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「ルワンダのジェノサイド」の真相と不可視化された「アフリカの世界大戦」

Edward Herman、David Peterson 著、Enduring Lies: The Rwandan Genocide in the Propaganda System, 20 Years Later のレビュー。



 1994年に起きた「ルワンダのジェノサイド」については、この本の著者が言うところの「標準モデル」を疑ってはいけないことになっている。何しろ2014/04/16に採択された国連安保理決議第2150号「ジェノサイドと戦う為の再誓約」で、この件に関する「歴史の明確化」が要求され、この標準モデルを各国は受け入れなければならず、これを否定する者は無条件で非難されることが決定されたのだ。つまり「異論が許されない絶対的な歴史的真実」なるものが、政治的に決定された訳で、ここまで異常な措置は、ナチのホロコーストに対してすら行われたことは無い。単なる事実の筈のものがここまで政治化されたこと自体が、国連を私物化している連中が、この「ジェノサイド」の真相が暴かれることをどれだけ恐れているかを物語っている。
 
 ルワンダのジェノサイドに関する標準モデルの物語はこうだ:多数派を占めるフツ族と少数派のツチ族の対立が続くルワンダで、フツ族はツチ族を抹殺する陰謀を計画していた。フツ族の過激派は1994/04/06、ツチ族に対して融和的なフツ族のハビャリマナ大統領と、ブルンジのシプリアン・ンタリャミラ大統領が乗ったジェット機を撃墜し、これをツチ族の犯行だと主張することで、ツチ族と、穏健なフツ族に対する大量殺戮を開始した。虐殺は100日もの間続けられ、死者の数は80万とも110万とも言われている。この「ルワンダのジェノサイド」は、ポール・カガメ率いるルワンダ愛国戦線(RPF)がジェノサイド犯達を排除し、国を解放することでようやっと終息を迎えた。

 だが本書の著者達は以下の点を指摘することで、この公式の物語に真っ向から異を唱えている。

 ・見せ物裁判だったルワンダ国際戦犯法廷の検察側は、ハビャリマナとンタリャミラ両大統領を暗殺したのは、標準モデルが主張する様なフツ族の過激派ではなくRPFであることを示す強力な証拠(口封じの為暗殺されることを恐れて逃亡して来たカガメの元部下達の証言等)を入手していたが、主任検察官ルイーズ・アルブールは米国大使館に相談した後でこの証拠を握り潰し、暗殺の犯人を突き止める調査を打ち切るよう命じた。

 ・暗殺の報が届いた時、ルワンダ国軍は周章狼狽して為すところを知らず、脱走が相次いだ。事前にジェノサイド計画を立てていたとしたら余りにお粗末な展開だ。対照的に米国で軍事訓練を受けたカガメ率いるRPFの方は規律が取れており、直ちに組織的な殺戮を開始した。

 ・RPFは1993年に結ばれたアルーシャ合意(和平協定)を逆用して、キガリに軍事拠点を築いていた。RPFが攻撃準備を整えていたことを、国連平和維持軍は把握していた。

 ・標準モデルではフツ族過激派がツチ族と「穏健な」フツ族を殺害したと云うことになっている。だが当時の複数の人口統計データを見ると、多少バラつきは有るのだが、ツチ族の人口は「ジェノサイド」の前は50~60万、後は30~40万となっており、どの数字を見ても、「ジェノサイド」期間中に死亡したツチ族は10~20万と云う結果になる。他方、全体の死亡者数は50~200万と更に開きが有るのだが、これらから10~20万を引いた数字が、フツ族の死亡者数を示すことになる。後は小学生でも判る算数の問題で、どのデータを取ってみても、死亡者数はツチ族よりもフツ族の方が遙かに多い。これは標準モデルの物語とは著しく乖離している。

 ・1993年のアルーシャ合意は、ツチ族との共存を望まないフツ族の過激派にとって望ましくないものだと標準モデルでは言われているが、実際には和平合意が成ってしまうと都合が悪くなるのはツチ族の方だ。ルワンダは約9割がフツ族、約1割がツチ族、残りの超少数派がトゥワ族なので、普通に選挙をやったら、カガメが大統領になってツチ族がフツ族を支配する構造を再建するのは先ず不可能だ。選挙を経ずにカガメが実験を握る為にも、フツ族の排除は必要だった。

 ・米国務省の極秘メモは、RPFがフツ族の市民に対して民族浄化を行い、殺害の95%がRPFによるものであることを認めている。

 ・1995年の国際会議で国連事務総長のルワンダ担当特別代表シュライヤ・カーンは、事前のジェノサイド計画は存在しなかったと結論付けている。

 ・標準モデルの支持者が「15人の被告を有罪判決に追い遣った圧倒的な証拠」を主張することも有るが、15人の被告の誰一人として、「ジェノサイドに関与する陰謀」の罪で有罪判決を受けてはいないので、これは端的に嘘だ。全員が無罪か取り下げになっている。

 ・ツチ族に対する抹殺計画が存在した証拠だと主張される「ジェノサイド・ファックス」に関しては、著者は他の記録と整合していない等の事実から、「ジェノサイド」前の1月ではなく、「ジェノサイド」後の11月に挿げ替えられた捏造文書だと結論付けている。それに仮にこの文書が本物だったとしても、証言者が証言しているのは、単にキガリに居る全てのツチ族を登録せよと云う命令が下されたと云うことだけで、それが抹殺計画の為だと云うのは、その証言者(使い走りのボーイ)の純然たる推測に過ぎないと云うお粗末さだ。

 要するに、「ジェノサイド」の主犯はアルーシャ合意を拒否し、殺戮の前や最中に交渉を拒否したRPFだったのだ。この主客が完全に転倒したジェノサイドに於て、RPFが果たした役割とは何だったのか。標準モデルからすっぽ抜けているのは、ルワンダ愛国戦線(ウガンダ人民防衛軍が改称したもので、ルワンダ独立後にウガンダに亡命したツチ族が主体)が1990年以来、ルワンダに対して侵攻を仕掛けていたと云う事実だ。1994年の「ジェノサイド」は、この侵略戦争の総仕上げだった。


 
 ルワンダに於ける人権侵害に関する国際調査委員会は、早くも1993年の段階で、RPFではなくRPFに攻撃されているハビャリマナ政権をジェノサイドの罪で告発していたが、これがRPFによる更なるフツ族殺害にお墨付きを与えることになった。

 ルワンダの隣国、ブルンジでは、1993年にフツ族初の大統領となったメルシオル・ンダダイエが、同年ツチ族の強硬派によって暗殺された。その後の流血沙汰で約5万人が死亡したと見られているが、大量の難民(国外難民が58万、国内避難民が100万)が発生したことで、この影響は近隣にも波及することになった。1994年3月の時点で、ルワンダにはブルンジから逃れて来た約26万人の略フツ族の避難民が居り、それに加えて既に35万人もの国内避難民が溢れていた。

 米国のクリントン政権は国連に圧力を掛けて平和維持軍を撤退させたが、それは標準モデルが主張する様に、フツ族によるツチ族に対する抹殺計画を予測出来なかったからではない。抹殺計画を立てていたのはPRFの方だ。米国の措置は、RPFがフツ族を殺戮する間、平和維持軍が手出ししないようにする為だったのだ。「米国が関与していればジェノサイドは防げた」どころの話ではない、米国は実際にはジェノサイドが順調に行われるよう、積極的に関与していた。

 そして米国政府は7月に、PRFが勝利宣言を行って10日も経たない内に、ルワンダ暫定政府を否認し、RPFこそが正統政府であると宣言した。そして更なに巨大な惨劇がここから始まる。

 どれだけ殺戮を行っても完全に御咎め無しとのお墨付きを得たRPFは、2年後の1996年、逃亡した「ジェノサイド犯」を掃討すると云う名目で、今度は隣国コンゴ民主共和国(当時はザイール)の難民キャンプへの攻撃を開始した。これは近隣諸国等を巻き込んだ大規模戦争に発展したことから、「アフリカ最初の世界大戦」「今日の世界に於ける最大の人道的危機」「第二次大戦以来の世界最悪の危機」等と呼ばれることも有ったが、西洋メディアの注目度は低かった。死者は1998年から2009年までの間だけでも540万人と見積もられている。

 コンゴの侵略を行ったのは、RPFが支配するルワンダ、ウガンダ、ブルンジ、そして米英加だった。この西洋3ヵ国はフランスの強い影響下に在ったルワンダのハビャリマナ大統領とコンゴのモブツ・セセ・セコ大統領を排除したので、これらの戦争は対仏代理戦争の側面も持っていた(1994年、RPFの支配はフランス軍が展開していた南西部には及ばなかった。ここでは同軍が6~8月までターコイズ作戦を行なっていた)。

 コンゴの豊富な鉱物資源の収奪はこうして可能になった。例えば携帯やスマホや電気自動車のバッテリーに必要なコバルトは、全世界の70%がコンゴに埋蔵されている。1990年からの一連の侵略は、現地の代理勢力を利用した、帝国主義勢力による中央アフリカの資源争奪戦争だったのだ。



 標準モデルを広める上で重要な役割を果たした「人権活動家」、アリソン・デフォルジュは、「フツ族のプロパガンディスト達」について述べた文書で、自分達がやったことを敵がやったことに見せ掛ける手法について解説している。だがこれこそ正にツチ族のプロパガンディスト達がやったことだ。彼等は西洋諸国の支援を受け、「RPFによるルワンダ侵略と、ルワンダとコンゴのフツ族の抹殺」を、「フツ族によるツチ族に対するジェノサイド」と云う、完全に主客が転倒した物語に作り変えることに成功した。デフォルジュは「フツ族に対して完全な支配権を再確立する為のRPFの陰謀」なるものはフツ族によるプロパガンダだと主張している訳だが、1994年以降、ツチ族がフツ族に対して完全な支配権を再確立したのは誰にも否定し様の無い事実だ。

 殆どのルワンダ人はRPFを占領軍と認識していたが、米国から「アフリカのリンカーン」と呼ばれたカガメは、「国際社会」に於てはルワンダとコンゴを侵略した大量殺戮者ではなく、ルワンダのジェノサイドを止めた解放者、英雄としての評判を確立した。そして2000年には前任者の辞任を受けて自動的に大統領に就任し、2003年の初の選挙では、95%と云う、常識的に考えたら有り得ない様な支持率で当選を果たした。これは例えば米国が傀儡政権を指揮させる為に連れて来た南朝鮮の李承晚や南ヴェトナムのゴ・ディン・ジエムもまた有り得ない程の高支持率で権力を獲得したことを連想させる。米国はやらせ選挙の結果を盾にすることで、非道な侵略戦争を正当化し、恐怖政治を布く全体主義体制に対する支援を、「民主主義に対する支援だ」と主張して来た訳だが、それと同じだ。

