何故私は展開ののろさなど気にせずに『スター・トレック ザ・モーション・ピクチャー』をこよなく愛するのか
ジーン・ロッデンベリーが企画した長寿の人気SFフランチャイズ、『スター・トレック(以下ST)』の劇場版第1作、Star Trek: The Motion Picture(以下TMP) の4K版の豪華セットが出ると云うことで、ファン達が静かに湧いている様だ。名匠ロバート・ワイズが監督したこの映画は、多くのトレッキー達からは、その展開の余りののろさに"Motionless Picture"などと揶揄され、歴代のST映画の中でも低い評価を受けている様だが、私は寧ろこれこそがTVシリーズを含めて歴代のSTものの中で最高傑作で、これこそがロッデンベリーの世界観を反映した作品の真骨頂だと考えており、折に触れて何度も観返している。なので、何故この映画の良さが解らない人がこうも多いのか!と嘆いていたものだが、珍しくこの作品を支持している人の動画を見付けたので、この機会にこの映画の良さを宣伝してみたいと思う。
Star Trek The Motion Picture - BetterThan You Remember?
TMPの欠点
このTRJさんが指摘している通り、この映画は些か編集が荒い。TRJさんが取り上げているのは、ミスター・スポックの重要な心理描写が、劇場公開版からは丸ごとカットされていたと云う点だ。スポックが涙を流して、「ヴィジャーを自分の弟の様に感じる」と言うシーンは、元々のTVシリーズ(TOS)の時からスポックが顕著な精神的成長を遂げたことを示しているのに、この非常に人気の有るキャラクターを理解する上で鍵となるシーンが、1979年の劇場公開時には抜け落ちていたのだ。このシーンも後のディレクターズ・カットに含まれることになった。

これ以外にも、例えば副長のウィリアム・デッカーと、デルタ人のアイリアとの恋愛関係の描写があっさりし過ぎている点などが私は不満だ(デッカーは後の『ネクスト・ジェネレーション(TNG)』のウィリアム・ライカー副長の雛形で、アイリアは「神秘的な美しい異星人」と云う設定がTNGのカウンセラー・トロイに受け継がれ、デッカーとアイリアの様に、ライカーとトロイも恋仲になっている)。アイリアがヴィジャーのセンサーによってデータ化されて消失し、周囲には恐らく死亡したと見做された際にも、デッカーは最愛の恋人が目の前で死んでしまったと云うのに、僅かに「だから無謀だと言ったのに」と上官のカークへ怒りをぶつけるだけで、強いショックを受けた様には見えない。デッカーとアイリアの精神的結び付きは、クライマックスでデッカーがヴィジャーとの融合を望む動機に繋がるのだが、この結び付きの描写が薄い為に、クライマックスの展開が些か説得力に欠けるものになってしまった。

この辺は編集と云うよりシナリオの欠点かも知れないが。長い上映時間を少しでも短縮する為か、個々の登場人物の内面を掘り下げて行く過程が、若干省略されてしまった嫌いが有るのは否めない。
また、SFXの完成度に疑問が残る点も不満のひとつ。特殊撮影にはダグラス・トランブルとジョン・ダイクストラが起用され、CG時代の前に撮影されたとは思えない、途方も無く美しい異世界を観客の眼前に展開してみせたのだが、当時の撮影技術の限界も有って、この作品のスケールと深みを十分に観客に伝えられていないのではと云う恨みが有った。これは後のディレクターズ・カットによって一部が補完されることになった。
Star Trek: The Motion Picture • Original vs Director's Edition • Comparison
展開がのろい?
