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2023年、私はまだ人間であり続けたいと思う。

 新年の食事会に誘われた。ブッフェ形式のランチだそうだ。だが断った。「御入店の際にはマスクの着用をお願い致します」との要求を呑まねばならないらしいのだ。料理を取りに席を立つ度に、顔におむつを着けることを要求するレストランが何処に在る? 非常識にも程が有る! この店の衛生観念はどうなっているんだ? レストランとは美味しい料理を頂きに行く所であって、病気になりに行く所ではない!
 
 ………だが、まぁ、その非常識なことが圧倒的多数派になってしまえば、そちらの方が「常識」になる。コロナカルト信者は基本的に、どれだけ科学的事実を突き付けようともものともしないことが判っているので、言い争っても無駄だ。人の心は基本的に、自らが棲息している認知的空間に適合する様な情報だけを受け付け、適合しない情報は自動的に排除する様に出来ている。これは一種の精神的免疫反応だ。科学とて例外ではない。トーマス・クーンの「パラダイム」概念なんかは、こうした現実を踏まえてもっと彫琢が必要だろう。事実の方に合わせて自分の認知的空間を調整する意思と能力を持っている人間は少数派なのであり、大衆洗脳のプロ達が大規模な心理操作を繰り広げている認知戦の戦場に於ては特にそうだ。私に関して言えば、周囲の人々の大多数とは見ている世界が違うのは昔からのことだし、今更な話だ。それがここまで徹底的に可視化されたのは、流石に生まれて初めてだとは思うが。

 同じ理由で、私はこの約3年、マスクや手指の消毒を要求する様な店には行っていないし、映画、美術展、博物展、コンサート、市民オペラ、講演会等々にも出掛けることを控えている(少なくとも2021年以降はひとつも行っていない)。お陰で私の文化的生活は大幅に制限を受けることになったが、まぁ今は世界史的な大変動の真っ最中なので、その分、目の前の現実を理解する為の勉強に励んでいる。食事会に行かなかった一月一日には、一人ぽつねんとこんな書評を書いて過ごした。これもまた、別の形態の抵抗のひとつだ。

 私はこの認知戦によって引き起こされた狂気を止める力は無い。だがこの相互洗脳キャンペーンに自ら参加することは、加害者の一人としてこの巨大犯罪に加担することを意味する。私にはそんな無責任で不道徳なことを自分に許すことは出来ない。周囲の人々からどう思われようとも、どうしても嫌なのだから仕方が無い。これは良心の問題だ。多少の娯楽や自由が犠牲になることを受け入れられる程度には、私にはその問題は重要なのだ。

 「高がマスクじゃないか」と思う人はそう思っていれば良い。私はそれが人間性と文明の破壊に繋がる悪しきトロイの木馬だと思っているし、「高がマスク」と思って心理的なガードを緩めてしまうから、どんどん付け込まれて馬鹿げた有害な命令に何でも従ってしまう様になるのだと思っている。詐欺と同じで、大衆心理操作には入り口の所で断固として断る以外の確実な対処法は無いのだ。日本のCOVID-19「対策」は比較的緩いものだったにも関わらず、この2年で日本社会全体がどれだけ変わってしまったかを見てみるといい(コロナカルトに罹ると記憶力が大幅に減退するらしいが)! これらの殆どは、日本人の大多数が、悪いオオカミさんのお願いをホイホイ自発的に聞き届けてやった結果に他ならない。日本人には強制すら必要無い。自由が有っても、その自由をどう使って良いかが分かっていなければ、最初から自由が無いのと結果は変わらない。ならば踏み絵を踏むのに大した労力は必要としない。頭を空っぽにして言われた通りにするだけでいいのだ。

 だが私にはその単純なことが出来ない。我が儘だ、頭がおかしい、世の中の流れに逆らってると言われようとも、自らの良心と知性に照らして、そんな無責任で不道徳で屈辱的なことは出来ない。我ながら難儀な性分だとは思うが、それが出来たら今頃もっと楽な暮らしをしているだろう。

 私はこの巨大な認知戦に於けるパルチザンの一人だ。毎日の生活の場がその儘戦場だ。早くこの戦争が終われば良いと、毎日願っている。だが脱洗脳には長い、長い時間が掛かるものだ。だから近い将来には大した期待は持っていない。この戦いはどうしても長くなる。出来るだけじっくり腰を据えて、腹を括って、泰然と構えて、目の前の巨大な無知の塊に、楔を打ち続けたいと思う。

 昨年から止む無く情報発信の拠点を変えたけれども、パルチザン同志の皆さん、今年もどうぞ宜しく。
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「赤い錠剤」は苦く、飲み難い。

 「日本の若者の間では気候変動対策やサステナビリティに対する関心が高まっている」とWEFが賞賛していて、国谷裕子さんが英語で状況を解説したりなんかしちゃっている。
日本の若者たちが取り組む、気候変動対策
This is how Japanese youth view climate change today

 実に困ったものだが、気候変動/SDGsは別に全てが全て嘘と云う訳ではなく、気候変動自体は現実の問題だし、持続可能性の概念はそれ自体としては非常に結構なものだし、ミクロなレヴェルの話としては正しいことが多いと云うことだ。この問題を宣伝している人達だって、殆どは別に若者達を悪意を持って騙そうとしている訳ではなく、自分でも本気で良いことだから若者達にも伝えるべきだと信じているのだろう。悪意を持った連中も困ったものだが、間違ったことを信じる善意の人々は同じ位に始末に負えず、両者は往々にして区別が付かない。