 カガメはこのレビューを書いている2023年現在も大統領の座に就いており、反対派や批判者に対する容赦の無い弾圧を続けている。コンゴの戦争は今だに終結しておらず、国内外には数百万人の避難民が溢れ、人身売買や児童労働が横行している。今だに卑劣な嘘が罷り通っている「国際社会」の世論の無関心がこれらの状況を可能にしている。私達はプロパガンダに疑問を持たずに普通に暮らしているだけで、ジェノサイドや侵略戦争、非人道的な搾取の物言わぬ共犯者になっているのだ。TVや新聞や政治家や活動家が「あいつらは悪者だ」と言い立てる時、何も疑問を持たない者は、結果的に歴史の間違った側に立つことになる。



 *余談だが、ツチ族とフツ族の区別が権力構造に起因すると云う指摘は興味深い。ツチ族だと権力を握り易く、フツ族だと権力から排除され易くなる、と云う訳ではなく、権力を持っている者やそれに近しい者がツチ族と呼ばれ、服従する者がフツ族と呼ばれるのだだそうだ。だからこの両者の対立は民族紛争の面を持つと同時に一種の階級闘争だと言える。COVID-19パンデミック詐欺やSDGs等による「上からの階級戦争」が世界的に激化する現状では、権力を取り戻そうとする反民主主義的な反動勢力が本気になったらどれだけのことをやらかすのか、そしてそれを完全に隠蔽して物語の構図を逆転させることがどれだけ容易なのか、具体的な前例を知っておくことが是非とも必要だろうと思う。 「国際社会」を丸ごと騙すことは可能だし、実際に幾つもの前例が有るのだ。
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お互いに、付き合い切れない異世界人達と暮らすのはしんどい

母親を陰謀論で失った




 私も時に「陰謀論者」と呼ばれることの有る人間に一人だけれども、コロナカルト信者から見ると、我々「陰謀論者」がどれだけ理解不能な存在に見えるかと云うことを描いたエッセイ漫画を見付けたのでざっと読んでみた。基本的に既に知っている様な内容ばかりではあったものの、以下の点が再確認出来るかと思う。

 ・メディアリテラシーが低い人は、今だに「マスコミvsネット」と云う全くピント外れで雑な二分法でな情報の信頼性を評価している。当然、メディア空間が軒並み(TVや新聞、雑誌等の類いは略全て)大政翼賛化している現実にも気が付いていない。彼等はジュリアン・アサンジ氏が不当に拘束されて心理的拷問を受け、エドワード・スノーデン氏がロシアで亡命生活を送っている現実と、自分達の身の回りの出来事を繋げて考えられない。

 ・「ネットの情報は怪しい」と言う人は、大抵マスコミの情報を疑う方法を知らないし、ネットを使いこなして質の高い情報にアクセスする方法も知らない。政府や大企業が提供する情報を摂取していれば情報収集になると思っている。彼等は報道の行間を読むことが出来ない。

 ・そもそも殆どの人は事実を確認する為にそこまでの手間を掛けようとしない。学術論文を読む時の様に事実確認の為にソースを辿ると云う習慣が身に付いている人は極く一握りだ。例えば「マスクの感染予防効果」についての真偽を確かたいのであれば話は単純で、マスクの感染予防効果について書かれた一次論文や一次データを読めば良いだけの話だ。私はユニバーサルマスクが有害無益であることを証明したエビデンスレヴェルの高い論文を何十本も紹介出来るが、幾ら紹介してもマスク信者は全く論文を読まない。彼等は単にそれらの証拠を黙殺するか、良くても精々エビデンスレヴェルの低い情報を出して反論したつもりになり、最後は私に「陰謀論者」のレッテルを貼って満足する。彼等は推理小説を読む様に現実と向き合う必要性をそもそも感じていない。世界は透明なもので、嘘偽り無くメディアを通じて真っ直ぐ自分達に与えられているものだと信じている。

 ・コロナカルト信者も「陰謀論者」も、その殆どは一次ソースを確認する努力をせず検証レヴェルの低い結論だけを信じているので、論拠を突き合わせて両者の主張を比較検証する作業が出来ない。従って両者の話はずっと平行線を辿った儘噛み合わない。残念ながら日本のSNSやブログ等で出回っている「陰謀論」関連の情報は、その殆どがソースを確認出来ない孫引きばかりで埋まっている。私は極力一次ソースを確認出来る様な形で情報発信を行っているつもりだけれども、私の紹介したソースをいちいち確認してくれる人は極く一部に限られる様だ。

 ・殆どの人は事実ではなく物語を信じている。事実に合わせて自分の信念体系を調整するのではなく、自分の信念体系に合う様な情報を予め取捨選する。日本人は元々議論が下手だと言われるけれども、パンデミック詐欺の場合は似非科学に支えられた確証バイアスがこの傾向を強化しており、矛盾だらけの公式の物語から帰結する大抵の認知的不協和は不可視化されてあっさり乗り越えられてしまう。認知的不協和を可視化して拡大する諸事実を積み重ねて行けば何時かは臨界点に達するのかも知れないが、脱洗脳のプロセスは通常は長い時間を要するものだ。

 ・「陰謀論者の言動が怖い」と言うコロナカルト信者には、コロナカルト信者の言動や圧力に怯えたりフラストレーションを感じている「陰謀論者」の姿は基本的に見えていない。圧倒的多数派は少数派の気持ちが理解出来ないのが世の常だが、ウクライナ紛争について「プーチンは現代のヒトラー」とか平然と言える人が、ロシアの側から見た状況を想像してみることが全く出来ないのと同じで、巨大な嘘によって人々が分断され、全く異なる別々の世界観が生きられている時、自分達から見たら嘘を信じている側の人達の頭の中を想像してみることは難しい。

 ・私は日本人の多くは2011年に、「巨大な利権が絡んでいる時には、御用学者や御用専門家の言うことを鵜呑みにしてはいけない」と云う教訓を学んだものだと思っていたが、全くの買いかぶりだった。感染予防効果などそもそも保証されておらず、何か起きてもメーカーは一切責任を取らないことが最初から宣言されていて、多くの専門家達がその危険性を警告していた人類初の遺伝子治療技術である遺伝子ワクチンを、日本人の8割が強制もされていないのに、プロパガンダと同調圧力だけで接種した。「陰謀論者」の側の一人として言わせて貰えば、正気の沙汰とは思えない。原子力ムラの嘘について英語論文や一次データを読み込んで暴く能力が有った人々の多くも、それより桁違いに腐敗したビッグファーマの嘘については完全に思考停止してしまった。厚労省の人口動態データは既にえらいことになっているが、何も疑問を持たずに暮らしている人は3年も経っても今だに何の疑問も抱かない。こうなると最早同じ国、同じ世界に生きているとは言えない。状況が落ち着くまでは、心理的別居が最も穏健な解決策かも知れない。

 *余談だが、「陰謀論者」とは、CIAがJFK暗殺に関して、当局の説明に疑問を抱く言説を封殺する為に流行らせた言葉であって、単なる流行り言葉ではなく諜報部による言論統制作戦の一環だ。つまりこの言葉(の流行)自体が、陰謀の結果だ。

現代世界を生き抜きたいなら、先ずは巨大な嘘を見抜こう

Anthony Cartalucci(現Brian Berletic)、Nile Bowie 著、Subverting Syria: How CIA Contra Gangs and NGO's Manufacture, Mislabel and Market Mass Murder のレビュー。




 マスコミが所謂「シリア内戦」と表現している出来事の真相については、私は数年間見抜けなかった。まぁ2011年と云うと、他の多くの日本人と同じく、私もまた国内問題で頭が一杯であって、個人的にも(災害とは関係無いのだが)生活が激変したことも有って、とても他国の問題にまで頭を使う精神的な余裕が無かった。きちんと向き合おうと思ったのはそれから二、三年して生活が落ち着いてからだ。TVや新聞が伝えていることが恐らく極めて歪んでいて、嘘も混じっているであろうことは、行間を読めば容易に推察出来たのだが、語られていない所で具体的にどんな力学が働いているのかが解らない。取り敢えず思い付く儘あれこれ調べてみて判ったのは、日本語環境では(他の多くの国際問題についてもそうだが)この問題の表面的なことしか知ることは出来ない、と云うことだ。まぁ日本のTVや新聞なんてのは、私は昔からCIAの手先のプロパガンダ機関程度にしか思っておらず、元々期待していなかったのだが、代替メディアであるオンラインの独立系のニュースサイトや、書籍に関しても事情は同様で、TVや新聞が隠し事をしたり事実を歪曲したり嘘を吐いたりしていると云うことまでは突き止めることが出来たものの、それだけではどうにも腑に落ちない点が多かった。後から振り返れば、これらは質の高いジャーナリズムや地政学分析の水準を満たしていなかったのだと解る。

 それでまぁ、外国(と言っても略英語圏だけだが)の情報源を頼りにしてみたものの、これも後から振り返ってみれば、西洋諸国の大手メディアはこの時点で既に完全に大政翼賛化していたので、これも殆ど役に立たなかった。資本の集約、オールド・メディアの衰退に伴う報道の質の劣化とスポンサーの影響力の増大、インターネットの普及による収益構造の変化、9.11後の西洋社会全体で繰り広げられたこれまで以上の言論統制等々によって、西洋社会の大手メディア業界からは、言論の自由の多様性などとっくに失われ、大企業メディアは殆ど諜報部と一体化してしまい、完全に新冷戦プロパガンダのマイクロフォンと化していたのだ。個人的に特に混乱させられたのが、アル=ジャジーラの変質だ。アラブ世界初のグローバル・メディアとして、私は比較的信頼の置けるメディアだと思っていたのだが、スポンサーであるカタール政府がシリア侵略に加担した所為で、アッと云う間に他と変わらないフェイクニュース満載の西洋のプロパガンダ装置のひとつに成り下がってしまった。後に当時の辞任した元幹部がインタビュー記事で、「15年掛けて作り上げて来たものを、半年で失ってしまった」と嘆いていたのを覚えている。アル=ジャジーラは他の西洋大手メディア同様、今でも質の高い記事を発表することも有るが、基本的に国際情勢については新冷戦プロパガンダ・マシンの一部として機能しているので、要注意だ。恐らく大量のフェイクニュースの塊である西洋大手メディアのゴミ報道からも、きちんと行間を読めば、或る程度までは真相に辿り着くことが出来たのではないかとも思うが、こう思うのはまぁ後知恵であって、実際に適切に行間を読んで点と点を繋いで状況の全体像を導き出すには、それ相応の知識と熟練が必要だったろう。取り敢えず嘘も含めて集められるだけの情報を集めて篩い分け作業を続けてみれば、その内真相が見えて来るのではないかと思って、無差別な情報収集を行なってみたことも有ったが、これは失敗に終わった。やはり最初から嘘と事実とをきっちり区別するには、もっと知識と経験の有る人の導きが必要だ。

