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『ひきこもりのライフプラン』の想定読者は親御さんでした。

 斎藤環/畠中雅子著『ひきこもりのライフプランー「親亡き後」をどうするか』(岩波ブックレット838)を読んでみました。斎藤氏は言わずと知れたひきこもり研究の第一人者なので秘かに期待していたのですが、実際に目を通してみると、何とも隔靴掻痒の感が免れませんでした。その原因は、視点が飽く迄ひきこもっている人の周囲の人達に据えられていたからです。まぁ表紙に「ひきこもりが生涯続いても子を支えられるライフプランを考える」と大きく書いてありますので、当然と言えば当然なんですが、どうも当事者の視点が欠落している様で寂しく思いました。

 いえね、周囲の人達が採るべき支援策としては、資産の処分の仕方と云った大きな話からご飯の炊き方と云ったいじましい話に至るまで、「どうやったら親が死んでも子が生きて行けるようにするか」と云う知恵が満載で結構役に立つ本なのです。が、ではひきこもっている当人がこれからどうしたら良いのか、と云うことについては、些か突っ込みが足りないのです。ひきこもりの人がこの本を読んでも、そもそも周囲の人に理解と支援が無いと、書かれていることを実行するのは難しいでしょう。

 まぁ斎藤氏の名著『社会的ひきこもり』にしても、その類書『「社会的うつ病」の治し方』にしても、治療者や支援者の立場からものを言っているので、この線の著作としては妥当なところなのですが、やはり今現在ひきこもっている人達に向かって「じゃあ君達はどうしたら良いんだ」と呼び掛けられる言葉は、まだ私達は碌に持ち合わせていないんだなぁ、としみじみ感じました。多分それは、色んな人が色んな形でまだ模索している最中なのでしょう。






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バルザック作『艶笑滑稽譚 第一輯――贖い能う罪 他』』の文章が読めない………。

 バルザックは好きな作家なので、岩波文庫から新訳が出ると云うのを楽しみにしていたのですが、何かタイトルを見た時点でそこはかとなくイヤーな予感はしていたんですよ。「輯」とか「贖」とか「能う」とか、今時は使わない言葉ばっかり。

 で、本文を見てみたらその予感が大当たり。やたら古々しい言葉遣いの上、ルビと注のオンパレード。まぁ「これ」を「此れ」、「なる」を「為る」とか表記するレベルなら、文章の流れが流麗であれば無視出来るのですが、これもそうではない。一文が元々長い上に述語が後へ後へと後退して行くのでスラスラと読み下しが出来ない。二度、三度と読み返さないと文章の意味が把握出来ない。

 内容の方は軽く笑い乍ら読み飛ばすことを前提にして作られたものの筈なんですが、とても気軽に手に取れるものじゃありません。Amazonのレビューによると、訳文は渡辺一夫訳『ガルガンチュアとパンタグリュエル』に似せたものだそうですが、んな戦中に出された本を基準にされてもねぇ、と云うのが正直な感想です。今日び、翻訳なんてのは読めてナンボ、どの出版社も成る可く分かり易い文体に成るよう苦心していると云うのに、岩波文庫は今だにこう云うワケの分からんことをやるんですねぇ。雰囲気を出そうとしてわざと古臭い文体にしたのでしょうが、これを今時の読者に買って貰いたいと本気で思っているのでしょうか。

 私に限って言えば、今回は外れです。全3巻だそうですが、2巻、3巻は買わないことにします。残念無念。



J.P.ホーガンの『断絶への航海』にまんま評価経済社会が現出している件について。

 J.P.ホーガンのまだ読んでいなかった『断絶への航海』を読んだのですが、特に面白かったのが真ん中の第二部。覇権争いばっかりの地球にうんざりした科学者達が、アルファ・ケンタウリへ向けて人類の播種計画を実施、40年後、その新天地で生まれた新人類が全く新しい形態の社会を成立させていたと云う話なのですが、そのユートピア的新世界の描写が実に評価経済的なのです。

 人口は10万人程度とまだ小都市規模なのですが、この社会には貨幣制度が存在しません。誰か何かが欲しくなったら、どんなモノでもサーヴィスでも無料で手に入るのです。何しろ核融合技術なんかをちょちょいと扱える様な超テクノロジーに支えられているので、エネルギーも資源も事実上無制限。土地も有り余っているし、必要なものが有ればそれが在るところへ行って只取って来るだけで良し。だからおカネなんて必要無いのです。

 でもそんなことになったら誰も働かなくなるんじゃないかって? そんな心配は御無用。寧ろ彼等は熱心に働きます。誰もが複数の職業、と云うか技能を持っていて、何か知ら社会に貢献しています。何しろこの社会で貨幣に相当する価値基準は、互いの能力に対する尊敬。何もしないで只与えられるものを享受して食っちゃ寝生活も、やろうと思えば出来ないことは無いのですが、それはその社会では「貧乏」に相当することなのです。「誰も好きこのんで貧乏に成りたがる奴は居ない」と云う訳で、誰もが自らの社会的認知を高める為に、無償で働いているのです。自分の能力を周囲に対して証明してみせることが、彼等の人生に張りを生んでいるのであって、怠惰な人々は「可哀想な人々」なのです。

 富や財の集中は起こり得ません。起こる必然性が無いからです。誰でも無制限に好きなだけ何でも手に入る社会に於て、沢山のモノを持っていることにどれ程価値が有るでしょうか? ゼロです。何かが欲しくなったら、必ず何処かでそれが手に入る。必ず誰かがそれをやってくれる。ならば、わざわざ自分のところに色んなものを集める必要が有るでしょうか?