 問題はマクロなレヴェルでの全体像であって、物事を切り取って考えるのではなく全体的な文脈の中に置いて考えた場合にのみ、事態は全く別の側面を見せて来ると云うことだ。だから「現実の世界と云うものは複雑な開放系で、あらゆる要因が分かち難く結び付いている。一面だけを見て全体を理解したと思い込んでしまうと、屢々とんでもない過ちに繋がる」と云う発想が身に付いていれば、仮令予備知識の無い子供であっても、「この話は何かおかしいんじゃないか。まだ知らされていない面が有るんじゃないか」と気付くことは出来るだろうと思う(少なくとも私はそう云う子供だった)。

 ところがCOVID-19パンデミック詐欺やウクライナ紛争詐欺が明らかにした(或いは改めて浮き彫りにした)のは、日本人の大多数は目の前の情報には飛び付くが、一歩退いて物事を相対化し、まだ知らされていない情報を探し出して全体像を再解釈する作業は酷く不得手だと云うことだ。

 私は自分で勉強して来た成果に基付いて「『気候変動問題』は確かに存在するが、但しTVや新聞が喧伝している様なものとは全く違うし、SDGsは全体的に見れば最悪の種類の新自由主義でしかない」と云う立場から情報発信を行なっているが、私みたいな無名の市井人がネットの片隅でこんなことをブツブツ呟いていたって、TVや新聞が取り上げなければ単に黙殺されるか、「頭のおかしい陰謀論者が妄想を呟いている」で終わりだろう。

 私は極力自分の主張のソースを明示するように務めてはいるが、提示された「物語(narrative)」の枠組みを先に信じてしまった人は、その後はそれに見合った個々の情報しか受け付けなくなるので、幾らソースを提示しても無駄に終わることが多い。認知的ゲシュタルトに適合しない情報は取捨選択の過程で自然と濾過されてしまうのだ。嘘や偏向情報に基付く物語は大抵論理に齟齬や穴が有るので、それに気が付いた人が自発的にひとつひとつの情報を再チェックして再解釈作業を行なってくれれば良いのだが、物語の自己修復能力は凄いもので、論理的に多少おかしな点が有ったとしても、小さな認知的不協和は簡単に乗り越えられてしまう。そうした細かな心理的な誤魔化しが何十、何百と積み重なって行くと、その累積効果は深刻だ。「最早どんなに明白な事実を提示しても信じようとしない、全く別の光景が見えている異次元の住人」が出来上がってしまう。そうなると最早完全に話が通じなくなる。

 そうなる前に「何かおかしいんじゃないか」と思ってくれればまだ軌道修正の見込みは有るのだが………まぁ、マスコミや政治家や御用専門家が束になって大衆洗脳に取り掛かっている大政翼賛化した西洋の現状では、このデマクラシーの現実全体を疑うことに繋がる様な心理的冒険は、殆どの人はやりたがらないだろう(私だって、平均的な日本人に比べたら多少は世界の大きな嘘には詳しいとは自負してはいるが、「AIDS騒ぎは詐欺である」と云うことに確信が持てる様になったのは、2020年に同じ様な手口でそれより遙かに大規模な詐欺が展開されるのを目の当たりにしてからだ)。

 ひとつの巨大な嘘の真相を理解するには、その嘘を成り立たせている世の中の大きな仕組みについても理解しなくてはならない。そうなると、「自分は今まで嘘の中で生きて来たのだ」と云うことを認めなければならない。自分が騙されて来た現実を受け入れなくてはならない。そしてまた、普通の人々が生来持っている世の中全般に対する信頼感も、一旦カッコに入れて脇にどけて、改めて「この世界とは何なのか。どんな風に成り立っているのか」と云う問い掛けを自前で再構築しなければならない。それは心理的に非常にしんどい作業だ。「赤い錠剤を飲む」のは非常にストレスフルな経験なのだ。

 そんなことを誰がやりたがる? 目先の安楽さや快適さよりも事実が、真実の方が大事だと信じる偏屈者だ。真実の為なら村八分になるリスクを敢えて冒そうとする少数派だ。この姿勢、この生き方には、はっきり言って余り愉快ではないことが沢山付き纏う。決して軽い気持ちで他人にお勧めは出来ない。でも私はそうする以外には生き方が我慢が出来ないので、そうするしか無い。私にとってこれ以外の選択肢など考えられない。

字が読めることの大切さを解っていない人間

識字率略100%の国に生まれつきながら、文章を読む楽しさを自ら拒否する人間、文章を通じて自分の世界を広げることを拒否する人間、世界の広さと自分の成長の可能性を自ら否定する人間を見ると、この動画を思い出す。マイケル・パレンティ氏の講演のワンシーン。字が読めることはそれだけで人類史上に於ける偉業のひとつなのだ。非識字を克服することが人類社会にとって如何に重要な意味を持つのか、彼等は想いを馳せようとしない。確率的に見て、自分が如何に恵まれたラッキーな境遇に居るかを理解していない。歴史上存在した殆どの人間から見れば、字が読めることはそれだけで羨むべきことなのだと解っていない。折角人として生まれながら、より広い視野を持つ可能性を自ら否定する人間を見ると、私は怒りすら覚える。彼等は人類のこれまでの進歩と苦闘の歴史を一体何だと思っているのか。字が読めることが、空気を吸うみたいに当然のことだとでも思っているのか。読む能力が無い人は仕方が無い。だが読めるのに読もうとしない人間、あれは一体何なんだ。彼等は言葉を、自らを解放する力ではなく、閉じ込める力として使っている………。
Michael Parenti on the Cuban Revolution