 私の真相究明作業はここで行き詰まってもおかしくなかったのだが、幸いなことに、ネットの世界には広大な別の選択肢達が広がっていた。この時期、大本営メディアからは本物の反戦ジャーナリストや識者が完全に姿を消す一方で、そこから排除された多くのジャーナリストやアナリストや研究者達が、雨後の筍の様に次々と新しいニュースサイトやブログ等を立ち上げたのだ。どうやら私の求めていた情報を提供してくれるらしい Global Research や Antiwar.com 等の数々の非常に質の高いニュースサイトや言論サイトから徐々に裾野を広げ、ヴァネッサ・ビーリィ氏やエヴァ・バートレット氏の様な、実際にシリアを訪れて調査を行っているジャーナリスト達の存在や、シリア状況も含めて、国際報道の嘘についてデバンキングを行っている無数の優秀な情報発信者達の存在を知ることが出来たのだ。これらは指数関数的に相互作用を及ぼし、戦争プロパガンダの嘘を見抜く主な方法が本だった時代とは比べ物にならない位、嘘を見抜くのに必要な情報に辿り着く速度と範囲を飛躍的に高めた。インターネットの普及はまた、一般市民が一次ソースを確認する能力をも劇的に高めた。情報をマスコミが殆ど独占していた時代は終わり、テクノロジーの向上と普及が齎した情報の民主化とでも呼ぶべき事態が、人々の世界観や言説空間の在り方を根底から変革し始めたのだ。これに適応出来た人間は、場合に依っては殆どリアルタイムで嘘を見抜くことが出来る様になるし、次にどんな嘘が繰り出されるのか予想出来ることも有る。

 但しこれは自分が何を探すべきかを心得ている人達に限った話であって、SNSの普及はまた、戦争プロパガンダの嘘に反対すると云う意味での反戦主義者が、西洋諸国では最早絶滅危惧種になってしまった現状をも暴露した。戦争に反対するには何よりも先ずその戦争が正確に何を意味しているのかを理解せねばならないのだが、新冷戦プロパガンダの拡大強化に合わせて自分の頭をアップデート出来ている市民は殆ど居なかったのだ。その結果、完全に新冷戦モードに洗脳され切った人々が当たり前になり、嘘ではなく本物の戦争に反対する人々は、陰謀論者だのロシアや中国の工作員だのと呼ばれて、メジャーな言論空間に於ては完全に周辺化されることになった。情報技術の革新はメディア・リテラシー格差の拡大を齎し、世界観の二極化を引き起こした。これが最も顕著に浮き彫りにされたのは2022年以降新たなフェーズに入ったウクライナ紛争だ。西洋の新冷戦プロパガンダの嘘を鵜呑みにする人達は、自分では戦争に反対しているつもりで第三次世界大戦を支持し、戦争プロパガンダの嘘を批判する人達は、前者から戦争を支持している狂人だ、ロシアの工作員だと罵られ、その言論の自由を行使する場を制限されている。

 シリア「内戦」と呼ばれているものは、実際には西洋諸国・湾岸諸国・トルコ・イスラエルによる、イスラム過激派を代理勢力として利用したハイブリッド・テロ侵略戦争だ。所謂シリア「内戦」報道なるものは、一から十まで嘘で固められたフェイクニュースの塊だ。こうした心理戦(NATOの新用語を使えば「認知戦」)が常態化した現実を生き抜くには、与えられた情報を常に疑い、その真贋を確認する能力と習慣が不可欠になる。その為には、正しい情報にアクセスする為の経路を日頃から自分なりに模索しておく作業が重要だ。戦争プロパガンダに洗脳されてしまうと、「敵」、つまり帝国が標的とする対象を非人間化することに、何の疑問の躊躇いも抱かなくなる。日々垂れ流される「人権侵害」「独裁者」「権威主義体制」「侵略者」「軍事的脅威」等々のフレーズは、こうした非人間化を促す為の心理的トリックだが、こうした「相手は道徳的に劣った存在だ」と云うメッセージの洪水に慣らされてしまうと、相手の立場に立って物事を考える想像力が失われ、相手を理解する為に知識を得ようとする意思が消滅してしまう。そうならない為には、物凄く時間と手間の掛かることでは有るが、ひとつひとつの嘘に根気強く抵抗して行かなくてはならない。

 私が本書を読んだのは2019年にもなってからで、この頃には本書で指摘されている様な諸事実は既に粗方知ってしまっていたのだが、それでもやはり状況を再確認する為には読んで良かったと思う。この本の初版は2012年だそうだが、この本には私が最初に知りたかった基本的な情報が詰まっている。もっと早くにこの本の存在を知っていれば、あれこれ試行錯誤する必要も無かったのに………とは思うが、まぁその試行錯誤の過程で私も色々と学習したので、それが無駄だったとは思わない。

 著者の一人、ナイル・ボウイ氏はアジア・タイムズの特派員。もう一人のアンソニー(トニー)・カタルッチ氏は地政学分析に優れた方で、私は Global Research への寄稿で知ったのだが、2021年からは Brian Berletic と云う名(こちらが本名らしい)で、主に The New Atlas と云う Youtubeチャンネルで情報発信を行っている。私自身もそうなのだが、検閲が強化された為にTwitter等のプラットフォームから現在追放されている。軍隊経験者と云うことも有って、軍事に関する分析には定評が有り、2022年にウクライナ紛争が新フェーズに入ってからは、彼の戦況分析動画は、かなりマイナーな分野であるにも関わらず、投稿したその日の1万ビューを超えるのが常だ。デバンキング作業を行うに当たって、無論彼は自分の主張を裏付ける諸々のソースを挙げる訳なのだが、その作業が実に丁寧で、視聴者や読者が自分でその作業を追試することが出来るように常に気を配っており、個々の情報の軽重を判断する為のヒントも色々与えてくれている。単に結論だけを一方的に与えられるのではなく、「何故その結論が正しいと言えるのか」と云う検証プロセスに関心が有る方にお薦めだ。情報リテラシーを鍛えたいなら、こうした地道な作業を積み重ねて行く経験が何より重要だろう。

 今は戦時だ。マスコミの「戦争報道」なるものは、実際にはそれ自体が戦争遂行の一部であって、大衆洗脳の為の心理攻撃だ。自立した思考を養い、権力者に騙されずに生き、本当に戦争に反対したいなら、与えられた情報は全て一旦カッコに入れる必要が有る。シリア「内戦」、ロシアによるウクライナ「侵攻」や「対ロシア制裁」、中国の「ジェノサイド」や「軍事的挑発」、DPRKの「核の脅威」、COVID-19「パンデミック」やパンデミック「対策」、「SDGs」や「気候変動」etc………挙げればキリが無いが、全ては嘘に基付くプロパガンダだ。別に私がここで言ったことを信じる必要は無い。全て自分自身で検証して判断すれば良い。問題なのは、洗脳された人々は検証せず、事実を確認せず、現実を直視せず、それを全く問題だとは思わないことだ。彼等は事実に合わせて自分の考えを変えるのではなく、自分の信念に合わせて事実を取捨選択したり捻じ曲げたりする。嘘を暴くことは嘘を吐いたり嘘を信じたりすることよりも難しいし面倒だが、彼等は簡単な道を選ぶ。それではいけない。自分が洗脳されていたことは、洗脳が解けた後でしか気付けないが、早目に気が付いておけば、被害も浅くて済む。洗脳状態が深まると、その信念体系は現実を無視して自己拡大再生産の悪循環に陥って引き返すのがより難しくなる。そうなりたくなければ、個人として先ず出来ることは、健全な懐疑精神を保持し、文脈を理解するのに必要な知識を学び、与えられたひとつひとつの情報について判断を急ぐ前に確認するのを怠らないことだ。本書も含めて、その助けとなってくれる足掛かりは探せば色々と存在する。だが探さなければ見付からない。情報ガラパゴス化が著しい日本人は、特に必死にならないとヤバい。

新冷戦を阻止しよう。さもなければ人類に未来は無い。

Vijay Prashad(序文)、John Ross、Deborah Veneziale、John Bellamy Foster 著、Washington's New Cold War: A Socialist Perspective のレビュー。




 日頃よく記事を読んでいるヴィジャイ・プラシャド氏が序文を書いている本を見付けたのだが、安いし薄いので、他の積み本消化の合間にポチってサクッと読んでみた。中国向けに書かれた3つの論説を纏めたものだが、新冷戦の現状について仲々よく纏めていると思ったので、触りだけ紹介してみる。

 1)新冷戦と旧冷戦の違いについて。旧冷戦は米国対ソ連。ソ連は軍事的には米国に何とか匹敵する軍事力を持っていたものの、経済的には米国に遠く及ばず、最盛期の1975年でもGDPは米国の44.4%に過ぎなかった。だから米国はソ連経済の弱体化に力を入れ、レーガン政権の無謀な軍拡も、ソ連を軍拡競争に引き摺り込んで経済的に圧迫するのが主目的だった為、最終的に熱い戦争には発展しなかった。
 
 だが新冷戦に於ける米国の仮想敵である中国は違う。GDPは既に米国の74%に達しているし、この調子で行けば後数年で確実に追い越す。世界経済に占める割合や産業力、購買力平価の点では既に追い抜いているし、新自由主義政策によって自国の産業を衰退させて来た米国よりも、中国の経済成長速度はずっと速い。米国の経済的覇権がこれ以上維持出来ないのは明白だ。だが中国の軍事力は米国には及ばない。GDPの成長に比例して軍事予算も拡大してはいるが、米国に追い付くところまでは行っていないし、公式に発表されているだけでも8,000億ドル、関連予算や非公式の予算まで含めれば恐らく1兆ドルは超えるであろう米国のイカれた軍事予算は、全世界でダントツだ。但し軍事予算の多さと軍事的な強さとは正比例する訳ではなく、ロシアは米国よりもずっと少ない予算で、米国に匹敵する核軍事力を保有している。