 同様に、権力の集中も起こり得ません。必要な仕事が有れば、その仕事に見合った能力を持った誰かが出て来て、必要なことをやる、それだけ。指導者も無く、個々人を縛る法律も無く、誰もが自分自身の考えに従って生き、働き、自分の身を守る。非常に理想的なリバタリアンと云うか、アナーキスト的なユートピアなのです。「異常者」も確かに出現したりはしますが、それは極く少数。彼等は幼い頃から優秀なロボット達にしっかり養育されて自分の頭で考えることを徹底して叩き込まれる為、強力な自然淘汰が働いて、社会全体としては些細な異常は脅威には成らないのです。
 
 この本が出たのは、日本では2005年ですが(ハヤカワの新装版で。その前は'84年。御指摘有りましたので訂正します)、原書は1982年。出版当時に読んでいたら「何だこりゃ、随分な夢物語だなぁ」と思っていたかも知れませんが、翻って考えてみてみるに、世界の富は現段階でも結構十分有るんじゃないか?と云う実感が今日では有る様に思えます。皆そんなに無理して働かなくとも、無理してひとつの仕事や権威に一生縛り付けられなくても、結構人は生きて行けるんじゃないのか?と云う実感が、2012年の今では結構身近なものに成っているのではないでしょうか。確かに世界的に見れば、エネルギー問題や資源の問題、環境汚染や戦争、飢餓や貧困等、深刻化する一方の様に見える諸問題も山積みしています。ですが貨幣制度の終焉と云うか、その限界に関しては、結構肌で感じている方も多いのではないでしょうか。

 こんなことを30年も前に予見していただなんて、やっぱりSFは良いなぁと思った次第です。久々にモースの著作でも読み返して、贈与経済について再考してみる気分に成る一冊です。









シェイクスピア作『アテネのタイモン』を再読して評価経済社会についてちょい考えてみました。

 久々にシェイクスプア、じゃないや、ピアを再読してみました。取り上げたのは『アテネのタイモン』。私はそれ程シェイクスピア作品に入れ込んでいる訳ではないのですが、これは割と好きな作品です。

 タイモンはアテネの貴族で、やたらと人に物を贈りたがる人。自分の借金のことなど全部執事に任せてしまって、他人の借金まで背負ってやると云う、まぁ「寛大さ」なのか「慈悲心」なのか「虚栄心」なのか、ヴェブレンの「顕示的消費」を徳と結び付けて疑わない様な、ちょいとばかり変な人です。ところが度重なる宴会やら散財が祟って遂には財産が底を突いてしまいます。そこで以前彼から恩恵を受けていた人々に援助を求めるのですが、悉くのらりくらり躱されてしまって、結局は破産の憂き目に遭います。そこで人々の「忘恩」に愛想を尽かしたタイモンは、「家よ、燃えろ! アテネよ、水に飲まれろ! これからは人間が、全人類が、タイモンの憎むべき敵だ!」とまで言ってしまう程の人間嫌いに成る訳です(考え無しに金やモノをバラ撒き続けてりゃあ、そりゃそうなるわな。アホだなあ、自業自得じゃないか?と云うツッコミを入れてしまいたくなるのですが、まぁそこは措いておいて)。
  
 ここで思い出したのが岡田斗司夫氏の『評価経済社会』。物凄く簡単に要約すると、これからはお金が全て、と云う価値観から脱却して、モノやサーヴィスの信頼取引きへの重きが置かれる様な社会に成って、相互関係に於ける互いの評価こそが重要に成る社会に移行して行くだろう、と云う主張なのですが、面白いことに、本書に於てはこの「評価による自然淘汰的な自己規制」がぜーんぜん機能していません。

 タイモンは評判の良い人です。他人の苦難は見過ごさないし、要らんと言っても贈り物をくれたりする超太っ腹な人物です。なので自分と同様に友人達もまた、自分が困っている時には助けてくれるだろうと期待しています。なのに彼に恩の有る貴族達は、いざ彼が危難に陥ると「いやー俺も偶々手許不如意でさぁ、いやー助けられなくて残念だわー」とか言い合うばかりで、自己批判や相互批判と云うものを全くしません。「こんなことをして、周囲の人々にどう思われるか」だろうかなんて心配も、周りが皆同族なのでする必要が有りません。「何だこいつ等、全く人の恩義と云うものを弁えてない人非人ばかりだ」と云う視線を送る人々も登場するにはするのですが、彼等は何の決定権を持たない執事達とか、直接の利害関係を持たない外国人ばかり。実際に金や馬や土地、宝石等が動く場面に於ては、この相互監視/評価のネットワークから外れた人々です。