仙台市民は平和へのチャンスをむざむざドブに捨てた

 些かマイナーな出来事なので知ったのはつい最近なのだが、長年ベラルーシとの国際姉妹都市提携を結んでいた宮城県仙台市は、2022/03/14付けで、「ミンスク市との交流を当面の間見合わせることと」にしたそうだ。理由は「今般のロシア連邦によるウクライナ軍事侵攻へのベラルーシ共和国の関与を受け」てのことだそうだ。
国際姉妹都市・ミンスク市との交流を見合わせます

 2022/03/05付けの記事に拠ると、「2月28日~3月4日に電話や市のホームページを通じ「姉妹都市の提携はいかがなものか」「(市バスの車体広告でミンスク市を紹介する)ラッピングバスの運行をやめるべきだ」などの意見が9件届いた」そうで、「姉妹都市の継続を求める声はないという。」因みに、「日本国内でベラルーシの都市と姉妹都市を結ぶのは仙台市だけ」だそうだ。
ベラルーシ・ミンスクとの姉妹都市「やめるべきだ」 仙台市に意見届く

 僅か9件の意見で40年以上続いて来た関係をあっさり切ってしまう市当局の判断も腰が引けていると思うのだが(信念を持って国際交流をやっている訳ではなかったのだろう)、それに対して市民達から全く抗議の声が起こらなかったこともまた、私は大変嘆かわしいことだと思う嘆かわしいことだと思う。恐らく市当局も市民の方も、なるべく空気を呼んで揉め事を起こさないよう配慮した結果なのではないかと思うのだが、口先では平和を唱える彼等の真摯さを、正直に言って私は疑いの目で見たくなる。「政府同士は敵対しているかも知れないが、地方自治体レヴェルではまた話が別だ」と割り切って考えたり、「政府同士が敵対しているからこそ、寧ろ市民レヴェルでの交流を深めて、断絶に対抗する架け橋を作るべきだ」と云う発想が、何故出て来ないものだろうか。本当に平和に関心が有るのであれば、何故ミンスクの人々を呼ぶなりオンラインで繋がるなりして交流会や勉強会や講演会を開いたりしようとしないのだろう。自国の政府やマスコミが「相手は敵だ」と言っているから付き合いを絶とうと云う訳だろうか? 「自分がケシカランと思う相手とは断交すべきだ」と云う発想は、「SNSで気に入らない相手が居たら即ブロック」みたいなもので、現実の人間同士の関係としては圧倒的に我慢が足りないと思う。お互いに心地良く思える部分だけを擦り合わせて仲良しごっこをするだけが友好親善なのだろうか。互いの違いが先鋭化して来た時にこそ、相互理解を深める為の努力をしようと云う発想が、何故出来ないのだろうか。ベラルーシと日本は、共にウクライナ紛争の直接の当事国ですらない。単に一方は反ファシズム陣営、他方はファシズム陣営に属していると云うだけで(日本人の99%以上はどちらがどの陣営なのか、180度誤解しているが)、実際に砲火を交えている訳ではなく、交流を続けられない止むに止まれぬ事情が有る訳ではないのにだ。



 ウクライナ紛争の様に巨大な嘘が人々の認知的枠組みを決定している状況に於ては、敵陣営の市民との直接交流は、殊に重要さを帯びて来る。日本のTVや新聞が描き出すロシア像は、はっきり言って狂気の産物だ。他国には何だかよく理解出来ない帝国主義的野心に駆られて大義名分も無く他国に攻め入り、民間人の無意味な虐殺を繰り返すばかりか、原発まで攻撃するなど、全く訳が解らない。合理的な戦略も何も無く、盲目的な殺戮。血に飢えた狂人プーチンは「現代のヒトラー」と云う、とにかく何かとんでもない侵略者のイメージしか当て嵌まらないし、その野蛮な侵略を圧倒的に支持するロシア国民も狂っているとしか思えない。「国際社会」は「一致団結」してこの蛮行を非難しているが、理解不能なことにこの「侵攻」を非難しないばかりか、ベラルーシの様に積極的に支持する国まで有る。これが21世紀に起きている現実の出来事だろうか? 私だったらとても信じられない。

 そう、私だったら信じない。仮に全く予備知識が無く、この戦争が2022年の2月24日に突然始まったのだと信じていたとしても、そんな狂気の物語は、人間全般に対する私の理解ではとても説明が付かないからだ。私だったら「訳が分からない」と思うだろう。説明が欲しいと思うだろう。何か私の知らない要因が有るのかも知れないと疑うだろう。私の知っている世界に於ては、「単に血に飢えた理解不能の狂った独裁者」など、厨二向けのラノベか、幼稚園児向けのヒーロー番組の中にしか存在しない。そんなステレオタイプを垂れ流すのは報道ではない、大衆を洗脳し操作する為のプロパガンダだ。

 ところが日本人の圧倒的大多数は、そんな馬鹿げたステレオタイプを日々突き付けられて、何故か疑問を持たない。「それは生身の人間の姿ではない」と思い至らない。「相手も自分と同じ人間なのだから、もっと私が理解していない事情が存在するのでは?」と云う、相手を同じ人間と見做していたら当然出て来る筈の疑問が湧いて来ない。狂ったステレオタイプでで十分なのだと思っている。

 それが他者を理解しようとする者の眼差しだろうか。本当に世界平和を希う者の眼差しだろうか。日本人もロシア人もベラルーシ人も、等しく人間だと信じている者の眼差しだろうか。