この映画が批判される主な理由は展開ののろさだが、それを象徴するのが、提督に昇進して前線から退いてデスクワークに忙殺されていたであろう主人公のカークが、改装後のエンタープライズ号と再会するシーン。ST世界には転送機と云う便利な移動手段が存在するので、それを使って一瞬で船内に移動することも出来ただろうに、このシーンでは機関長のスコットが彼の為にわざわざシャトルを出して、船体の周りをゆっくり舐める様に移動してドッキングするのだ。この間、何と6分近く。会話は殆ど無い。単に宇宙船の船体をじっくり6分近くも眺めるだけで、話は何も進展しない。まぁ「次に何が起こるのか!」と云うハラハラドキドキ展開を期待している観客であれば、確かにこのシーンはもどかしくて仕方が無いだろう。
STAR TREK - THE MOTION PICTURE - THE DIRECTOR'S EDITION: The Enterprise 2.0 (Remastered to 5K/48fps)
だが、確かに話が進まないこのシーンは、実際それ程見ていて退屈なものなのだろうか? 私などは映画音楽の巨匠、ジェリー・ゴールドスミスのスコアの圧倒的な分厚いサウンドに酔い痴れるだけで、6分などアッと云う間に過ぎてしまう。目先のインパクトだけが持て囃される昨今のハリウッド映画界に於て、ここまでメロディックでテーマ性を持った、長く心に残る音楽を作り出せる作曲家がどれだけ居るだろうか? これは紛れも無く、ハリウッドの新ロマン主義的な伝統の真骨頂を示す傑作だ。そしてこのシリーズの基本理念である楽観主義的な人類讃歌を、この上も無く美事に表現している(↓下の動画は未使用版。実際に使用されたものと聴き比べてみると、そのインパクトの違いが解るだろう)。
ST TMP - The Enterprise - unused original music
ゴールドスミスがこの映画で使用したメイン・テーマは、やや音を軽くしてTNGのオープニングでも流用されているが、STシリーズが最も明るく輝いていた時代を象徴する、非常に前向きで胸踊らせる冒険を期待させるテーマだ。
Star Trek: The Motion Picture • Main Theme • Jerry Goldsmith
Star Trek: The Next Generation Intro HD
ゴールドスミスは後のTVシリーズ『ヴォイジャー(VGR)』のメイン・テーマや、劇場版第8作『ファースト・コンタクト』の音楽も担当しており、こちらはややノスタルジックなトーンになり、最盛期は過ぎ去ってしまってそれまでの栄光と繁栄に陰りが出て来た様な趣を与えているが、「人類の明るい未来を信じよう。明日に希望を持とう」と云うメッセージは失われてはいない。音楽に関しては、STはVGRの後の『エンタープライズ』シリーズでオープニングがそれまでのオーケストラから軽い感じのポップスになってしまってから、どんどん印象が薄れて来ている様に思うのだが、ゴールドスミスや、劇場版第2&3作目を担当したジェームズ・ホーナーなどは、このシリーズが持つ楽観的なヒューマニズムと云う基本理念を、音楽でよく表現していたと思う。
Star Trek Voyager - 4k / HD Intro - NeonVisual
Star Trek: First Contact • Main Theme • Jerry Goldsmith
さてエンタープライズと再会シーンの話に戻ると、ディレクターズ・カットの音声解説に拠ると、このシーンがここまで長々と描写されたのは、小さなTV画面向けのオリジナル・シリーズ(TOS)では予算や技術の制約も有って表現出来なかった、エンタープライズ号の実際の大きさを、劇場の大画面で観客に体感して貰って、「ああ、エンタープライズと云うのは本当はこんなスケールのものだったんだ」と思って貰いたかったからだと云う。確かに、両者を見比べてみれば違いは歴然としていて、TOSのエンタープライズはどうしても「大きな模型」と云う質感が否めないのに対して、TMPのそれは豪華客船の様に自分の船体を照らす様に照明も工夫して、それがどれだけの巨体なのか、重々しい質量感の演出に工夫が凝らされている。単に全体像をパッと見せるだけなら一瞬でも出来るだろうが(最近の、やたらと動きの速いVFXやフルCG作品の様に)、観客のその質量を映像から感じ取って貰うには、やはり急いではダメで、それなりにゆっくりと時間を掛けて船体を見せないと効果は出ない。その意味ではこのシーンの長さにはそれなりの合理的な理由が有る。

The Original Star Trek USS Enterprise Filming Model!
だが、高が「うわー、エンタープライズってでっかいだなぁ」と思って貰うだけの為に、わざわざ6分近い時間を割く必要が本当に有ったのだろうか? この疑問に対して、先に紹介したTRJさんは比較対象として、『2001年宇宙の旅』の月面着陸シーを挙げている。誰も異論は無いだろうが、このシーンはTMPのドッキング・シーンに比べて遙かに動きが少なく、展開がのろい。しかしこのシーンを無駄だと言う人は見掛けない。それはこのシーンが現実の宇宙旅行の描写に極めて近く、当時はそれだけでも驚くべきことだったからだ(『2001年』の公開は1968年で、これはアポロ11号の月面着陸の前年だ)。そしてそれは非常に美しく、単に観ているだけでも価値は有る。リアリズムと、絵画的な美しさ———この2つの為には、大画面にゆっくりとした時間を流れさせることがどうしても必要だったのだ。