 ここでポイントなのは、この相互評価システムが上手く機能するには、これが原則的に万人に開かれていなければならない、と云うこと。詰まり本書の場合では、自分の財産や行動を自由に出来ない召使い階級や、富の流通に直接関与しない外国人に対しても、このシステムが開かれていなければならないと云うことです。そりゃそうです。「万人が万人に対して狼」的な状況で、自分が評価に値しないことを、お互いに取り繕ってそれで何とか偽善の上辺を装えてしまう社会に於ては、この評価経済は機能しません。詰まりこの相互評価ネットワークが正常に機能する為には、(既に十分な富が社会の中に蓄えられているとか他の条件も必要なのですが)経済の民主化が徹底していなければならないのです。現代風に言うと、世人の評価の及ばない雲の上で勝手に暮らしている超リッチなダボス階級が関与しているところでは、岡田氏の予想は機能しなくなるのです。

 古代のアテネは無論奴隷制なんかを布いていて、それで市民階級の生活が成り立っている様な社会ですから、対比するに当たって取り上げるとしたら興味深い対象です。経済生活(まぁ、ここで「経済」とは何を差すのかとか話し出すと長くなるので端折りますが)に於ける民主制と多様性、そして情報の公開制が確保されていること、これが評価経済社会の必須の要件に成るかと思います。

 にしても、劇中には「人間だれでも、悪口を言うやつでなければ言われるやつだ。人間だれでも、友人に足蹴にされて墓場にころがり落ち、死んで行くのだ。」とか言って始終タイモンの言動を批判する皮肉屋が登場するのですが、こう云う冷めた視点が確保されているのも、シェイクスピア作品の魅力のひとつです。で、その一方で、没落したタイモンを狙って、逆にその毒気に当てられた山賊に「人間が正直になれねえようだったら世も末だ。」とか言わせたりもしています。この一筋縄では行かないところもまた、同じくシェイクスピア作品の魅力のひとつです。






フェルドウスィー著『王書ー古代ペルシャの神話・伝説』(岩波文庫)を読んでみました。

 ふと立ち寄った書店で偶々目に付いたので手に取ってみました。東洋文庫版が出ていたのは知っていたのですが、高かったので何となく手を出さずにいたのですが、岩波文庫版は(同じく抄訳とは云え)千円しないのでその儘買って読んでみました。いやそれがまた面白かったの何の。『千一夜物語』や『ルバイヤート』『アラブ飲酒詩選』等が好きな方にはもう超お薦めです。

 『王書(シャー・ナーメ)』は三部構成に成っていて、本書では第一部の「神話」、第二部の「伝説」を所々カットしつつ収録してあるのですが(第三部は「歴史」)、堅苦しい感じは全然無くて、陶然たる異国情緒たっぷりの諸王や英雄達の冒険や恋に胸躍らせている内に割とスイスイ読めてしまいます。

 私が特に好きなのは各章の末尾の口上。例えば「(読者よ、)この世は消えうせる夢でしかない。幸福も不幸もながくつづきはしないのだ。」とか、「私(作者)の心はこの仮りの旅宿に疲れはてた。おお、神よ、この重荷より私を一日もはやく解きはなちたまえ。」とか、「この世における生の道は長いにせよ短いにせよ、死に追いつかれれば私たちは破滅するのです。」とか、この世の無常を嘆きつつも、日本のワビサビみたいに変に湿っぽくならないのが琴線に触れるのです。前述の三書を読んだことの有る人であれば「どうせこの世は仮の宿り。嘆く位なら酒飲んで恋をして楽しく友と語らおう」みたいなノリは理解して貰えるんじゃないでしょうか。このお気楽さと云うか、突き抜けた痛快さが何とも救いに成るのです。

 それに日本の場合だと無常観が没道徳的な次元にまでぶっ飛んでしまうのに対し、本書では例えば「永遠に生きる希望などそだてぬがよい。王であれ奴隷であれ、良き思い出を遺す人こそ幸せなのじゃ。」とか、「天輪に逆らうことのできる者はいない――悪人も徳ある者も。おれは理性がよしと認める道を選んだ。そして心正しい人びとはそれを思い出してくれるであろう。」とか、それでも人間的な次元での慰めを求めようとします。この辺の現世主義と云うか現実主義と云うか、きちんと俗世での行動の指針を明示している点が、日本的無常観とは大きく違っています。只泣くにしても、涙をグッと堪えてウウウ、ヨヨヨと啜り泣くよりは、大声を上げてオイオイ泣き叫ぶ豪快さが有って分かり易いです。この辺の分かり易さが人気の秘密なんではないかなぁと思います。

 訳文は略申し分無し。読み易い口語体です。まぁ時々「ヒーロー」とか「カップル」とか、雰囲気をプチ壊してくれるカタカナ語を使っているのは気に成りますが。




プロフィール

川流桃桜

Author:川流桃桜
怪奇幻想サイト『k-m industry 〜黒森牧夫の幻視風景』編集者。

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