 私が騙される者の責任を度々弾劾しているのはその為だ。ウクライナ紛争報道は1から10まで巨大な嘘の塊だ。戦争や紛争の度にマスコミが嘘を垂れ流すのは毎度のことではあるが、ここまで徹底して多種多様の嘘が大規模に展開された戦争は、恐らく人類史上初めてではないだろうか。この西側/西洋世界全体を支配しているのみならず、非西側/西洋世界の多くも侵食している超巨大なプロパガンダ・システムは、今突然出現した訳ではない。何十年も(或いは何百年も?)掛けて発達を遂げ、今までも度々卑劣な嘘によって真実を人民の目から覆い隠して来た。歴史に学び、今までどれ程の嘘によって戦争が遂行されて来たかを多少なりとも知っている者であれば、同じ様な嘘が繰り返された時にも用心する姿勢が予め養われているが、歴史から学ばない人は、平気で何度でも同じ手口に引っ掛かる。小中高の歴史の教科書でも多少は嘘が暴かれているが、例えばカラー革命や「テロとの戦争」の嘘については全く教えて貰えない。寧ろ学校はそれらの嘘についての疑問を封じ込め、嘘を拡大再生産する場だ。

 だが想像力を働かせ、他者の立場と置かれている文脈を理解しようと努力し、物事を筋道立てて辻褄を合わせようと努める人間であれば、必ず何処かで綻びに気が付く。辻褄が合わない点を見付ける。理解不能な点に行き当たる。比較的長続きする嘘も有るが、多くの嘘は頭を働かせていれば直ぐ何かおかしいと気が付く様なレヴェルの代物だ。そこから真実に辿り着けるかどうかはまぁ、個々人の調査能力や置かれている環境にも依るのだろうけれども、そもそも疑問を持つ段階にすら至らないと云うのは、頭を働かせていないからだ。自分に与えられた狭量なステレオタイプ的理解を他者に押し付けて、それで十分だと思っているからだ。予備知識の有る無しではない、他者を、世界を、理解しようとする真摯さが有るか無いかが問題なのだ。つまりはこれは認知的差別の問題だ。

 これは強引な主張だろうか? だが例えば「中国政府によるウイグルのジェノサイド」や「香港の民主化弾圧」なる与太話を喧伝して声高に人権問題の懸念を叫び立てている連中の顔触れを見てみるがいい。多くは自国の人権問題には全く関心を持たず、寧ろ弾圧や抑圧や差別を是としている様なクズ野郎ばかりだ。他者を理解するのにステレオタイプ以上のもの必要無いと思う人と云うのはそう云うものだ。人を見る眼差しに等級を付けて、状況に応じて「人間」と「非人間」を使い分けることに何の疑念も抱かない、良心の咎めも感じない連中だ。私はそれらと同じ臭いを、戦争プロパガンダを間に受けて疑わない、「平和を愛しする普通の日本人」全般からも感じ取る。彼等の良心は、平和を愛する心は、腐った権力者共によって与えられた認知的な檻の中でのみ作動する様なポンコツな代物なのではないか………?

 先日、日本人は原爆投下の問題について真剣に考えてはいないのではないか、と指摘した時にも少し述べたが、戦争とは何よりも嘘の塊であって、嘘に抵抗するには「何となく、戦争には反対だな。自分が直接被害に遭ったりするのは嫌だな」と、情緒的に戦争反対を唱えているだけでは駄目なのだ。情緒ではなく知性を働かせて、嘘に気が付いて嘘を暴かなければ、現実の戦争を止めることなど、百年経っても不可能だ。辻褄を合わせて、点と点を繋いで、情報に整合性を持たせて、安易に他者をモンスター化して切り捨てたりしない―――そうした地道な作業の積み重ねを厭う者には戦争に反対は出来ない。一生騙されて終わりだ。プロパガンダに騙される者は、確かに被害者だ。だが何時までも「自分は被害者だから一切責任は無い」とふんぞり返って知らん顔することが許されるべきだろうか。「騙された者の責任」について、何度でも真剣に問い直すべきなのではないだろうか。



 ミンスクの人々と直接話したところで、直ぐに真実が分かるとは限らない。プロパガンダによって断絶された者同士の間の溝は深刻で、一日二日顔を付き合わせてみたところでは埋まらないかも知れない。ミンスク市民の方でも、気を使って真相を語ろうとはしないかも知れない。ベラルーシでも、カラー革命未遂が起きたことからも判る様に、西側のプロパガンダの影響力は強いのだろうと推測出来る。仙台市民と交流するミンスク市民は「ロシアは侵略者」だと信じている人達かも知れない。ウクライナ避難民を見てみると良い。ウクライナではこの8年間厳しい情報統制が布かれていて、ウクライナ軍が東部や南部で行なっているジェノサイドや弾圧は、全てロシア軍の介入の仕業であると云うことになっているらしいので、ウクライナの、特に西部からの避難民が日本に来たとしても、ドンバス戦争の実態について語れる人は恐らくそう多くはない。実際、ウクライナ避難民がキエフ=ワシントンのプロパガンダから外れた証言を行ったと云う話は殆ど耳にしない。現地の人なんだから状況全体を理解していると思ったら大間違いなのだ(ドンバス戦争に関しては現在の「ウクライナ難民」は基本的には当事者ではない。ドンバスの2共和国はロシアが承認するまで国際的な承認を得ておらず、2014年後もウクライナの一部だった為、ドンバスからの難民も「ウクライナ難民」と呼んで良い筈なのだが、この8年間、彼等に手を差し伸べたのはロシアだけだ)。だが少なくともベラルーシには、西側諸国の様な、ロシア発の情報や、ウクライナの東部や南部からの情報に対する厳しい検閲は無い筈だ。西側の公式の物語とは違う物語が、仙台市民と直接触れ合った人々の口から漏れ出る可能性はゼロではない。