2001: A SPACE ODYSSEY - The Landing -
『2001年』は後でまた取り上げるが、TMPが比較されるべきなのはこの2年前に公開された『スター・ウォーズ』ではなく、『2001年』の方なのだ。『2001年』に比べたら、TMPは寧ろ展開がずっと速いとすら言える。後のST映画はアクション色の強いものが多いが、ロッデンベリーが作りたかったのはアクション映画ではない。STシリーズでは寧ろアクションが可能なシーンであっても、わざわざアクション性を回避する様な演出が採られたりもしている。ロッデンベリーは単に圧倒的な映像美で観客をアッと言わせたかった訳ではない、映像を通じて、人々の知性や品性に訴えたかったのだ。
レナード・ニモイが『スタートレック ディスカバリー』の何が問題なのかを説明
そしてまた、「1979年」と云う、公開当時の状況を思い出そう。当時既に米国の産業資本主義には翳りが出始めていたが、新自由主義が本格的に米国に上陸して米国のモノ作り産業を破壊し始めるのはこの後の話だ。NASAの予算の予算は既に大幅に減らされていたものの、20世紀以内にヴォイジャー6号が飛ばされると云うこの映画の設定が説得力を持つ程には、宇宙開発への人々の関心は高かった。人々の生活を向上させてくれる様々なインフラや、人々をより高く、遠く運んでくれる具体的で物理的なモノに対する信頼は、まだ人々の間からは失われてはいなかった。これは子供達が将来希望する職業を訊かれて一番になりたいものが「ユーチューバー」などと答え始めるよりずっと前の時代であって、実際に人々の役に立つモノやサーヴィスを作り出すことこそが自分達の繁栄の基礎であると云う、健全な経済発展に対する信仰が失われる前の時代だ。長引くヴェトナム/インドシナ侵略を背景に、様々な反吐の出る様な偽善や巨大犯罪を繰り返しつつも、そこには「世界中の人々が憧れるアメリカ」「豊かで、時代を前に進ませるアメリカ」と云うイメージを裏付けてくれる現実が確かにまだ残っていた。「過ちを繰り返しても、そこから学んで私達はまだ先へ進める」と云う希望は、決して完全に空虚なものではなかった。現実に目で見て手で触れることの出来るものを手掛かりにして、人類は貧困や貪欲から解放された世界へ向かうことが出来ると云う楽観主義は、今程死に絶えてはいなかったのだ。TMPのエンタープライズとの再会シーンには、そうした人類の世界をより良くし、より広げてくれる具体的で物理的なモノに対する信頼が溢れている。明るい未来とは宙からパッと降って来る訳ではない。それは大勢の人々が懸命に努力して協力して、コツコツ創り上げて行って初めて見られるものだ。STシリーズは破壊ではなく建設に捧げられた讃歌なのだ。

TMPのテーマ
TMPのテーマは成長だ。メインの登場人物と言える2人、カークとスポックは、登場時にそれぞれ精神的危機を迎えている。カークは提督に昇進したものの、「中年の危機」を迎えて人生の行き先を見失い、船を指揮していた頃が忘れられずに、危機を利用してエンタープライズの船長への返り咲きを試みる。他方スポックは宇宙艦隊を退いて、ヴァルカン人の悟りとも言うべき「コリナー」の境地に達しようと修行しているが、資格を得られる寸前、宇宙からのヴィジャーの呼び掛けを耳にして感情を超越した境地に安住することに躊躇いを覚え、確信の無い儘エンタープライズに戻って、ヴィジャーが自分の求めている答えを持っているかどうか確かめようとする。両者共にTOSでは自信に満ちて行動していたのに、今では深刻なアイデンティティーの危機を迎えて「自分はこれでいいのか」と自問している。
そこへ絡んで来るのが3人目の主人公、ヴィジャーだ。ヴィジャーはポスターでは探査機が模倣したアイリア中尉の形態によって表現されているが、これがこの映画の3人の主人公で、この作品は3人の精神的成長と進化を描いている。

地球を脅かす謎の巨大物体、ヴィジャーの目的とその正体は、物語が進むにつれて徐々に明らかになって行くのだが、ヴィジャーと精神融合を果たしてその内面を理解したスポックの説明に拠れば、ヴィジャーは「子供」だ。「進化し、学び、探し求め、本能的に求めている。」「それは自分が求めていることは知っているが、我々の多くと同様、何を求めているのかは分かっていない。」つまりヴィジャーはカークやスポックと同様、先へ進みたいとは思っているが、この先どう進んで行けば分からなくて迷っている、一種の求道者なのだ。彼等の道行きは「神を探し求めること」と言い換えても良い。実際、製作の過程で「神」の話題は製作陣の間でも話題になり、所謂「バイブル・ベルト」の観客層への配慮をどうするかと云った議論が行われている。
Star Trek: The Motion Picture (6/9) Movie CLIP - VGER is a Child (1979) HD