 だから最も理想的な米国の覇権戦略は、ロシアの軍事と中国の経済力が結び付かないよう、両者を分断することだ。2014年のクーデター以降、米国とNATOは急速にウクライナの軍事力を強化しているが、これは最終的にはロシアにレジームチェンジを起こさせるのが目的だ。自国の主権を第一に考えるプーチンを排除して、ゴルバチョフやエリツィンの様な能無しにロシアを仕切らせて中国と対立させれば、中国はロシアとの長い国境線からの軍事的脅威をも心配しなければならなくなり、一石二鳥だ。だがウクライナ・ロビー派閥は些か強引にことを進め過ぎた。核による威嚇とロシア人絶滅作戦による挑発は裏目に出てロシア軍から手痛く反撃され、中国とロシアを分断するどころか、両国の関係は寧ろ強化されることになった。キッシンジャーの様な旧冷戦派がウクライナ紛争に反対しているのは恐らくその為だ。

 中国の経済的復活を阻止出来ない米国は、中国に勝てるかも知れない分野である軍事的手段に訴えることによって、中国の経済を破壊しようと試みるかも知れない。米軍の数限り無い残虐行為の前科を考えると、行き詰まって焦ってワシントンが強硬手段に訴える可能性は否定出来ない。そしてそれは全人類を巻き込む第三次世界大戦に発展するだろう。そのシナリオを避ける為には何が必要なのか。

 著者は米国の外交政策の一般的傾向をヒントにせよと主張する。米国は優位に立っていると感じた時には攻撃的になるが、弱い立場に立たされたと感じた時には融和的になる。例えばヴェトナム戦争の負けが込んで来た70年代、ワシントンは中国やソ連に対するそれまでの強硬姿勢を改めて外交の窓口を開いて緊張緩和を進めた。2007/8年の金融危機の後には、G20の会合は毎年開催される様になった。米国の帝国主義的な野心が消える訳ではないが、少なくとも軍事的手段だけに訴えるのではなく、外交的手段による調整を図るだけの分別が出て来る。平たく言えば、夜郎自大なガキ大将は痛い目を見ると多少は大人しくなるのだ。今米国を率いている連中は、冷戦後の米国一極覇権体制に慣れ切っていて、自分達が何をしても許されると信じている。だから新冷戦の軍事的エスカレーションを避ける為には、軍事でも経済でも外交でも良いからワシントンに失敗の経験を味わわせ、事態が彼等の思い通りには行かないことも有るのだと云う教訓を学ばせる必要が有る。ウクライナを捨て駒に使ったNATOの対ロシア代理戦争は、だからドンバスのロシア人を虐殺から守ったりロシアを核の脅迫から守ったりする以上に、米国と中国との軍事的衝突を避けると云う意味でも大事なのだ。ロシア軍には(まぁキエフ軍が軍事的に勝利する可能性は極めて低いが)全人類の為にも、是非ともナチに勝利して貰わねばならない。

 2)は、米国の外交政策は一体誰が決定しているのか?と云う疑問を扱っている。ネオコンもリベラル・ホークも、目的を実現する為の手段については食い違うことも有るが、目的自体は一緒。共和党だろうが民主党だろうが、大統領が誰になろうが、米国の覇権戦略は変わらないので、この点については幻想を抱くべきではない。トランプの様に路線修正を試みる政治家も居ないではないが、結局無力だったではないか。米国は民主主義ではなくプルートクラシーの国なのだ。米国の経済エリート層(特にテック関係)は、中国「封じ込め」の後に訪れるであろう中国市場の完全解放(略奪と独占)と云う野望を諦めるつもりは無い。しかも中国もロシアも、核については抑止力としてしか使わないと宣言しているが、米国は核の先制使用も辞さない構えで、しかもウクライナや台湾情勢に見られる様に、旧冷戦の時には行わなかった、他国の境界線の変更にまで手を出す様になって来ている。極めて危険だ。ウクライナ紛争によって、米国民を戦争支持に回らせるイデオロギー動員は成功している。これは米国民の99%にとっても不利益になる展開だし、世界の圧倒的大多数(主にグローバルサウス)にとっても破壊的な影響力を持っている。戦争へ向かうこの流れに抵抗し、帝国の一極覇権を終わらせねばならない。

 3)は人類絶滅の脅威を扱っている。熱核戦争を扱っている部分は、20世紀の復習として役に立つ。ウクライナ紛争で初めて核戦争のリスクに気が付いた人も多かった様だが、私は核戦争のリスクなんてずっと以前から、冷戦時よりも高まっていると思って来た。20世紀の歴史から何も教訓を学んでいないか、学んでいてもそれを目の前の現実に応用出来ない人が多かったと云うことだろう(だから核で脅されているロシアの方が核で脅しているなどと云うトンチンカンな思い込みをすることになる)。MAD(相互確証破壊)の脅威は21世紀の今になってもまだ去ってなどいないと云う現実を知らなかった人は、早急に現代史を学び直して認識を改めた方が良い。内部告発者のダニエル・エルズバーグに拠れば、米国は1945年から1996年の間に記録に残されているだけでも、25回も核による威嚇を行なっている。広島の方々が「あやまちはくりかえしませぬ」などと云うポエムを100回繰り返したところで、現実に原爆を落とした国の戦争屋共は屁とも思っていないのだ。

 3つ目の論考の欠点は、地球温暖化を核戦争と並ぶ人類絶滅の脅威と位置付けていること。詳しく論じる余裕は無いが、地球温暖化の警鐘は新自由主義陣営による詐欺だ。本物の社会主義者でありたいなら、本物の環境主義と、環境主義を装った新自由主義の区別は出来る様になっていなければならないと思うのだが、どうも「科学」を僭称する権威に弱い人が多いらしい。COVID-19パンデミック詐欺もそうだが、「プロパガンダに基付く科学」と「現実に基付く科学」とは全くの別物だ。

 以上、本書には新冷戦の現状を振り返る上で必要最低限の情報が詰め込まれている。西洋のTVや新聞なんかに幾らへばり付いてみたところで、こうした情報は得られないだろう。戦争に反対するとは、権力者達から敵だと教えられた相手に罵声を浴びせることではない。戦争に反対したいなら真っ先にすべきなのは、戦争プロパガンダの嘘を見抜くことだ。

既存の文化革命観を根底から覆す画期的フィールドワーク

Dongping Han著、The Unknown Cultural Revolution:Life and Change in a Chinese Village のレビュー。

 


 テレビや新聞、学界や出版界は今やフェイクニュースが花盛りで、新冷戦がウクライナ紛争と云う形で熱い戦争に変わってからは、本当に毎日狂った様に大量の嘘や偏向情報が垂れ流され、疑うことを知らない大多数の人々の世界観はそれによって形作られている。私はそれにうんざりして危機感を抱いている少数派の一人だが、その中でも所謂「反共主義」、特にロシアや中国を標的としたプロパガンダ工作の影響はこれまで思っていたよりも遙かに深刻なのではないかと思い至り、ここ数年は反共主義の嘘を暴く本や記事を積極的に読む様にしている。来るべき第二の超大国である中国に関しては、天安門事件、香港民主化運動、新疆ウイグル自治区のジェノサイド、チベット弾圧、南シナ海での軍事的挑発、台湾侵略、一帯一路構想の「債務の罠」、等々の比較的最近の出来事に関しては、検証が容易なので、全て嘘や歪曲だと自信を持って断言出来る。事実を知る為に何を探さなければいけないかが解っている者であれば、今はインターネットと云う画期的な情報収集ツールも存在するし、昔よりも嘘を見抜くことは格段に容易になっている(それと共にプロパガンダ・システムも進歩しているので、リテラシー格差も拡大している様だが)。だが現在の中国に関する様々な嘘のデバンキングを行なっている情報発信者の中でも、それよりもっと昔の話、毛沢東時代の様々な出来事については、殆どが既存のナラティヴをその儘繰り返しているの実情だ。だが私も色々と調べて行く内に、今の中国と同様昔の中国についてもかなりいい加減な情報が大量に混じっていることが解って来たので、取り敢えず今までの話は一旦全てカッコに入れて判断を保留し、「ひょっとしたら教科書に書いてあることは全てデタラメかも知れない」と云う前提に立って、虚心坦懐に様々な可能性に対して心を開いてみることにした。本書はその作業の中で出会った情報の中でも特に素晴らしいと思ったもののひとつだ。

 1966年に始まる中国の文化革命については、まぁいいことを言う人は先ず見掛けない。最近の例で有名なものだと、2019年に邦訳された中国SFのヒット作『三体』の冒頭で描かれている文革の様子なんかがそれだ。学生達が物理学者を拘束して鉄の三角帽を被らせて公衆の面前で辱め、反動分子だの何だの、物理学とは全く関係の無い教条的なマルクス主義の用語で罵倒し、挙げ句の果てに物理的な暴力を加えて殺してしまう。現代版魔女狩りとも言うべき、一見するとイカれているとしか思えない全くの狂気の沙汰で、野蛮な愚行以外の何物でもない。こうした事態を毛沢東が意図的に引き起こしたのだとしたら、彼には正に狂人の親玉の称号が相応しい。歴史の転換点、特に近代化の過程に於ては、時として集団ヒステリーとも呼ぶべき現象が起きて悍ましい結果を引き起こすことが有るものだが、これもそのひとつなのだろうか?
 
 だが「狂気」は理解出来ない物事を片付けるのに便利な言葉だが、それでは私は満足出来ない。人はそう簡単に狂気に陥るものではないし、外部から見ると一見不合理で不可解な出来事であっても、それを適切な文脈や構図の中に置き換えてみると、理解可能なものになることが多い。文革の蛮行は何故、何を目的として引き起こされたものだろうか? 共産主義のイデオロギーの正しさを証明する為? 権力欲に駆られた毛沢東が何か魔法の様な言葉を囁いて若者達を扇動した? 私はそうは思わない。人はそうフワフワした地に足の着かない理由で人を殺したりするものではない。ましてこれは単発的な狂気ではなく、超巨大な社会集団に蔓延した狂気なのだ。こんなものが突発的に理由も無しに湧いて出て来るものではない。こう言うことによって、私は別に中国共産党を弁護したり擁護したりしたい訳ではない(そんな義理は私には全く無い)。文革を単に「或るイデオロギーに基付く集団ヒステリー」と片付けることをは、端的に、人間性や人間社会全般に対する私の基本的な理解に合致しないのだ。私がこの現象をよく理解出来ている気がしないと云うことは、この現象を理解する為に必要なピースをまだ手に入れていないと云うことだ。事態がこの様に進展するに至った社会的、心理的、経済的力学が、「狂気の文革」像には欠けているのだ。異常に見える出来事を端的に「狂気」と片付けてそれ以上考えることを止めることは、自分の知性に対する侮辱だし、怠慢だと思う。だから「文革へは共産主義イデオローグ達のしでかした狂気の産物だった」と云う言説を聞かされると、私は自分の知性が侮られている気分になる。

