に穴を開く位のことは起こりそうだ。つくづく、今の日本の政治家なんてカタギの人間が手を出すことではないと思う。改めて教訓:メンタルがチキンな人間にとって、スルースキルが使えるかどうかは死活問題。



 さて答弁の中身の何処が酷かったのかと云う話だが、当日は先ず与野党の招致した参考人4名がそれぞれの見解を述べた後、山本太郎氏が4人全員に同じ質問をぶつけて行くと云う流れで質疑が進んだのだ。山本氏は例によって各種の戦争責任について、一般論から日本への原爆投下や空襲、イラク・アフガン戦争の例へ話を進めて、各々の見解を伺って行った。ひとつの質問に対して各人が回答して行く訳なのだけれども、正面からまともに誠実な答弁をしたのは与党参考人の神保謙氏と、野党参考人の伊藤真氏のみ。後の2人の態度が実に惨澹たるものだった。

 与党参考人の宮家邦彦氏については下記で述べるけれども、野党参考人の大森政輔の場合は回答を拒否したり、言葉を濁したり、イラク戦争の経緯や検証については「確たる事実をまだ知り得るところには至っていないんだろうと思います」とか、「その辺りの情報を十分把握して」いないとか、今まで一体地球上に住んでおられたのだろうかと思わせる様な不思議答弁を連発。既に主犯格のアメリカやイギリスでさえ検証委員会が立ち上げられ、あれは過ちであったと公言しているのに、従犯に過ぎない日本政府が今だに直ぐにバレる嘘を強弁し続けていることの不可解さを改めて感じさせられた。法律畑の人らしく、その前の参考人発言も法律の話に終始しているのだが、山本氏の質疑ではどうも現実が見えていない人物の様にしか見えない。法律しか知らない人に政治や外交や軍事の質問をするのは酷だと云う見方も出来るかも知れないが、但安保法案に反対するにしても、それでは困るのだ。国会で、謂わば国民の代表として発言するからには、それなりの見識を備えた人物でなければ、説得力を持たない。

 さて宮家邦彦参考人。これが一番酷かった。態度も不遜なら口調も横柄、悪い意味での上意下達の官僚上司を絵に描いた様な物腰の人物。だがそんなところだけあれこれ突いても仕方が無いので、答弁の具体的な中身を見て行こう。

 先ず最初の質問。「ある国が民間人に対する無差別攻撃を行ったと、それによってたくさんの人々の命が奪われました。そのようなケースは国際法違反、戦争犯罪というふうに先生方は考えられますか。」これに対し宮家氏は「余りに漠然とした御質問」だとして、回答を拒否。確かに、抽象度が高過ぎる内容は、質問として不適当な場合が有る。例えば「人を殺してはいけない」とか「嘘を吐いてはいけない」の是非について。世の中には正当化され得る殺人や嘘も存在しているのだから、個々の事例を無視した一般論だけで人殺しや嘘を論じるのは雑過ぎると云う見方も出来るだろう。だが質問されているのは「国家による民間人の無差別虐殺」だ。これが個々の状況によって正当化され得る例外的事例が存在するだろうか? どうも私の想像力が不足しているのか、取り敢えず思い付くのは「止むを得ない犠牲」、詰まり、大局的な目的を達する為に避けて通れない犠牲であれば、相手が民間人であろうとそれを容認すべきだと云うケースだけだ。

 それを正当化しようと云うのは、それでひとつの意見であって、大きな問題を孕んでいるにせよ、立派に合理的な議論の主題に成り得る主張だ。例えば今有志連合が多数の民間人を巻き込んだ空爆を強行する際に使用されているレトリックがそれであって、単に思考実験に留まらない、アクチュアルな切迫性を持った問題だ。ならばそのことをきちんと言葉で説明するのが誠実な議論の仕方と云うものであって、「漠然としてる回答しない」と云うのは議論の放棄でしかない。

 宮家氏がきちんとした見識を持っていると自負しているのであれば、一般論としては、常識的に考えて回答は「国家による民間人の無差別虐殺は違法である」か、「これこれの条件下にに於ては国家による民間人の無差別虐殺は合法であり、正当化され得る」のどちらかしか有り得ない。それを言わないと云うことは、言うだけの見識が無いか、誠実な議論を遂行する意思が無いか、堂々と自分の意見を披瀝出来るだけの公明さを持ち合わせていない、のどれかだと思われても仕方が無い。

 次の質問は、米国による原爆投下や空襲は国際法違反、戦争犯罪かと云う質問。これに対しては宮家氏は「平和安全安保法案とこの今の御質問の関係がよく分かりません」として、これも回答を拒否。そもそも、参考人と云うものはその知識や見識を公に披露する為に招致されて来ている存在なのであって、見識と云うものには、明確で一般的な理念や原則やルールの下で個々の現実を判断出来る能力と云うものも含まれる。参考人が、現在焦点となっているもの以外の問題についてどの様な見解を持ち合わせているかと云う点は、その人の発言の説得力の強さを大きく左右する。今の問題に直接関係が無いからと云って回答を拒否するのは、文脈に依っては責務放棄に等しい。宮家氏の様に、自分の主張が絶対に正しく、異論を唱える者は阿呆だと言い張るタイプの人であれば尚更、その論拠を明示する責務が有る。

 目の前の問題に直接関係が無いからと云って他の問題や一般論を回避する態度は、至極好意的に捉えれば、飽く迄安保法案に関する参考人としての自制を利かせた、禁欲的な態度と解釈することも出来る。だが逆に目先のことしか考えられず、自分や自分の置かれている状況を一歩退いて、より大きなルールの下で捉え直す習慣が身に付いていないから、こうした場で答えられないのだ、と解釈することも可能だ。そして宮家氏の振る舞いを見てそこから謙虚さを連想する人はそう多くはないと思う。元官僚が全員党派的思考、タコツボ的思考しか出来ないと考えるのは偏見に過ぎないが、宮家氏の言動はその偏見を全身全霊で裏付けてくれているかの様だ。