スポックはヴィジャーこそが自分の求める答えを持っているかも知れないと思ってヴィジャーとの精神融合を果たすのだが、その結果に彼は大いに失望させられることになる。ヴィジャーもまた彼同様、道に迷った子羊に過ぎなかった。彼の台詞を抜粋しよう:
スポック「しかし、これ程までに純粋な論理でありながら、ヴィジャーは不毛で、冷たい———神秘も、美も無い。私は知っていた筈なのに。」
カーク「知っていた? 何をだ? 何を知っていた筈なんだ?」
スポック「(カークの手を握り)この、シンプルな感覚が、ヴィジャーには理解出来ない。意味も、希望も無い。そして———ジム———答えも無いんだ。それは問い続けている、『自分は只これだけの存在か? これ以上何も無いのか?」
Dr. Chapel and Dr. McCoy Examining Mr. Spock In Sickbay
クライマックスでの別の会話を抜き出してみよう:
スポック「ヴィジャーは進化を必要としている。その知識がこの宇宙の限界に達したので、進化しなければならないのだ。それが神に求めているのは、ドクター、質問に対する答えだ、『これ以上は何も無いのか?』」
マッコイ「宇宙以上の何が有るって云うんだ、スポック?」
デッカー「別の次元。高次元の存在」
スポック「その存在を論理的に証明することは出来ない。従って、ヴィジャーはそれを信じることが出来ずにいる。」
カーク「進化する為に必要なのは………人間の資質だ。論理を跳び越える我々の能力だ。」
デッカー「創造主とひとつになることで、それが可能になるかも知れない。」
Star Trek V'ger parte final
ヴィジャーに失望したことで、スポックは自分の人間的な側面を受け入れることを学び、「成熟」する(これはディレクターズ・カットで元に戻された、ヴィジャーと自分を重ねて泣くシーンで一層明らかになる)。他方、ヴィジャーは「創造主」たる人類の一人と物理的に融合することで、新たな次元の存在へと「進化」する。そしてカークは新たな生命の誕生を目の当たりにすることで、人類には、そして自分には、まだまだ大きな可能性が開かれていることを確信する。自らを成長させることを切望していた3人の主人公達は、それぞれ自分なりの仕方で成長を遂げるのだ。そしてそれが最終的には、ラストシーンでの、人類全体に向けた感動的なメッセージに繋がる。TMPのラストシーンで、エンタープライズがワープした後で、画面一杯に黒字に独特の白抜きフォントによる次の様なメッセージが表示される:
「人類の冒険は始まったばかりである(THE HUMAN ADVENTURE IS JUST BEGINNIG)」。

これにはもう少し長いヴァージョンの言葉もファン達の間で出回っていて、こんなものだ:
「何もかもが終わった訳じゃない。何もかも、まだ生み出され(invent)てはいない。人類の冒険は始まったばかりなのだ。」
私はこれが、これこそが、STシリーズの最も重要なメッセージだろうと思う。少なくとも、ジーン・ロッデンベリーにとってはそうだった筈だ。人類には希望を持つべき明日が開かれている、人類はより進歩し成熟し、多様性を包摂してより豊かで平和な社会を築くことが出来る。それは偉大な成長への讃歌なのだ。
再び、『2001年』との比較
人類進化を描いた映画として最も有名なのは、やはり先に挙げた『2001年宇宙の旅』だろう。だが『2001年』のボーマンは最終的に「スター・チャイルド」へと進化するものの、それが何を意味するのかは観客の解釈に委ねられていて、具体的にどんな方向性を示したいのかははっきりしていない。
「進化」と「進歩」は、往々にして同義であるかの様に語られるが、厳密に言えば違う。「進歩」とは現在の人類の価値観を未来に投影した言葉であって、今の人類から見て「より良いもの」へと向かうことを指す。他方、「進化」とは変化する環境に対する適応であって、その変化が現在の人類の価値観からみて良いものであるとは限らない。それはショッキングで忌まわしいものかも知れないし、悍ましく不可解なものかも知れないし、汚らわしく嘆かわしいものであるかも知れない。『2001年』に於ける「進化」には、そうした得体の知れない未知の要素が充満していて、「スター・チャイルド」への進化が今の人類から見て望ましいものに映るとは限らない。
映画で類人猿がモノリスに触れた後、彼等が獲得した能力は何だったろうか。より効率的な破壊と殺戮だ。それは確かに偉大な人類文明の基礎を作ったのかも知れないが、それは類人猿から見て本当に望ましい変化だったのだろうか。『2001年』には、そうした未知の変化に対する恐怖の通奏低音が最後まで付いて回っている。