 陳腐なステレオタイプで他者を理解したつもりになっても全く問題だと思わないのは、相手が生身の人間、自分と対等な人間であることが理解出来ていないからだ。他者に対する真剣な関心が欠落しているからだ。そうした関心の欠如と、それに由来する無知を治療するには、生身の相手と直接交流することが一番だ。仮想敵陣営の人間と曲がりなりにも直接対峙して言葉を交わすことによって、相手はTV画面の向こうの登場人物ではなくなる。対面した出来事は、多少なりとも自分達が直接関与した、自分達の経験として蓄積されることになる。それは決して無駄ではない筈だ。それはより多くの人々が戦争の真相について気付き始めた時に、大きな助けとなってくれる可能性が有る。「敵」と呼ばれている人々を、誰かから与えられたレンズを通してではなく、自分達の目で見てより良く知ることは、本物の平和への一歩なのだ。




 だが仙台市当局は、折角手にしていたその機会を市民達から奪った。市民達もそれに抵抗しなかった。「敵」を理解する為の努力を省略しても良いと考えた。ステレオタイプ的理解を相手に押し付けても構わないと考えた。

 それは傲慢なのだ。帝国主義プロパガンダに関する限り、それに騙される人は傲慢だ。傲慢だからこそ無知なのだ。差別的な眼差しが無知を助長し、その無知が更に差別を助長する。その悪循環に囚われてしまった者は、他者を、世界を知らずとも良いと考える。与えられた嘘だけで十分他者を、世界を理解出来ていると考える。だから本当の敵が何処に居るのか探そうとしない。マスコミから現実離れした下劣な妄想戦記を与えられても何も疑問に思わず、夢中になって「プーチンケシカラン!」と叫んでいる人達は、悉く自覚無き帝国秩序の手先達だ。自らの眼差しに内包された差別に気付かず、見下せる適当な「敵」を見付けて悦に浸っているだけだ。

 特定の相手に対して「現実の人間はお子様向け漫画の登場人物とは違うのだ」と云う極く当たり前の常識を働かせられないのであれば、それはその人にとってその相手は、漫画の登場人物程度のリアリティしか持っていないと云うことだ。画面の向こうに描き出される邪悪な狂人と云う人為的に作られた歪なイメージと、現実の生身の人間とを置き換えても全く違和感を感じないのであれば、彼等が口にする平和への関心などと云うものは、精々TVのチャンネルをザッピングする間しか持続しないと云うことだ。日本人の殆どは2014年以降のドンバス戦争について、そんな戦争が起こっていたこと自体知らないが、それは何よりも先ずマスコミがその件について沈黙を守って来たのが原因だが、日本人の殆どにとっては遠いウクライナの状況など、TVで報じていなければ直ぐ関心が薄れてしまう様なものでしかなかった訳だ。彼等が語っているのは数千人単位で無辜の人々が殺害され、数十万人単位で難民が家から逐われて来た現実の戦争ではなく、TVや新聞が騒いでいる限りに於ける戦争にしか過ぎない。戦争もTVドラマも同列なのだ。画面に映されないものは存在しないし、起こっていない。

 彼等は自分自身の知性がバカにされていることにすら気付いていない。彼等は情緒的な「戦争反対」を口にしはするが、先程も言った様に、戦争プロパガンダの嘘に対して幾ら情緒だけ発動させてみても無駄なのだ。知性を働かせなければ現実の、本当の、嘘ではない戦争に反対することなど出来はしない。そして無知と傲慢の悪循環に嵌り込んで、益々現実から遊離して行く。時間の経過と共に病が薄れて行くなどと云う期待は幻想だ。それは現在の広島平和記念式典が体現している。仙台市民は市当局の愚行に対する無作為によって、学ぶ機会を逸することを自ら選択した。戦争プロパガンダからの脱洗脳の機会を、平和へのチャンスを、むざむざ自分からドブに捨てた。これを愚行と言わずして何と言おうか。

 私はこんなことが当たり前の様に罷り通る状況に中指を突き立てたい。

「ノーモア・ヒロシマ」の偽善にはいい加減うんざりしている

毎年繰り返される思考停止した茶番

 今年もまた広島で、「平和記念式典」なる茶番が演じられた。私は広島の原爆死没者慰霊碑に刻まれた「過ちは繰返しませぬ」と云う文句が子供の頃から大嫌いで、何故ならそこには「何時、誰が、何処で、どんな過ちを、どうやって犯したのか」と云う4W1Hの詳細が一切欠落しているからだ。「過ち」が行われたと言っても、具体的にどんな過ちなのかと云う説明は一切無い。そこには「とにかく何だ、原爆とか核兵器とか戦争とかって悲惨なものだ、嫌なものだ」と云うフワフワしたイメージが漂っているだけで、現実を直視しようと云う姿勢が感じられない。これでは歴史から何等かの教訓を学ぼうと思っても学び様が無いではないか。伝えられているのは否定的な情緒だけ。道理も論理も無い。だから責めを追うべきなのが誰なのかも一切不明。責任の所在を明らかにした上でそれを許すことと、最初から一切をなぁなぁにして曖昧な儘に留めておくこととは、天と地程も違う。