 だが文革については今まで散々語られて来た筈ではないのか? 今更文革について「新たな視点」など必要なのだろうか? 文革は全くの過ちであったとポスト毛時代の中国共産党も認めているし、今まで知られていなかった情報が有るのなら、何故それが知られていないのか? これらの答えの一端は、中国の格差に在る。中国が平等を謳う社会主義国家でありながらも、現実には建国当時から貧富の格差が根強く残っていることはよく知られている。大抵の人は貧富の格差と言うと、暮らし向きが豊かか貧しいかだけの違いをイメージするのだろうが、現実はそれだけではない。それは社会的な分断や世界認識の違いを意味する。中国の場合は特に都市部のエリート層と地方の農民の分断が重要で、同じ出来事、特に文革の様な複雑な出来事に対する両者の解釈や評価は、時として全く異なっている。そして出版されるものはその略全てが、都市部のエリートの視点によって書かれている。中国の言論空間を実質的に牛耳っているのは圧倒的にこちらであって、ネットの出現によって最近は多少状況が変わりつつあるらしいが、特に私達の様な中国外部の者が中国について聞かされる情報は、基本的に中国の少数派が発信している情報に限られているのだ。そして都市部のエリートは往々にして、地方の現実を全く理解していない。

 地方の状況が大幅に改善した21世紀の今でも、中国のフィクションを見ると、都市部のエリートが地方人や地方出身者を見下す描写が時々出て来る。 Mobo Gao著”The Battle for China's Past”と云う本には、文革について農村の人が自分達とは全く違って肯定的な評価をしていることを聴衆の一人から聞かされてショックを受ける講演者のエピソードが出て来るが、持てる者が持たざる者の現実を理解しないのは、どの国でも或る程度普遍的に見られる現象だ。日本は格差は拡大したと言ってもまだ高度経済成長期の遺産を食い潰すことが出来ているので、世界的に見ればまだ大分恵まれている方だ。だがそれでも例えば高級取りの雑誌の記者が、拡大する貧困層の現実を全く理解しない記事を書いて炎上したりする。彼等は単に自分達の直ぐ隣に存在する現実に気が付いていないのだ。日本のマスコミに拠ると、大都市の周辺に広大なスラムが広がっていた革命前のヴェネズエラは「経済的には成功」しており、識字率や貧困率、乳児死亡率等が劇的に改善した革命後のヴェネズエラは「経済的には大惨事」なのだそうだが、これは多分、意図的な悪意を込めて書かれたものではないだろう。恐らく記者達は「貧しい有色人種の生活など、名誉白人たる我々は気に掛ける必要は無い」などと自覚してこうした記事を書いている訳ではなく、貧困層の現実が単に見えていないだけなのだ。中流以上の白人や名誉白人が中流以上の白人や名誉白人向けに発信している情報だけを摂取していたら、貧困層の現実は自然と目に入らなくなって来るものだ。貧困層が存在していること自体を忘れることすら可能だろう。だが貧困層が大多数を占める国で貧困層が見えていなかったら、それはその国の現実の大半を理解出来ていないことを意味する。まぁそれでも全く構わない人も多い様だが、私は気にする。貧しい人々は国家システムの中に見落とされること無く包摂されるべきだし、貧しい人々のエンパワーメントを目的とする社会主義政策は、差別を是としない人なら誰だって支持すべきだと思う。

 『三体』で描かれた様な文革の光景は、確かに狂っている(様に見える)。だが本書の著者に拠れば、文化革命が都市部の大学に齎したインパクトと農村の中学校に齎したインパクトは、全く別物だった。常識的に考えてみて欲しいのだが、国民の8割が農村に住み、小学校すら満足に通えない子供がまだ大勢居る国で、アインシュタインの相対性理論が反動思想かどうかを気にする人など、どう考えても超少数派だ。殆どの中国人はアインシュタインの名前すら聞いたことが無かったのではないだろうか。既存の文革物語に登場する人達は、公平に行って、中国人全体を代表しているとは言い難い。現代でも、よく西洋のビジネスパーソンなんかが「自分は中国人の上司や同僚と働いているが、その人はこの件についてこう言っていた」と、その中国人の意見や解釈を紹介することが有るが、そうした中国人は先ず間違い無く都市部のエリートであって、その人の意見が全中国人を代表していると考えるのは早計だ。格差によって分断された中国に於て、文革は農村部では全く異なる展開を遂げていたのだが、それは文革について語られて来た従来の言説からはすっぽり抜け落ちている。超少数派の見解だけに注目して圧倒的大多数の経験を無視することは公平ではない。

 本書の著者は地方出身者で、文化革命の10年の教育改革の恩恵を受けて育った世代だ。当時はそれを当たり前だと思っていたそうだが、毛沢東死後にこの教育改革が廃止されてから、故郷で子供達の識字率ががっくり落ちている現実を知って愕然とした。そこで教育と云う点に着目して、文革についての再調査を行ったのだが、その成果を纏めたのがこの本だ。彼は地元出身者の強みを活かして隣人や友人の様な立場から1990年代に丹念にフィールドワークを行い、200人以上にインタビューを行なって、通りいっぺんのアンケート調査などでは判らない、当時についての深く掘り下げた話を数多く聞き出すことに成功した。彼が調査したのは即墨市と云うひとつの地区に過ぎないが、全国の農村もまた似た様な状況だったと主張している。少なくともこれは中国人の圧倒的大多数である農村の住民達の生の声の貴重な記録であり、或る国の政策を評価する上で最も重要なのはその国の国民の幸福だと思う人であれば、誰でも取り敢えずは謙虚に耳を傾けてみるべきだろうと思う。

 この「生の声を聞く」と云う点は、政治思想を考える上で非常に重要だ。政治思想を抽象的な宙に浮いた理論として扱う議論は欺瞞的だと私は思う。思想はそれが現実の政治に反映されるべきであるならば、必ず具体的な現実と結び付いていなくてはならない。その点で私は「何々主義」と云う観点から大上段に現実をブツ切りにする様な分析の仕方には違和感を覚える。中国共産党のことは、大抵の西洋人は「共産主義」とか「マルクス主義」、或いは「権威主義」とか云う言葉で理解しようとするが、レッテルを貼って何かを理解したつもりになるのは、時に大きな間違いに繋がる。中国に関しては特にそうだ。中国は一応共産主義やマルクス主義を国是として定めていることになっているが、思想が現実のこの国を導いているかの様な言説には、私は常に懐疑的だ。これは中国についてのデバンキングを行なっている何人かの論者も言っていることだが、中国は確かに社会主義路線を布いてはいるが、現実の政策決定に当たっては、その場その場の状況に応じて柔軟に調整を行なっている。中国はマルクス主義と云うよりは寧ろプラグマティズムの国であって、マルクス主義的な構図が適切な事例であればマルクス主義者になるが、そうでない場合は躊躇わずにマルクス主義とは無縁のことをやる。これは例えば中国の数学史を見ても感じることだ。中国人は実体に拘ったりはしない。究理の上で役に立つものであれば、その正体を気にせず何でも利用する(日本の和算もこの流れだ)。遠藤周作は日本人にキリスト教が根付かない問題で悩み続けたが、キリスト教は中国にも根付かなかった。究極原理に世界の秩序を収斂させて演繹的に物事を考える発想は、中国、或いは儒教文化圏には異質のものなのではないだろうかとも思う。毛沢東の書斎には無論マルクス主義の本も並んでいたが、それよりも中国の古典の書籍の方が多かったと云う。毛沢東はマルクス主義者と考えるよりも、何よりも先ず数千年の歴史を持つ中華文明の末裔であって、偶々20世紀初頭の中国の状況に於て、祖国の独立と解放に役立つ思想がマルクス主義だったからそれを採用した、と考えた方が、理解が容易になる様に思う。

 ホー・チ・ミンは自らが奉じるべき思想を選ぶに当たって、祖国ヴェトナムの植民地解放運動を支持してくれる思想を探し回って、マルクス・レーニン主義がこれを支持してくれそうに思えたので、共産主義者になったと回想している。共産主義を信じたから、「植民地を解放せねば」と云う結論に至った訳ではない。宗主国フランスに支配された植民地ヴェトナムと云う特定の状況に置かれた国の国民として、祖国独立と自由と主権を求める欲求が先に有ったのであって、共産主義はそれに奉仕してくれると考えられたからこそ彼の支持を受けた訳だ。逆ではない。当時は共産主義や社会主義位しか、植民地開放の為に役立ってくれそうな思想の候補は無かった(今でもまぁそうだが)。思想の持つ力など、大抵はその程度だと私は思う。具体的な状況に置かれた生身の人間の具体的な利益に役立つと思える思想であれば支持されるし、そうでなければ支持されない。二言目には「共産主義の中国」と云う文句が出て来るのは、紅軍が戦ったのは共産主義の為の戦いではなく、帝国主義勢力から祖国を解放する為の戦いであったと云う事実から目を背けさせる心理誘導ではないのか。或る思想を理解したかったら、その思想が支持されるに至った具体的な歴史的・文化的・地理的・経済的諸要因を踏まえた上で、適切な文脈の中に入れてやる必要が有る。一概にマルクス主義だの共産主義だの言っても、それが現実の政治にどう反映されるかは、個々のケースで当然違っていて然るべきなのだ。これを一切無視した分析や解釈は、歴史学や人類学や社会学的見地からの批判に耐えられない。

 中国共産党を理解する上で決定的に重要なのは、それが元々中国人の圧倒的大多数を占める貧しい農民を支持母体としていたと云う事実だ。エドガー・スノーの『中国の赤い星」に詳細に描かれているが、米国から際限無く資金や武器を提供される蒋介石の国民軍を相手に、碌な装備も持たない紅軍が戦い続けられたのは、ひとえに農民達からの絶大な支持が有ったからだ。抗日戦争や国共内戦の間中、行く先々で農民は紅軍を温かく迎え、食料や拠点や情報を提供し、或いは自ら参加して、積極的な協力を惜しまなかった。他方紅軍の兵士達は農民達と生活を共にして自ら進んで粗衣粗食に甘んじ、農地を解放して農民達に解放する一方、何れは全中国人に教育の機会を与えると云う約束を与えて、農民達から喝采を受けた。共産党は農民達の期待を一身に背負って最終的に長く苦しい戦争に勝利し、権力の座に就いた。