他方、STはどうだろうか。TMPの、エンタープライズがヴィジャーの雲の中に突入して行くシーンを、ボーマンが「スター・ゲイト」へ突入して行くシーンと見比べてみると良い。両者とも非常にテンポがのろく、話は一向に進まない。今の様に何でもかんでもCGで合成してしまう時代と違って、両者とも当時のアナログSFX技術の粋を凝らした贅沢な映像美が展開されているが、これらは今見ても全く色褪せておらず、この美しさだけでも観ているに値する(「話が進まないから」とカットするなど以ての外だ)。『2001年』の方はリゲティの不安を掻き立てる前衛的な現代音楽を流しているのに対して、TMPが使っているゴールドスミスの曲は、不定形だがそれでも一定度のメロディ・ライン残している。それは未知のものに対する不安と畏怖の念で満ちてはいるが、超巨大なヴィジャーに対して余りにも卑小な人類が、それに一方的に圧倒されて押し潰されるのではなく、どう仕様も無く魅せられている様が描かれている。抽象度の高い「スター・ゲイト」に比べた時のヴィジャーの具体的な物理的巨大さを見てみると良い。少なくともそれは人間の知覚によって捉えることが可能なものであり、古典的な美と崇高さの結合を思い起こさせるものだ。それは恐ろしいが、理解可能性の余地を残したものであって、何か素晴らしいものであるかも知れないと云う潜在的な期待を孕んでいる(エンタープライズのブリッジ・クルーは全員、ヴィジャーの雲内部の光景に魅せられているが、身を乗り出してもっとよく見ようとしているのがアイリアであることが予兆的だ。彼女はこの後、ヴィジャーの探査機にデータ化されることになる)。
Additional Scenes V'ger Flyover
2001: A Space Odyssey - Stargate Sequence (Movie Clip)
「宇宙服のヘルメットに外界の光景が映し出される」と云うのは、見る者とその人が見る光景を同時に一枚の映像に落とし込む、映画でしか出来ない素晴らしい映像表現だが、上記の『2001年』のボーマンは、一方的な衝撃に揺さぶられ、その存在の内奥まで破壊され、根本的なアイデンティティを喪失させられて、最後には瞬きする度に色が変わる瞳だけが描写される。他方、ヴィジャーの深奥にスポックが突入するシーンでは、スポックは冷静に周囲の状況を観察し、記録し、自分の推測を口にする。彼が目にするのは深遠だが理解可能な世界であり、驚異的ではあるが人類にも何時かは手が届くかも知れないことを予感させる宇宙だ。彼が直面しているのは「全く訳の分からない恐ろしい未知のもの」ではない。それは解明されるのを待っている謎であり、圧倒的な巨大な美であり、人間の主体的な問いに対する答えなのだ。そしてそれは同時に、ヴィジャーがそれまでの旅で見てきたものの記録でもある。ここでは機械ではあるが別の宇宙飛行士の視点から見た宇宙の驚異の数々、ヴィジャーの成長の記録が、スポックと云う別の求道者の旅と二重映しになっている。『2001年』の訳の分からなさに比べて、TMPで描かれる成長物語は、遙かに平易で親しみ易い。それはより手の届き易い進化(進歩)の姿を描き出している。TMPは『2001年』を通俗化した作品だと言えなくもない。だが未来に対する両者のヴィジョンは極めて異なったものだ。『2001年』は言ってしまえば高踏趣味のエリート向けの作品だが、TMPは万人に開かれたものであることを期待している。
Mr. Spock Attempts Mind Meld With V'ger
TMPのラストシーンを見てみよう。エンタープライズの新たな進路を訊かれて、カークは窓の外の宇宙を魅せられた様に見詰めて、独り言の様にこう呟く、「宇宙へ………(Out there...)」。そしてふとナヴィゲイターの視線に気が付いたのか気を取り直して真面目な顔を作り直して、ぶっきらぼうに手を振って命じる、「あっちだ(That away)」。そして指揮官席に身を沈め、静かに微笑む。確かな目的地も定めず、「細かいことは、まぁ後で考えよう」と、とにかく前に進もうとする陽気な無謀さは、カークを演じるウィリアム・シャトナーでなければ出せなかったであろう、粋で心浮き立つ雰囲気に溢れている。そしてエンタープライズがワープした後に広がる宇宙の虚空に、温かみを感じるフォントで、「人類の冒険は始まったばかりである」のメッセージ。「スター・チャイルド」が独り地球を見下ろして黙考する『2001年』と比べて何たる違いだろうか。それは観客に向かって、「さぁ、君も一緒に来いよ」と親しげに手を差し伸べている。
Star Trek: The Motion Picture (9/9) Movie CLIP - Thattaway (1979) HD
スター・トレックの基本理念とその堕落
STシリーズはスター・ウォーズ(SW)シリーズとよく比較されるが、両者はジャンルが違う。SWは神話だが、STは近未来SFであり、一種のユートピア・フィクションだ。それは人々が、未来はこうあって欲しいと望む姿、人々が憧れる未来社会、夢物語とは知りつつも、自分達はどんな方向に向かって進むべきなのか、或いは進みたいのかを視聴者に再確認させてくれる物語だ。ジーン・ロッデンベリー自身の言葉を引用しよう:
「『スター・トレック』は、人間の或る基本的な欲求を代弁するものです。つまり、明日があること、大きな閃光と爆弾で全てが終わる訳ではないこと、人類は進歩していること、人間として誇れるものを持っていること。いいえ、古代の宇宙飛行士がピラミッドを建てたのではありません、人間が建てたのです。何故なら彼等は賢くてよく働くからです。スター・トレックとはそう云うものについての話です。」

別の言葉を引用しよう:
「『スター・トレック』は、考え方の違いや生命形態の違いを許容するだけでなく、そこに特別な喜びを感じる様になった暁には、人類は成熟し知恵を得ることが出来るだろう、と言おうとする試みなのです。………若し私達がこの惑星でこうした小さな違いを実際に楽しむこと、人類同士の間の小さな違いに肯定的な喜びを感じることをを学ぶことが出来なければ、私達は宇宙に出て、そこに殆ど確実に存在しているであろう多様性に遭遇する資格は無いのです。」

それは成熟と知恵の獲得に関する物語であり、世界の多様性を豊穣性と感じる感性を育てる為のメッセージを伝えるものだ。変化を恐れず、心を開き、明日の為に力を合わせて協力する………そうした極く真っ当な健全さを志向する、素朴と言っても良い明るい理想主義が、このシリーズには込められている。ここまで楽天的な未来観を一貫して真実続け、それを娯楽物語の形にして人々に伝えることが出来る人物と云うのは、いざ探してみると非常に限られて来る。日本で言うと、例えば藤子・F・不二雄だろうか。彼の主人公の描き方は、視聴者が憧れる様なロッデンベリーの主人公と違って、欠点だらけで、人よりも劣っていることが多い。だがそれにも関わらず、彼等は様々な経験を通して成長し続ける。『劇画・オバQ』の様に、変わってしまった現実を前にして古い冒険衝動に区切りを付けることも有るが、彼の描く主人公達の多くは、困難を前にして新たな可能性に賭ける方を選択する。アーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』に対するアンチテーゼの様なタイトルの『老年期の終わり』の、人類全体が進歩することを止めてしまった様な未来に於てすら、そこには「たとえそれがどんなにかすかな光でも………ぼくは行く!!」と、明日の可能性を信じて無謀な挑戦を試みると言い切る青年が残っている。パーマンが留学の為に遠い星へ旅立ってしまっても、パー子(星野スミレ)は須羽満夫(ミツ夫。「スーパーマン」に引っ掛けている)が帰って来るのを、何と大人になっても信じて待ち続けている。小学生の時の片想いの相手を一途に想い続けるなど、現実では先ず有り得ないことだが、そんなことは構わないのだ。これは「こうあって欲しい」と云うユメを描いたフィクションだからだ。現実には挫折や喪失が付き物だ。だが惨めな現実を惨めな儘描き出すことだけが、クリエイターの使命なのだろうか? 現実では起こり得ない、視聴者や読者が「こうあって欲しい」と思いたくなる様な世界を描きだすこともまた、立派なひとつの創作作業だろう。挫折や喪失の先にも、再会や新たな可能性が待ち受けているかも知れない。我々は何を根拠にするのでもない、単に明日はより明るくなると信じてみても良いのだ………そうした楽観主義を、特に若い世代に向けて伝えることが出来ると云うことは、実に稀有な才能ではないだろうかと、私は最近よく思う。

TOSの成功を受けたジーン・ロッデンベリーは、ファンからの熱い要請に応えてTV用の続編「フェーズ2」を製作しようとしたが難航し、結果的にその企画が紆余曲折を経て劇場版第1作が作られることになった(例えば、ミスター・スポックの代わりに感情を理解出来ないヴァルカン人が登場する予定だったが、このキャストに予定されていた俳優が、宇宙ステーション・エプシロン9の司令官として登場している。この役が恐らくTNGのデータの雛形だろう)。それはロッデンベリーが、TOSで本当は何をやりたかったのか、力不足により何を語れなかったのかを改めて確認する作業であり、TOSを通じて語り切れなかった中心メッセージを視聴者に伝える為の企画だった。だがそれは各方面の思惑や利害が衝突する中で、大変な難産のプロセスを経て実現されることになった。
Star Trek - The Motion Picture -Trekkiechannel documentary part 1
TMPの成功によってSTが儲けられるフランチャイズであることを確認したパラマウントは、不評の主因と考えられたロッデンベリーを、以降の映画作品から外してしまう。それによりSTの基本路線はそれ以降、大きく変更を受けることになる。違いは例えば宇宙艦隊の制服の変更を見れば一目瞭然で、元々は宇宙艦隊の船は戦争の船ではなく平和の船であることを強調する為に、制服も寛いだ感じのデザインのものが採用されていた。それがあからさまにより軍服らしいデザインに変更され、確かにスクリーン映えのするカッコ良さは増したものの、「エンタープライズは軍艦ではない」と云う理念が薄れてしまう結果になった。ストーリーや設定の方もそれに合わせて徐々に変化して行き、ロッデンベリーが関与したTVのTNGシリーズが始まって、一旦は基本に立ち返ったものの、ロッデンベリーの死後はまた再び軍事色が強まって行って、2000年代になると完全に「宇宙艦隊は基本的に軍事組織」と云うイメージがメインになってしまった。これはロッデンベリーのオリジナルの理念からの著しい逸脱で、多くのファンがこれを含めて、ロッデンベリーの遺産を軒並み台無しにしまくっている新世代の製作陣を非難している。

Did Star Trek Discovery Betray The Vision of Gene Roddenberry ?