 第一義的に言えば、責められるべきは米軍とホワイトハウスに決まっている。広島と長崎に対する原爆投下は東京大空襲等と同じくジュネーヴ条約で禁止された民間人の殺害に該当するので、戦争犯罪だ。これは戦略上は全く不必要な作戦だったので、「当時の戦況から止むを得なかった」と正当化することも不可能だ。東京裁判が戦勝国の占有物でなかったら、後に被害国日本から紫綬褒章を貰ったカーチス・ルメイ将軍やトルーマン大統領もまた被告席に着いていなければならなかっただろう。中学生にでも解る理屈だ。

 だが日本には今に至るまで、アメリカ帝国の戦争犯罪の責任を追及しようと云う真剣で組織的な試みは皆無に等しい。それどころかオバマ大統領が広島を訪れて一言も謝罪せず、わざとらしく空涙を流してみせただけで、「ああ、オバマさんは平和主義者だ。アメリカは良い国だ」と感激する単細胞が大勢居る始末。ついでに言うとオバマは広島を訪れたその足でヴェトナムにも向かっているが、ここでも過去の侵略戦争に対する謝罪は一言も無く、武器取引の約束をしただけ。彼は正に死の商人だが、日本では何故か今だに彼を平和主義者だと信じる人が多い、

 核に関して言えば、「核の近代化」を含む30年で1兆ドルの核開発計画を始めたのもオバマ政権だ(日本のマスコミはトランプ政権が始めたかの様に報道したが、これは記憶力の有る人間なら直ぐ解る真っ赤な嘘で、トランプはオバマ路線を変更した訳ではなく、オバマ路線を継承し拡大しただけだ)。この「核の近代化」は核兵器と通常兵器の垣根を低くして「使い易い核」の開発を目指すもので、これまで使い難いからこそ成り立っていたMAD(相互確証破壊)の前提を根底から覆しかねない、全世界にとって極めて危険なものだ。ところが広島に集まった皆さんは、過去に広島で戦争犯罪を行い、その後も繰り返し世界各地で戦争犯罪を行い、全世界を核の脅威で脅かしている国に対して何の抗議もしないどころか、この世界最悪の軍事帝国に核によって脅迫されているロシア(とベラルーシ)の方を招待しないことに決めたそうだ。

 日本人の99%以上は、2022年2月の時点で、人類が今まで最も核戦争勃発の可能性に近付いたと言われる1962年のトルコ=キューバ危機よりも更に深刻な危機が進行中だったことに、気が付いてすらいないのだろう。NATOと、2014年にウクライナを乗っ取ってそれ以降実効支配しているクーデター政権の軍事冒険主義が、人類をこれまで以上に核戦争の瀬戸際に追い遣っていたことは、彼等飲目には映っていない。ウクライナ紛争は2022/02/24から始まったことになっていて、それまで8年間略休むこと無く続いて来たドンバス戦争や、ナチによる民族浄化や反対勢力の粛清や数々の人権侵害は、綺麗さっぱり存在しないことになっているのだ。「NATOに加盟するかしないかはウクライナの勝手でしょ」と平然と主張出来る人は、その場合懸かっているのは核戦争、即ち極めて高い確率で全人類の存亡であって、西側ナチ勢力の暴走を許した場合に引き起こされるであろう惨事が全く想像出来ていない。だから今でも残虐極まり無い戦争犯罪を繰り返しているナチ勢力に対して大量の武器を送ることに何の疑問も抱いていないし、その多くが恐らく前線になど届いておらず、闇ネットで売買されてジハード主義者や白人史上主義のテロリスト達の手に渡っている現状について、何の危機感も抱いていない。

 「戦争反対!」と口先では言いつつも、彼等が関心を持つのはTVや新聞の様な大政翼賛化したプロパガンダ・メディアが騒ぐ時だけ。しかもそれらが与えた認知的枠組みの中でしか物事を考えようとしない。戦争の実態を知る為の努力、厳しい検閲や言論統制を掻い潜って正しい情報にアクセスする為の努力が圧倒的に足りていないのだ。これで一体どの戦争をどうやって止めようと云うのだろうか? 彼等は恥知らずな帝国主義者共から吹き込まれた妄想戦記の中で、妄想の平和を実現しようと懸命になっている。だがそれは現実の戦争や現実の平和とは何の関係も無い。



「核の脅威」の意味

 広島・長崎への原爆投下には色々な意味が有るが、ひとつにはこれはソ連に対する宣戦布告だった。両都市の市民達は、第二次世界大戦が終わる前から第三次世界大戦を起こすことを考えていたアングロサクソンの帝国主義者共によって、捨て駒として利用された訳だ。だから「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ」と言うなら、どの国よりも先ずロシアを始めとする旧ソ連諸国を招かないとおかしいと思うのだが、広島の自称平和主義者達はロシアとベラルーシを拒んだ。西洋の自称自由民主主義ナチ陣営(私が言っているのはナチ「みたいな」連中のことではなく、文字通りナチであったか、その協力者、或いは支援者であった勢力のことだ)は、核を含むあらゆる兵器によって「ソ連を地図から消し去る」ことを夢見ていたので、1949年にソ連が核開発に成功して反撃能力を持つことが無ければ、ヒロシマ・ナガサキなど歴史の小さな一エピソードとして忘れ去られてしまう様な、比較にならぬ程超巨大な核の大惨事が起こっていたかも知れない。NATOが冷戦を「熱い戦争」に変え、それに勝利していたら。今頃ユーラシアの広範囲が放射能の海に沈んでいたかも知れないのだ。そしてNATOナチ勢力は今に至るまで、世界的な軍事覇権の野望を諦めていない。