 だが農民達に教育を受けさせると云う約束は遅々として果たされなかった。共産党の教育制度は実質的にはそれ以前の中国の教育制度と大差無く、都市部のエリート層と農村の住民達との間の教育格差は一向に縮まらないどころか、寧ろ拡大した。共産党は地方のエンパワーメントに力を入れるより、既に恵まれた環境に在った都市部のエリート向けの教育を更に充実させる路線を選択した。これはまぁ仕方の無い事情が有ったとも言える。西洋の半植民地状態に置かれていた「屈辱の世紀」、日本帝国侵略軍との戦い、そして米国の支援を受けた蒋介石の国民軍との戦いを経て、中国は政治的にも社会的にも経済的にもズタボロの満身創痍であり、中華人民共和国が建国された時点では、世界で最も貧しい国のひとつだった。なので建国当初はとても全国に教育制度を普及させるところまで手が回らなかったのは仕方が無かったかも知れない。それにそれらの戦争が終わっても、今度は朝鮮戦争(朝鮮半島を介した米国の中国侵略戦争)や台湾海峡危機(代理勢力の台湾を通じた中国侵略の一環)が続き、隣のインドシナ半島ではアメリカ帝国の狂った様な反共十字軍が開始されて何時飛び火して来るか判らず、安全保障上、一瞬も気を抜けなかった。実際、上に挙げた3つの戦争・紛争全てに於て、米軍は毎回原爆投下を検討しており、隙を見せれば何時原爆を落とされるかも知れないと云う状況で、悠長に全体の底上げなどしていられない、一刻も早くとにかく原爆や近代兵器を扱えるエリートを育てるのが先だ、と云う目先の判り易い成果を優先する発想に陥ったとしても、無理からぬ状況ではあったと言える。

 だが他の分野の予算が増やせる様になってからも教育予算の増額が放置され、小学校の増設すら碌に進まなかったのは、曾ての公約違反だと非難されても仕方が無いだろう。この件に関して最初期の批判を寧ろ非難した毛沢東にも責任の一旦が有る。それに肝心の貧しい国民の生活向上が後回しにされていたのでは、そもそも何の為に革命を成し遂げたのかと云う疑問が出て来るのは当然だ。

 著者の指摘するところでは、こうした問題の背景には、新規中国に蔓延していた深刻な腐敗が存在する。戦争中は志高く、農民と心をひとつにしていた紅軍兵士達も、いざ権力を握って都入りして都市部の豊かさを目の当たりにすると、急速に地方の現実を忘れ、目先の豊かさに気を取られてしまった(例えば農村出身の妻を離縁するなどと云った事例が相次いだ)。それに戦功の有った者は次の政権に於てそれなりの地位と特権を与えらるのが当然、と云う昔ながらの王朝交代の伝統的発想が根強く残っており、これがあらゆるレヴェルでの共産党員の増長と権力の濫用を招いた。コミューン(人民公社)は旧来の日本で言う互助会を更に拡大した様な組織で、怪我や病気や自然災害や老齢と云った様々なリスクに個人や各世帯が直接曝されないようにする為の一種の社会保険制度を兼ねており、農地が集団化されることにより、灌漑等の、個人では手に負えない事業を行なって生産を拡大・安定化させることが可能になった。だが統治する者が統治する権限を「特権」と考えてこれを濫用する、数千年続いて来た官僚主義的メンタリティが手付かずで温存されていた為、下手に管理者の権限が拡大した分、不正の度合いも悪化した。西側では集団農場を「地主から取り上げて農民達に分配した農地を、共産党がまた取り上げて私物化した」と非難することも有るが、これは一部は当たっていなくもない。制度自体には農民の生活を保障し生産性を上げると云う点でそれなりの合理性が有ったのだが、肝心のそれを運用する側の人間の発想や行動パターン、つまり「政治文化」の改革が放置されていた為に、「新しい革袋に古い酒を入れる」と云う結果になってしまい、折角の制度が期待された機能を十分に発揮しなくなっていたのだ。

 また腐敗や不正が放置されていた原因は、統治される側にも有ると、毛沢東は考えた。人民が法に訴えて毅然と不正に立ち向かい、自らの権利を自らの手によって勝ち取ろうとすれば、統治する側でも自ずと自らを律するようになる。だが当時は法整備がまだ不十分だったことに加えて、権力者に逆らわず、長い物に巻かれて、衝突を回避することで保身を図ると云う、権力への服従を是とする政治文化もまた厳然として残っていた。これでは折角制度を整えたとしても元の木阿弥で、腐敗や不正を助長し易いこの政治文化の問題を何とかしないことには、国は建てても革命が成し遂げられたことにはならない。「一夜にして社会全体を変えられると思うのは間違っている。社会の変革は徐々に、段階的にのみ可能なものだ」と考える点で、保守主義は正しいと思う。革命は一夜にして成るものではなく、何年も、何十年も掛けて、人々の独立的思考を養うことによってのみ可能になるものだ。革命とは不断のプロセスであって、国の形式が成立しても、中身を埋めて行く課題はまだ山積していたのだ。

 毛沢東は建国以来、殆ど毎年の様に、腐敗撲滅キャンペーンを行なっているが、それらは殆ど期待された効果を発揮しなかったものらしい。それは上から下へ命令が伝えられる過程で、各レヴェルの腐敗した幹部によって骨抜きにされてしまうからだ。上意下達式のシステムを続ける限り、狐に鶏小屋の見張りをさせる様なイタチごっこを際限無く続けなければいけない。大躍進政策の失敗も、ひとつには指導者達が広範囲に腐敗しており、農民の声を聞かずに現実を無視した計画を立てて好き勝手にデータを改竄した要因が大きかった。

 統治される側の特権意識を撤廃して統治される側と同じ立場で物事を考えるようにし、統治される側の「民主(「自治」位の意味)」の精神を鼓舞して、自ら政策的意思決定に参加するように仕向けなければばらない。その為に、何千年もの官僚主義の伝統に根差す中国の政治文化を根底から変革する「文化」革命が必要とされたのだ。これは古い中国と、民主主義の精神の下で近代国家と新しく生まれ変わろうとする中国との戦いだった。
 
 文化革命を考える際に見落としてはならないのは、文革の最前線の担い手とされる紅衛兵は、実際には2種類存在すると云うことだ。毛沢東は以前の様な上意下達式の腐敗撲滅キャンペーンを繰り返すことを諦め、腐敗した中間層をすっ飛ばして、統治される農民に直接呼び掛けて、腐敗した党指導者達に立ち向かうよう促した。この呼び掛けに答えて、党の腐敗を指弾する、勇敢で有能な人々が次々に立ち上がったが、自分達の地位と権限を当然のものと考えていた地方の党指導者達は、批判の矛先が自分達に向けられることを恐れて、紅衛兵を組織させ、土地改革の時に槍玉に挙げられた古い標的(四旧:旧い思考、旧い文化、旧い伝統、旧い習慣。所謂「階級の敵」と呼ばれる人々)を攻撃させた。だが毛沢東が更に文革の方針を再確認する声明(16箇条)を出した為、鼓舞された農民達は対抗して草の根で独自の紅衛兵を組織して、党内部の腐敗を糾弾し、やがてはその動きを地域全体を巻き込んだ社会体制改革に発展させることに成功した。つまり、毛沢東の呼び掛けに答えて組織された紅衛兵と、毛沢東の呼び掛けを骨抜きにする為に組織された紅衛兵の、全く方向性が真逆の2種類の組織が存在する訳で、どちらも「紅衛兵」と名乗っていたのだ。なので紅衛兵と一口に言っても、それがどちらの紅衛兵を指すのかで全く話は変わって来る。しかも形式的には、地方の党指導者達が作らせた紅衛兵の方が「公式の」紅衛兵と云うことになるので、更にややこしいことになる。とにかく、全てが毛沢東の司令によって状況が展開したと考えるのは全くの誤りで、こうした現実のダイナミズムを無視して全体を理解しようとすると訳が分からなくなる。

 文革は屢々「権力に飢えた毛沢東が自分個人に権力を集中させる為に行ったものだ」と主張されることが有るが、何故そう言われるのかは単純な話だ。著者が行ったインタビュー結果でも明らかにされている通り、批判の対象とされた党指導者達の殆どは、自分達の不正行為を悪いことだとは思っていない。自分達は従来の慣習に従ったに過ぎないのであって、それに対する反省や罪悪感は全く無いのだ。だから毛沢東が党指導者達の不正に立ち向かうよう人々に呼び掛けた時には、彼等の目には恐らくそれこそが不当な行為であって、従来の秩序を根本から脅かす「カオス」以外の何物でもなく、「毛沢東が自分の権力を強化する為に人民を巻き込んで権力闘争を煽っている」とでも解釈するより他に無かっただろうことは想像に難くない。毛沢東の死後に権力を回復した時に、彼等が一斉に毛沢東の業績を否定し始めたのは、或る意味では全く当然のことだとも言える(正当だと言っている訳ではない。人間の反応としては自然なものであって、予測可能だと云う意味だ)。これは何千年も続く文化的慣性の結果であって、イデオロギー上の違いなどは恐らく表面的なものに過ぎないだろう。先にも述べたが、昔からイデオロギーや思想が社会を動かす力を過大評価したがる人々は多いが、そうした人達は概して人間観察が浅薄なのだと私は思っている(何の留保条件も無しに「日本は民主主義社会」とか言って何も疑問に思わない手合いはこの類いで、観察結果よりも「現実はこうあるべきだ」と云う自分の思い込みを優先しているのだ)。

 毛沢東は党指導者達を迂回して人民に直接呼び掛けることによって、中国共産党を人民の党として再確立した。これは屢々毛沢東に対する個人崇拝カルトに他ならないと非難される。確かに党の権威を無視して毛沢東個人の名前に於て発せられた言葉の権威に人民は従った訳だから、この指摘は確かに正しい。しかし本書のインタビュー調査が明らかにしているのは、農民や労働者が彼の言葉に従ったのは、毛沢東が正に自分達の言いたかったことを代弁してくれていると思ったからに他ならないと云うことだ。毛沢東の権威は中国の農村に於て、喩えるなら水戸黄門の印籠として機能していた。長年権威に盲従することに慣れて来た権力無き人民にとっては、党指導者達の権威を上回る毛沢東と云う最高権威の力を持ち出すことによって初めて、目の前の不正に立ち向かうことが出来る様になったのだ。例えば文盲の若者が歌に乗せて毛沢東語録を暗唱までしたのは、彼の言葉に従うことによって、権威に立ち向かって政治的な発言権を得、政治的権利に目覚めることによって、他の農民達と対等な権利を持つ者として尊厳を得ることが出来たからだ。愚かで現実を理解出来ない軽信者が何だかよく分からないプロパガンダに洗脳されて毛沢東崇拝に陥った、と云う見方は、余りにも中国人の知性や判断力をバカにした話だと思う。彼等は毛沢東の権威に従うことによって具体的な力を得ることが出来たのでそうしたのだ。何億もの人々が洗脳されて自分達の利益に反する思想を無理矢理信じ込まされたと見るより、自分達の利益に適う思想を選んだと解釈する方がずっと自然だと思うがどうだろうか。繰り返すが、安易に「洗脳されて」などと云う言葉を使いたがるのは、相手を理解したくない、理解する努力をしたくないと言っているのと同じだと思う。