残念ながら、ロッデンベリーは死後の後継者には恵まれなかった。彼は本物の理想家だったが、彼の仕事を引き継いだ次世代の製作陣は理念無きビジネスマン達だった。ポスト・ロッデンベリー時代に作られた「ロッデンベリーらしい」傑作の数々は、製作陣「のお陰」ではなく、製作陣「にも関わらず」実現されたと指摘する評者も居る。
Berman Trek | Renegade Cut
『ディスカバリー』以降のプロデューサーのアレックス・カーツマンに至っては、子供の頃は「余りに哲学的過ぎて」STは好きではなかったと公言する始末で、オリジナルとの差異化を図る余りに、安易な暴力描写や扇情的な傾向をどぎついまでに推し進めて、STの人気の理由だった根本的な楽観主義、誰もが憧れる未来像を完全に放棄してしまった。『劇画・オバQ』の設定を更に悲惨にして『オバケのQ太郎』のリメイクをやっている様なもので、これには多くのオールド・ファンが「我々のヒーローは一体どうなってしまったんだ?」と嘆いている。しかもあちこちで旧シリーズとの辻褄も合っていないものだから、最早STシリーズはパラレルワールドに舞台を移してしまったかの様だ(劇場版の新シリーズは文字通りのパラレルワールドに舞台を設定している)。この傾向は他の映画やTVのヒーロー達のリメイクや続編についても同様で、柳の下のどじょうを狙って金の亡者達が次々と過去のヒット作をフランチャイズ化したがるものの、彼等はそれらのヒーローをヒーローたらしめた要因を全く理解していない為、表面的に模倣するばかりで、「私達のヒーローが台無しにされてしまった」と云う声を後を絶たない。それらについて詳しくはhttp://kawamomomurmur.blog.fc2.com/blog-entry-1115.html" target="_blank" title="別のスレッド">別のスレッドに多少纏めてあるので、興味の有る方はそちらを参照されたい。
The Difference Between Kurtzman and Gene Roddenberry . Old Star Trek vs NuTrek
尤も公平を期しておくと、ロッデンベリーが定めた基本理念から逸脱することによってヒットしたり、素晴らしい話が生まれたりしたことも少なくない。実際、ロッデンベリーらしさがよく表れされたTMPを、多くのファンが「退屈」と評している。まぁ私も正直に言うと、体のラインがくっきり出る様な制服のデザインを見た時には「23/24世紀では宇宙船ではパジャマを着るのか?」と、最初は戸惑いを隠せなかった。政治や軍事、紛争や流血沙汰の話はファンの間でも若干評価が分かれるらしく、「新たな宇宙の探求」と云うテーマはどうなったんだ、と云う批判も有るらしいが、軍事色の強い劇場版第2作『カーンの逆襲』を、多くのファンは劇場版の最高傑作と見做している。だがファン達の最近の批判を見る限り、STにとって最も肝心なのは、その楽観主義、「未来はきっと明るい」「人類は成長出来る」と云うメッセージであると、多くのファンが考えている様だ。人類の悲惨さや惨めさや残虐さに焦点を当てるのではなく、人類の肯定的な面、人類が誇れる様な点、憧れる点、希望を持てる点にこそ焦点を当て、素晴らしい物語を紡ぐこと………それが出来ていないST作品は、最早STを名乗るのに値しないと考えるファンは多い。私もその一人だ。
10 Times Gene Roddenberry Hated Star Trek
結び
別の原稿の序でに、一寸息抜きに気分転換しようと思って書き始めたら、思いの外長くなってしまた。まぁ思い付く儘に色々書いては来たが、とにかく最近のST作品は人間の醜い点や絶望に焦点を当て過ぎる。私が好きなST作品は、人類の肯定的な面や希望にこそ焦点を当てるものだ。TMPはその点で、多少の欠点は有りつつも、最も完成度の高いロッデンベリー的世界観を表現している。世界史的な地政学的大変動が起きている現在、「理想とする未来像」「何時かはこうありたいと望む世界像」が想像出来ないことは、単なる娯楽や時間潰し以上の、遙かに重要な意味を持っているのではないかと云う危機感を最近私は募らせている。想像力の枯渇は、人間のアイデンティティーや社会形成の根幹に関わる問題だ。人間は仮令夢物語であっても、想像出来ないものは追求出来ない。