 冷戦中、人類が最も核戦争の瀬戸際に近付いたのは1962年のトルコ=キューバ危機(西側では「キューバ危機」と呼ばれ、恰もこの危機を作り出したのはソ連側であるかの様な印象操作が行われている)だと言われているが、実際には表に出なかっただけで、それに近い危機的状況は何十、何百回も起こっていたことが今では知られている。各国が核兵器を保持するのは「核兵器は抑止力になる」と云う前提に基付いていた訳だが、実際には抑止どころか絶えず人類を滅亡の危機に追い遣っていた訳で、こんな綱渡りの上に成り立つMAD(相互確証破壊)による平和など、それこそMADでしかない。「核抑止力」は何れ歴史のゴミ箱に捨て去られるべき忌まわしい幻想だ。だから「一刻も早く全ての核のボタンを無用のものにしなくてはなりません」と云う広島の自称平和主義者の言い分は、その限りに於ては正しいと私も思う(まぁ例えば、「巨大隕石を破壊する」とか、核兵器の平和利用の可能性も将来的には考えられない訳ではないだろうが)。

 だが現実問題として核を無くすには、現実に核による威嚇を行なっている国々の脅威を先ず取り除かねばならない。ホールドアップの最中に、ホールドアップされている人に向かって「武器を捨てろ!」とか言うのはフェアではない。ホールドアップしている方にこそ先ず「武器を捨てろ!」と言わねばならないのだが、ウクライナ紛争にしろ他の状況(例えば「北朝鮮の核開発問題」)にしろ、日本人の圧倒的大多数はメディアによる知覚管理、認知操作によって、完全に主客が逆転した構図を受け入れている。これを私はよく「悪いインディアンが善良な開拓民の村を襲っている!」と云う西部劇に喩えているのだが、目の前の状況から一歩退いて相対的に見てみれば、相手の土地や財産を奪ってジェノサイドを強行しているのは無論「善良な開拓民」の方だ。襲われた方のリアクションをアクションとして描くのは、侵略者の常套手段だが、これを何度もやられると、騙された観客の中では当然「相手は対話も理屈も通用しない、訳の分からない悪魔だ」と云うイメージが形作られて行き、それはやがて根深い差別感情となって、歪んだ現実理解を自動的に拡大再生産する様になる。私は今の日本の至るところにこれを見て取っている。

 核による先制攻撃を言い出したのはロシアではない、アメリカ帝国の方だ。「使い易い核」を開発しているペンタゴン界隈の連中は「核兵器は安全で民間人に優しい」とか、一寸正気を疑う様なことを堂々と議論している(西側大手メディアによって報道されることは無いが)。そしてアメリカ帝国は自らを国際法を超越した存在と位置付け、自国民が国際司法に裁きを受けることは無いと堂々と宣言している。国際司法が完全に機能していれば、歴代の米帝大統領なんか全員死刑に値するが、誰一人その戦争犯罪や人道犯罪の責任を問われたことは無い(バイデンがイラク戦争を熱烈に支持していたことを皆さんお忘れだろうか? あれで一体何人死んだ? 一説では15年間で240万人だ)。

 連中は、ロシアや中国の様に国際法を遵守しろとは言わない、「ルールに基付く秩序」なるものを唱導する。つまり「俺様がその時々で言うことがルールだ」と云う訳だ。歪んだ認知構造の形成された日本人はこの「ルール」を自動的に国際法とか国連憲章とかに翻訳してしまう様だが、客観的に言って国際違法違反の世界一の常習犯は一体何処の国なのか、冷静に考えてみれば良い。他のどの国も到底敵わない世界最大の軍事予算を組み、世界中に何百もの(ひょっとしたら千以上)軍事基地を造って剰え他国に貢がせ、世界の反対側まで行って他国に違法に「人道的」に爆弾を落としたり違法にテロを支援したり違法に資源や資産を強奪したり違法にレジームチェンンジ工作を行なって傀儡政権を据え付けたり違法に「制裁」と称する経済的攻撃を繰り返したりしているのはどの国だろうか。この世界最悪のならず者国家をどうにかしない限り、武装解除したくないと思う国は多い。例えば核開発を放棄したリビアのカダフィがどうなったか、世界一のならず者国家にならず者国家呼ばわりされたイランやDPRKはよく見ている。彼らに軍備を増強するなと抗議をするのは完全に筋違いで、先に抗議すべき相手が居る(マッカーサーが朝鮮半島に30発以上の原爆を落としたがっていたことをDPRKが忘れているとでも?)。因みにロシアの国外の軍事基地は今はたったの18だ。中国に至っては日本と同じでジブチに一箇所だけで、国連活動に従事しているだけだ。



日本の非核化?

 核兵器禁止条約を日本も批准すべきだと云う声をよく聞く。だが日本政府にはその権限は無い。先に指揮権密約や核持ち込み密約をどうにかしない限り、非核三原則の内、日本政府は核を「作らず」はまぁいいとしても、「持たず」は状況に依っては守れるかどうか怪しいものだし、「持ち込ませず」に至っては自分達の裁量ではどうにもならない。日本が核を禁止したいなら、先ず自国の主権を手に入れなければならない。