 この点に関して著者が指摘している、毛沢東と中国皇帝との類似性は興味深い。中国の歴代皇帝には賢い皇帝や愚かな皇帝は居るが、邪悪な皇帝は居ない。丁度中国人の家族が賢い親や愚かな親は居るが、邪悪な親は居ないと考える様に。様々の失政は皇帝の下で働く「佞臣」の結果であって、皇帝自体は責任追求の対象とはならない。毛沢東は現代中国に於ける象徴的な皇帝の役割を中国人民の間で果たしていたのではないか、と云う著者の推測は、文化的には荒唐無稽とは言えないと思う。白人の植民地支配を受けなかった唯一の非白人国である日本は、中国などよりも遙かに恵まれた近代化のスタートを切った筈だが、西洋から直輸入した法体制と現実の日本人の法意識との間にはかなりの乖離が有ったことが知られているし、明治政府はその権威に対する裏付けとして、最早忘れ去られていた天皇の再利用を必要とした。米軍の管理下によって作られた日本国憲法の下でさえ、天皇制は存続している。20世紀初頭まで皇帝が存在していた中国では、心理的にそれに代わる存在が必要とされたのかも知れない。

 だがこれも「権威に対する盲従」と断じるのは安直だろう。大躍進(これは本書が直接扱っているテーマではないが)の失敗の最大の犠牲者は言うまでも無く農民だが、著者がインタビューを行った200人以上の内、この苦難の責任者として毛を責めた者は一人も居なかったそうだ。これを「洗脳の結果だろう」と断じるのは簡単だが、中国人がそう簡単にコロコロものの見方を変えられる主体性の無い操られるだけの存在ならば、毛の死後に鄧小平が行った毛沢東否定キャンペーンに「洗脳」されて、「毛沢東許すまじ!」と怒りに燃える人で溢れ返っていてもおかしくない筈だ。だが21世紀の今でも、毛に自発的な敬愛の念を抱いている中国人は多い。彼等は皆騙されているのだろうか? 狂っているのだろうか? 外部の者には全く理解出来ない特殊な判断基準を持っているのだろうか?………まぁ、その辺は各自が好きに判断すれば良い。

 毛沢東の16箇条は、農村部では実質的な憲法として機能していた。中国憲法が国政に関わる広く一般的なテーマを取り上げているとしたら、この毛沢東の言葉はもっと農村の現実に寄り添った、特定の歴史的文脈を想定した具体的な内容を指し示していた。文革を批判する研究者の中には、毛の言葉の訳の解らなさを取り上げて、意味不明な個人崇拝カルトと断じる者も居る様だが、これはこのテクストが置かれていた社会的な文脈を無視した話だ。彼は世界中の人々に対してではなく、同時代の中国の農村の人々を想定して語り掛けていたのであって、テクストを適切に解釈したいのであれば、想定読者の視点に立って読んでみなければならない。外部の者にとっては意味不明な彼の言葉遣いは、農民達にとっては容易に理解出来たと著者は指摘する。例えば「資本主義の復活」とは、土地改革の成果が失われて旧社会のやり方に立ち戻ったことについて言っているのであり、「新興ブルジョワジー」とは、古い地主や資本家の様に、人々の為に働くのではなく人々を牛耳りたがる党指導者達のことを指していた。テクストを解釈する上でそのテクストが置かれていたコンテクストを考慮に入れるのは当たり前の作業なのだが、工業化の進んだ19世紀の先進国ドイツの状況を説明する為にマルクスが使った用語を、20世紀中庸の、工業など殆ど存在していない貧しい農業国中国の状況を説明する為に毛沢東が利用したことの不自然さを、21世紀の先進諸国の研究者達の多くは真剣に考慮している様には思えない。外部の視点で文脈を無視した解釈を行なってはならない。その様な無理を遠そうとするから、西洋の研究者達の描く毛沢東像はどんどん理解不能なモンスター化して行くのではなかろうか。

 個人的に本書の中で最も興味深く読めたのは、教育制度改革についての話だ。文化革命は貧しい人々のエンパワーメントが目的で、教育の普及と向上はその中核に位置するプログラムだった。問題なのは先ず予算だが、これはコミューン組織の中で様々な組織と連携し、地域の経済発展と連動することによって確保が図られた(上から予算が降って来た訳ではない)。それだけではなく、普通教育を実現するには建物、設備、人材、各家庭の経済的余裕や受け入れ態勢等、全てが不足している状況だった訳だが、これらの改善が有機的に組み合わさることによって連鎖反応を起こして行く本書の描写は正に圧巻だ。文革に於ける急速な教育施設の増設や改善は、根本的な障害が予算不足ではなく意思の欠如であったことを証明した。

 そして文革期には教育制度の規模が拡大しただけではなく、教育の質が劇的に改竄された。中国の古典的な教育制度の欠点はこうだ:全国一律の画一的な詰め込み暗記式の教育が中心で、教室の中では教師の権威が絶対で、体罰は当たり前。教わる中身は実生活から懸け離れており、試験でいい点を取ることだけがその目的で、試験が終わればあっさり忘れ去られてしまう様なもの。厳しい進級試験や都市部を基準とした教育内容は貧しい農村の子供達には不利に働き、極めて乏しい高等教育の機会を仮に手にすることが出来たとしても、高等教育を受ける目的は「試験に受かって中央に出ていい職にありついて家の誉れを高める」ことなので、優秀な人材は滅多に地元には戻って来ず、地方の発展には殆ど寄与しないどころか、優秀な人材が都市部に吸い上げられて、寧ろ地方格差の悪化に繋がる………まるで日本や韓国の状況を見ている様ではないか。これらの諸問題を解決する為に、極めて民主的な改革が矢継ぎ早に行われた。地元の住民による教科書の執筆、地元の経済発展に寄与する様な実生活と結び付いたカリキュラムの増設、生徒達による教師の不正の批判による教室の民主化、外部の労働者との連携による運営方法の改善、地方と都市部の人的交流による教育の地方格差の現状についての認識の拡大………これらが組み合わさって、中国の農民の識字率と教育レヴェルは劇的に改向上した。その様子は読んでいて胸が躍る。

 見逃してはならないのは、教育に於ける改革は、政治と経済の改革とパラレルに行われたと云うことだ。制度や組織内に於ける人的交流を盛んにして不正を許さず、その土地のニーズや適正に合った政治的意思決定を可能にする民主的な新しい政治文化と、コミューン(人民公社)によって可能になったより大規模で効率的で安全な農業経営が、新しい教育制度と有機的に連動することによって、これら3つの要素を互いに拡大し合う正の循環が生まれた。鄧小平以降のポスト毛政権は、文革は経済的な大惨事であって、農村の生活レヴェルが向上したのは自分達が市場経済を導入したからだと主張した訳だが、本書に記載されているデータを見るだけでも、それらが真っ赤な嘘であることが判る。政治文化の改革による高度な自治と発展を可能にする制度の設立、農業や工業等の様々な分野に於ける科学実験によるイノヴェーションの促進、集団農業によって可能になった土地の改良や大規模灌漑事業、収入の増加と農村部に於ける工業の発展と都市部の労働者の協力によって促進された農業の機械化、化学及び有機肥料の使用の増加―――これらは全て、文革期の10年(1966~76年)に飛躍的に向上を遂げたのであって、その後からではない(市場経済時には寧ろ大きく後退している)。穀物等の農産物の生産はこの10年で二倍以上に増加している。この時期、大躍進の時期よりも酷い自然災害が何度も起きているにも関わらずである。飢饉は中国社会では有り触れたものだった訳だが、文革は農村のレジリエンスを中国史上曾て無い程に高め、二度と飢饉に苦しめられることの無い社会の実現を可能にした。そしてこれらの発展する社会を担う人材を供給したのが、同時期に劇的に増加した小中高の各学校だ。都市部の大学も入学試験を廃止することによって農村の若者達に対してより広い門戸が開かれ、優秀な人材が地元に帰って来たり、或いは都市部から優秀な人材が流入して来ることによって、地方の発展が加速した。略存在していなかった農村の医療制度の改革もこれらの正の循環の中で改革が進み、無医村にも、極く基本的な訓練を受けた所謂「裸足の医者」が大勢住む様になった。

 ポスト毛時代の文革批判者達は、例えば裸足の医者の訓練の質の低さをあげつらって文革の失敗だと主張する。だが裸足の医者が来る前は、そもそも中国の農村に医者は居なかったのだ。質の低い訓練を受けた医者が居ることと、医者が一人も居ないことと、どちらがマシだろうか。同様に、文革時代の教育の質の低さに対する批判も、都市部のエリートの無知と傲慢を反映しているが、中には価値観の変化と共に古臭くなったものも有る。例えば文革時代の学生は字の下手な者が多いと批判されることが有る。日本でも、字を上手に書けることを教育を受けた証のひとつと考える風潮が昔は強かったが、教養は有るが悪筆な人や、達筆だが無教養な人など幾らでも居る。適切な歴史的文脈の中で捉え直してみれば、文化革命が齎した政治的・経済的・教育的変化に対する否定的な評価には、不当なものが多い様に思える。

 この研究は一地方の聞き取り調査に過ぎないので、無論文化革命全体の領域をカヴァーする包括的な研究とは言い難い。都市部の話は全く出て来ないし、殆どの文革批判者が関心を持っているのは都市部のエリート達に降り掛かった災難のことだ。だが繰り返すが、中国人の圧倒的大多数はまともな教育の機会を与えられていない地方農民だったのであり、都市部の話を抜きにした文革の評価が包括的ではないのと同様、農村部に何が起こったかを全く、或いは殆ど無視したり歪曲したりしている従来の文革評価もまた、極めて不当に偏っていると言うべきだろう。そもそも革命とは、声無き者に声を与える試みではないのだろうか?