 また安倍首相は「積極的平和主義」を標榜しているが、今回の安保法案は本来の意味での積極的平和主義とは全く関係無い、戦闘や武力行使のことしか書かれていない。だとすれば、それが具体的に法体制と成って政府や国民の行動を束縛する時、それを実際に運用することになる人々が、過去の戦争についてどの様な総括を行い、どうした前提の上でものを考えているかは国民の重大な関心事だ。過去を適切に評価出来るかどうかが、これからの判断を行う上で重要なファクターであることに異論を挟む人は居ないだろう。だとすれば、過去の重大な戦争犯罪、或いはその疑惑の有る事象についての解釈と評価に関して、国民の疑念に答えておくことは必須の筈だ。それを「関係がよく分かりません」と云うのは余りに不見識と言われても仕方が無い。

 3つ目の質問はイラク・アフガン戦争に於ける米軍による民間人の虐殺についての質問。宮家氏もやっと重い腰を上げて回答拒否以上のことを発言しているが、中身を見る限りでは回答回避に当たるだろう。宮家氏は「イラク戦争、それからアフガン戦争とも国連決議に基づいた武力行使であったと理解をしています」と驚くべき事実誤認を平然と言ってのけた後で、「その中で若しそのような事態があったとしたら、個々のものを私は一つ一つ見ていく必要が有る」と一旦断った後で、「米軍によるそのようなことがあったかどうかは別として、それ以外の多くの勢力によるおびただしい数の民間人が殺されている。(略)そのことと同時に考えない限り、この問題についてコメントすることはできないと思います」と、実質的に回答を避けているのだ。米軍以外の勢力によって多数の民間人が殺害されていることを同時に考えると云うことは、解り易く言い換えれば人命のトレードオフをすべきだと云うことだろう。ならばそうした人命を秤に掛ける作業を行った上で、自分自身はどの様に考えているのか、宮家氏はその後に一言も続けていない。全く何の為に「質疑」を行っているのか、自分の主張を一方的に述べ立てて異論を持つ者を罵倒する為だけにその場に居るのか、としか思えない言動だ。

 この後も山本氏は同じ件について更に追及するが、この辺はやや焦点が定まらず、質問の方も余り核心を突くものとは言えないが、宮家氏はここでまたしても「日本政府はそれにもかかわらず、ちゃんとした国連の安保理決議違反という形で整理をして支持した」と、国連決議1441とその後のアメリカの暴走を擁護する様なことを主張している。「悪魔の証明」を求める類いの前者の項目についても疑問は残るのだが、後者については(宮家氏は何故かアメリカの「自衛権」発動のことについては触れていないが、これもまた不誠実な態度だ)今更弁解の余地は無いだろう。それを、国連を隠れ蓑にする様な論法で誤摩化すと云うのであれば、自らの主張が公正明大なものではないと白状しているに等しい。

 最後に、第三者による検証委員会の設立を訴える山本氏の言に対しては、宮家氏は完全に無視を決め込むことにしたらしく、「違法な戦争に加担をした、片棒を担いだでしたっけ、そのような御発言はいかがなものかと思います。(略)片棒を担いだなんというような言い方はお慎みください」と、話を丸切り逸らしたばかりか、他人の言葉使いについて自分がどう思うかを開陳するだけでなく、具体的に止めろと要求。単なる回答拒否より更にタチが悪い。逆ギレすれば何でも解決するとか思っている辺りがもう救い様が無い。



 まぁねちねちと重箱突きにも見える指摘を書き連ねて来たが、終わりまで来たしこの辺で止めておこう。やや尻切れトンボの様で申し訳無い。どうも特にイラク戦争などに関しては、当時から日本の大手メディアが伝えようとしないあちら側の情報を自分から知ろうと努力して来た所為か、他人事と捉えて中立公正な立場を維持するのは難しい。イラク戦争は私にとって立派に「私の戦争」であり、私自身は戦闘から遥か遠く離れた治安の良い土地で暮らしていようとも、私にとっては確かに一種の「戦争体験」であったのだ。なのでここまで他人の痛みに無関心、無反省、無責任な態度を取って平然としていられる人種と云うものの存在が、どうも私の目には今だに信じ難いものとして映る。

 独裁者に支配されていようが仮にも一国の政治体制を完全に破壊し、多数の民間人を含む10万人以上を虐殺し(9.11で死亡した方々の命を軽んずる訳ではないが、3,000人の死に対する報復としての100,000人の死を正当化する為には、一体どんな理屈が必要なのだろう?)、数十万の難民を生み出し、剰え今や誰もが認める世界最悪のテロリスト集団を生み出した、あの今世紀の巻頭を飾る世紀の愚行、それを今だに嘘と詭弁と誤摩化しで正当化しようとする人々(特に権力者の場合は悪質だ)に、私は一切共感しない。今回の質疑は、そうした人々の人品の下劣さを改めて思い出させてくれた。魂が穢れるとはこう云う感覚を言うのだろう。一刻も早く、まともな人権意識や理性や品性や責任感や倫理観や誠実さが感じられる人々が、私達の世界の作り手としてのびのびと活躍出来る時代が到来することを切に希う。
プロフィール

川流桃桜

Author:川流桃桜
怪奇幻想サイト『k-m industry 〜黒森牧夫の幻視風景』編集者。

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