 最近ロシアのプーチン大統領は、多極化へ向かう世界に於ては主権が重要な意味を持って来ることを再三強調しているが、日本には少なくとも安全保障面に於ては主権は無い。完全に属国だ。ROKも日本と同じく米帝の属国だが、日本人は韓国人よりも更に状況が解っていないだろう。例えば北方領土(クリル諸島)問題が典型的だが、北方領土が仮に日本に「返還」された後、そこに米軍基地が造られないことを、日本政府は保証出来ない。日米地位協定によって、日本の国土の何処であっても、米軍は好きに使うことが出来ると定められているからだ。だから日本政府の方で「北方領土に米軍は造らせません」と勝手に約束することは出来ない。北方領土問題を本気で「解決」したいのなら、日本国首相が先ず足を運ぶべきはモスクワではなくワシントンの方なのだ(ワシントンの方でそれを許すとは到底思えないが)。なのでポツダム宣言を読んだことが無いと堂々と国会で発言してしまう様なバカ丸出しの安倍晋三が何度プーチン大統領に尻尾を振ろうとも、この方面での交渉がまともに進む筈も無く、そうした茶番のカラクリを恐らく重々承知した上で、歴史改竄主義者の無礼な部分には敢えて目を瞑り(日本帝国がソ連を侵略しようとしていたことを、侵略されようとしていた方が忘れる筈は無い)、実利を取ることを選択してくれたロシア側の対応は実に大人だったと言えるだろう(中国についてもこの点は似た様なもので、日本は精神的に成熟した隣人達に恵まれている)。

 私は断じて安倍支持者などではないが、この点については、今や「安倍政権の方がまだ遙かにマシだった」と言える様な状況に、この国は落ち込んでいるのではないかと思う。この件については今回は深入りはしないが、恐らく今後岸田政権下、或いはその次の政権下で、日本の主権は安全保障分野でも経済分野でも、確実に後退する。核兵器禁止条約など夢のまた夢だ。先程から繰り返している様に、何より国民の大多数がこの問題の所在をまるで理解していない。先行きに期待は全く持てない(ふと思い出したので多少脱線するが、最近の参院選挙期間中に、或る地方新聞の記事で各候補に「最近読んだ本は何ですか?」と云うどうでもいいような質問をしていたのだが、候補者の皆さんは政治には余り関係無い様な本ばかり挙げていたのだが、名前は伏せておくが自民党の候補だけが「特になし」と回答していたのが印象的だった。当選したのはその自民党候補だった)。

 日本人の国際情勢のガラパゴス化は深刻だ。典型的な例を挙げれば「日本国憲法9条を世界遺産に!」とか云うトンチンカンな運動だ。彼等は国連憲章を読んだことが無いのだろうか。9条1項に該当する様なことなら国連憲章にも書いてある。


 9条のユニークさは2項にこそ在る。だが2項は守られてはいない。曾ての自民党は「自衛の為の戦力は戦力ではない」などと云う強弁で自衛隊の存在を正当化していたが、そんな言い分が通用するのなら世界中に軍隊など存在しないことになってしまう。日本国憲法9条2項と自衛隊の存在は論理的に整合しない。ストレートに読めば中学生だって理解出来ることだ(誤解の無いように言っておくが、私は「自衛隊はいけん!」とか言っている訳ではない)。日本国憲法の原文を書いたGHQ民政局の法務エリート達は国連憲章と整合性を持たせる積もりでそれを書いた。彼等の当初の予定では、文字通り日本には戦力を持たせず、日本の安全保障は国連軍が担うことになる筈だった。だがFDRが死亡してスターリンが孤立し、国連中心主義が頓挫したことで、帝国主義勢力による所謂「逆コース」が9条と、それと同時に国連憲章の集団安全保障構想を有名無実化した。冷戦以降NATOギャングが白昼堂々東半球を荒らし回っているのも、遠因はそれだ。9条をどうしたいかと云う問題は必然的に国連をどうしたいかと云う問題と切り離せない筈なのだが、9条護持を掲げる人々がそうした視点を持っている様には全く見えない。

 ロシア(軍事)と中国(経済)を中心とする反帝国主義勢力は国連憲章を再活性化し、国際法に基付く平等な主権国家同士の国際秩序を志向しているが、日本人の大多数はそうした流れに気が付きもしない。寧ろロシアは中国こそが邪悪で無法な帝国だと信じている。彼等はマスコミが伝える「国際社会」、即ちファシズムをブランド変更しただけの西側自由民主主義ナチ陣営こそが世界の全てだと思い込んでいて、それ以外の国々で起きている世界史的な大変革が理解出来ない。だから彼等の叫ぶ平和を求める声は空疎で空回りしている。帝国主義や新植民地主義、ファシズムや新自由主義を批判出来ない反戦主義は、中身の無い空っぽのポエムだが、彼等は基本的に自分達の生活にしか関心が無いので、自分達の耳に心地良い情報だけを選んで後は無視することに何の躊躇いも持たない。セカイに平和をと言いながら、彼等は認知的な檻の中から出て来ようとしない。そして平然と帝国主義の犠牲者達を差別する。そしてそのことに気が付いていない。

 そんなことはない? なら、2022年8月現在、西側大手メディアはウクライナ紛争ばかりを取り上げているが、世界中を見渡せば、戦争や紛争やジェノサイドや制裁やテロや重大な人権侵害等は至る所で起こっている。それらの内、幾つ位まで具体的に挙げられるだろうか? 「世界から核を無くそう」と訴えている日本人達は、現状では自国が被害者ではなく加害者サイドに居る事実に、何処まで気が付いているだろうか?
プロフィール

川流桃桜

Author:川流桃桜
一介の反帝国主義者。
2022年3月に検閲を受けてTwitterとFBのアカウントを停止された為、それ以降は情報発信の拠点をブログに変更。基本はテーマ毎のオープンスレッド形式。検閲によって検索ではヒットし難くなっているので、気に入った記事や発言が有れば拡散して頂けると助かります。
全体像が知りたい場合は「カテゴリ」の「テーマ別スレッド一覧」を参照。

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