 文化革命を批判するポスト毛沢東時代の共産党指導者達は、果たして貧しい人民の心と生活に寄り添っていたと言えるだろうか?
鄧小平の農村改革によってコミューンは解体されたが、本書が明らかにしているのは、これは「個人が集団に奉仕することから解放されて自由になった。めでたいことだ」と云う呑気な話では全くなかったと云うことだ。農民達は新たに分割されて自分に割り当てられた小さな土地に何を植えるかの「自由」は確かに手に入れたものの、文革期に手に入れた様々な社会保障制度を一挙に失うことになった。コミューンの解体は単に公営事業の民営化を意味するだけではない、それは農民達にとって、失業保険、傷病保険、医療保険、老齢年金、普通教育制度、普通医療制度等が丸ごと失われ、病気や怪我や自然災害や老齢と云った様々のリスクに、個人が直接立ち向かわなければならなくなったことを意味した(厳しいペナルティにも関わらず、一人っ子政策に逆らって複数の子供を持ちたがる中国人が多かったのは、この時代、自分の子供以外に老齢に対する保険が存在しなかったからだと著者は指摘している)。これは正に新自由主義改革であって、人民の利益に反する改革に他ならなかった。一部の都市エリート達はこれによって益々豊かになったかも知れないが、本書で示されているデータを見るだけでも、農村の生活レヴェルは大きく後退しているのが見て取れる。

 日本で言えば農協や労働組合、各種圧力団体に該当する組織も無くなった為、権力をチェックする機能も失われた。腐敗した党指導者達は、文革期の間は農民達の間に立ち混じって自ら手を汚し、人々に上から偉そうに指図するだけの支配者ではなく、人々の先頭に立って積極的に働く指導者としての顔を盛んにアピールした。時代の流れが、そうしなければ生き残れない、権力を保持出来ないと教えていたからだ。だが毛沢東が死に、「四人組」が失脚すると、彼等は文革期以前の、伝統的な中国の官僚主義の悪しきメンタリティを臆面も無く復活させる様になった。権力者達は自らに与えられた権限を特権と見做して私利私欲を満たしただけではない、彼等は土地改革によって土地を奪われた地主達の様に、自らの特権を奪った者達への復讐を開始し、文革に於て重要な役割を果たした人々の粛清を始めた。農村の自治と発展を支えていた優秀な人的リソースがごっそり追放されたのだ。個々の世帯は分断されたことで利害を異にする様になり、同じ目的に向かって一緒に働いていた頃の協働と連帯の精神は失われた。公共の空間が無くなったことで、人々が纏まった世論を形成し、自らの声を権力者達に届ける力も大幅に弱まってしまった。貧しい人々のエンパワーメントと云う観点から見れば、鄧小平の新自由主義的改革は、公然と反民主主義的な性格を持っていたと言えるだろう。

 ポスト毛時代に、権力者達による権力の濫用は文革前より更に悪化し、公私混同が当たり前になってしまった。この負の遺産は現代まで続いている。習近平氏は元々腐敗撲滅キャンペーンを率いたことで有名になった人物だが、キャンペーン開始当初は彼を応援していた世論も、調査が進んで腐敗の深刻さが明らかになるにつれて、次第に食傷するまでになった。政治文化の問題は21世紀になっても、中国にとっては今だ未解決の問題だと言えるだろう。

 文革は半世紀以上も昔の話だと思うかも知れないが、腐敗の問題以外にも、文革の評価は恐らく21世紀の中国を理解する上でも重要ではないかと思う要因が存在する。習近平政権は大規模な貧困撲滅作戦を開始し、国連基準よりは下回ってはいるものの、2021年には国内の完全な貧困撲滅を宣言した。これは間違い無く世界史的な偉業であって、中国は貧困撲滅の最先端を行っている国だ。この事業を本格的に開始するのに先立って習政権が行なったのは、農村部の大規模な実態調査だ。これは文化革命の手法に似ている。そして習近平氏自身が文化革命の洗礼を直接に受けた人物であって、彼は父親が党の大物であったにも関わらず、その青春期を農村で過ごし、日々家畜の世話等の肉体労働に従事した経験を持つ。そして今の中国の国政の中枢には、彼の様に、地方の貧しい農村の暮らしを実体験として知っている者が多い文革世代が大勢居る。これは間接的にだが文革の成果のひとつとは言えないだろうか。文革が無ければ、都市部のエリートは農村の現実になど何時までも関心を持たなかったかも知れない。

 毛沢東がやろうとしたの中国の政治文化の根本的な変革であって、その成果は到底数年程度で測れる様なものではない。権力者を批判することを知らなかった貧しい人民に、毛沢東は批判の為の語彙と、自主の精神と、自治の実践の成功体験の機会を与えた。それは五十年とか百年とか、数世代を経て初めてその違いが判るものかも知れないのだ。これはジャーナリストのRamin Mazaheri氏が指摘していることなのだが、当時がどう云う時代だったかを思い返してみると良い。1960年代半ば、大人達の秩序に対する若者達の反乱は世界中で起こっていた。今の基準からすれば相当とんでもないことも多かった。だが当時の大人達の大半が若者達の言動に眉を顰め、嘆いたり罵倒したり抑圧したりしたのに対し、若者達を支援し、建設的な方向に誘導し、新しい世界を作れと勇気付けた政治指導者は、世界広しと言えども毛沢東だけだ。当時の怒れる若者達が各国の政治を動かしている今の国際情勢は、その時の答え合わせをしている様なものだと言えなくもない。

 とにかく、大きなコンテクストを常に念頭に置いておくことだ。自分達の思い込みを他者に投影するのではなく、常に具体的な生きられた現実を相手にするよう心掛ければ、無用な誤解や偏見を、少しは減らして行けるかも知れない。私には、「生身の相手が置かれている立場や状況を想像する」と云う、他者理解のこの極く基本的な作業を怠けている人が、昨今は大勢居る様に見受けられる。

 思いの外長い文章になってしまったので、やや取り止めが無いがこの辺で終わりにすることにする(こう長くちゃAmazonには掲載させて貰えないだろうな………)。再度述べておくが、私は別に中国人の肩を持ちたい訳ではない。私は別に毛沢東に個人的な思い入れが有る訳でもないし、中国共産党の熱心なファンでも、彼等を無批判に擁護したい訳でもない。但、現在の大規模な反中国プロパガンダのナラティヴに従うなら、中国人は全員おかしなイデオロギーに取り憑かれて外部の者には全く意味の解らない信条や政策を支持する程エキセントリックで、政府に洗脳されて現実を反することを何でも盲信する程愚かで判断力が無く、人権無視を何とも思わない程野蛮な、理解不能、対話不能の狂人の集団だと云うことになるが、私はそんなことは信じたくない。中国人は確かに日本人と違う所も沢山有るが、日本人が「脱亜入欧」するまでは中国は文化的・政治的・経済的な憧れの的だったのであり、それが近代化すると共にいきなり凶暴な狂人の群れに変わったと信じるのは、余りにも無理が有り過ぎる。大英帝国から押し付けられたアヘンを吸い過ぎて、中国人は全員脳みそが蒸発してしまったとでも云うのだろうか? それは人間や人間社会全般に対する私の基本的な理解に、真っ向から反するのだ。私が理解している限り、歴史はそう云う風に進むものではない。過去と切断された狂気がいきなり国中を覆い尽くすなどと云うことは、現実には先ず起こらない。生身の人間の営々たる積み重ねの上に歴史と云うものは形作られるのであって、完全に理解不能なイカれた出来事が起こった様に見えるとしたら、それは大抵、理解する側に何かまだ重要なピースが欠けているのだ。確かに歴史上、一見理解不能と思える程の蛮行や愚行は数多い(例えば、西洋の植民地主義勢力が世界各地で500年以上狂った様に繰り返している様なジェノサイドとか)。だが文革は恐らくそうではない。理解出来る様になる為の手掛かりは存在する。日本人は14億の対話不能で冷酷非道な狂人やモンスターを隣人として選びたいのだろうか? それとも、欠点も偏見も有るし間違いや愚かなことも度々やらかすかも知れないけれども、一人ひとり顔も有るし言葉も通じるし泣きも笑いも怒りもするし理性や良識も持ち合わせている話し合うことの出来る人間を隣人として選びたいのだろうか? 私は断然、後者の方が好きだ。「自分達は日々、凶暴なモンスターの脅威に脅かされている」と信じたがっている人達は、一体どんな世界に住みたがっているのだろう………。

 とにかく、私は現在の中国悪魔化/非人間化キャンペーンにはほとほとうんざりしている。「民主主義とは、『民主主義の敵だ』と権力者達に吹き込まれた相手を憎むことだ」と勘違いし、卑劣な嘘を何でもかんでも直ぐ鵜呑みにする浅はかな連中にも心底うんざりしている。私は何とかして、「この世界はモンスターでいっぱいだ。心を恐怖で満たし、思考を停止し、我々に権力を委ねるのだ」と云うメッセージを日々送りつけて来る連中に向かって、「うるせーバカ。おまえらが言っているより遙かに、この世界は人間でいっぱいなんだ」と中指を突き立ててやりたいと思っている。そんな風にあれこれ手探りしている内に出会ったのがこの本だ。これは文化革命についてのラディカルな解釈変更を迫る新たな知見を含んでいるだけではなく、政治とは何か、国とは、共同体とは何か、教育とは何か、本物の民主主義とは何かについて、様々な示唆に富む考察の材料を与えてくれた。情報の掃き溜めの中で反吐が出そうな思いをしていた私にとって、これは一服の清涼剤の様な、素晴らしく爽やかな読書体験だった。

 本書で語られなかったことは確かに多い。「文革中に殺された人の数は正確に何人に上るのか」などと云うことは一切書かれていないし、人によっては不満を覚える者も当然居るだろう。だが私は文革なテクニカルな細部には取り敢えず大して興味は無い。反中デマはそれこそ星の数程バラ撒かれているので、それらをいちいち検証する気も起きないし、またその為の能力や機会も持ち合わせてはいない。私が欲しいのは「この世界は理解可能なものだ」と云う私の根本的な楽観的観測に応えてくれる情報であって、その点、「文革は何故起こったのか、どう云う流れの上で発生したのか、何を目的としていたのか」と云うビッグ・ピクチャーを描き出す上で、本書は極めて有益な情報を数多く含んでいた。それだけで私は満足だ。

 残された謎については、更なる研究待ちだろう。先に挙げたMobo Gao氏に拠ると、2000年代頃からインターネットを中心に、中国現代史の見直し調査が草の根レヴェルで盛んになっているらしい。今の中国内部での研究状況がどうなっているのかは私はよく知らないが、新たな世代の研究者達が、前世代の偏見や思い込みから自由になったより曇りの少ない目で、検証作業を行なってくれることを期待したい。次の世代が思い描く中国人は、過去も現在も未来も、もっと人間らしい顔をしていることだろう。
プロフィール

川流桃桜

Author:川流桃桜
一介の反帝国主義者。
2022年3月に検閲を受けてTwitterとFBのアカウントを停止された為、それ以降は情報発信の拠点をブログに変更。基本はテーマ毎のオープンスレッド形式。検閲によって検索ではヒットし難くなっているので、気に入った記事や発言が有れば拡散して頂けると助かります。
全体像が知りたい場合は「カテゴリ」の「テーマ別スレッド一覧」を参照。

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