今は現実離れしていたとしても、現実をどの方向に進めるべきかを見定める参照枠や基準点がフィクションの形で良いから存在しないことには、人類は先に進み様が無い。自分はどんな存在になりたいのか、どんな社会を作りたいのかを思い描けないことには、目の前の腐って醜い現実と妥協することばかりしか考えられなくなる。現実に於て妥協は勿論必要だ。だが妥協ばかりでは、そもそも何の為に何を妥協させているのかすら見えなくなってしまう。時々は目の前の現実から一歩身を引いて、想像力を自由に遊ばせてやることが非常に重要だ。夢は記憶の整理だと云う説が有るらしいが、それと同じで、時には思考を昼間の現実から解放してやらないと、精神はその内息が詰まって死んでしまう。そして自分が死んだことにすら気付けなくなる。何も難しく考える必要は無い、夢の方向性なんかは適当で良い。「あっちだ」で構わないのだ。肝心なのは、大人になっても世界へ向かって自分を開放しようとする欲求を忘れないこと、宇宙の神秘と驚異と美しさに対して、シャイになり過ぎないこと、そしてそれによって「貧困も貪欲も無い世界っていいよね!」と言い放つ図々しさを自分の中に育ててやることだ。折角人類の一員としてこの宇宙の片隅に生を享けたのに、憧れ無くして何が人生だろうか?
Star Trek The Motion Picture - BetterThan You Remember?
TMPの欠点
このTRJさんが指摘している通り、この映画は些か編集が荒い。TRJさんが取り上げているのは、ミスター・スポックの重要な心理描写が、劇場公開版からは丸ごとカットされていたと云う点だ。スポックが涙を流して、「ヴィジャーを自分の弟の様に感じる」と言うシーンは、元々のTVシリーズ(TOS)の時からスポックが顕著な精神的成長を遂げたことを示しているのに、この非常に人気の有るキャラクターを理解する上で鍵となるシーンが、1979年の劇場公開時には抜け落ちていたのだ。このシーンも後のディレクターズ・カットに含まれることになった。

これ以外にも、例えば副長のウィリアム・デッカーと、デルタ人のアイリアとの恋愛関係の描写があっさりし過ぎている点などが私は不満だ(デッカーは後の『ネクスト・ジェネレーション(TNG)』のウィリアム・ライカー副長の雛形で、アイリアは「神秘的な美しい異星人」と云う設定がTNGのカウンセラー・トロイに受け継がれ、デッカーとアイリアの様に、ライカーとトロイも恋仲になっている)。アイリアがヴィジャーのセンサーによってデータ化されて消失し、周囲には恐らく死亡したと見做された際にも、デッカーは最愛の恋人が目の前で死んでしまったと云うのに、僅かに「だから無謀だと言ったのに」と上官のカークへ怒りをぶつけるだけで、強いショックを受けた様には見えない。デッカーとアイリアの精神的結び付きは、クライマックスでデッカーがヴィジャーとの融合を望む動機に繋がるのだが、この結び付きの描写が薄い為に、クライマックスの展開が些か説得力に欠けるものになってしまった。


この辺は編集と云うよりシナリオの欠点かも知れないが。長い上映時間を少しでも短縮する為か、個々の登場人物の内面を掘り下げて行く過程が、若干省略されてしまった嫌いが有るのは否めない。
また、SFXの完成度に疑問が残る点も不満のひとつ。特殊撮影にはダグラス・トランブルとジョン・ダイクストラが起用され、CG時代の前に撮影されたとは思えない、途方も無く美しい異世界を観客の眼前に展開してみせたのだが、当時の撮影技術の限界も有って、この作品のスケールと深みを十分に観客に伝えられていないのではと云う恨みが有った。これは後のディレクターズ・カットによって一部が補完されることになった。
Star Trek: The Motion Picture • Original vs Director's Edition • Comparison
展開がのろい?
この映画が批判される主な理由は展開ののろさだが、それを象徴するのが、提督に昇進して前線から退いてデスクワークに忙殺されていたであろう主人公のカークが、改装後のエンタープライズ号と再会するシーン。ST世界には転送機と云う便利な移動手段が存在するので、それを使って一瞬で船内に移動することも出来ただろうに、このシーンでは機関長のスコットが彼の為にわざわざシャトルを出して、船体の周りをゆっくり舐める様に移動してドッキングするのだ。この間、何と6分近く。会話は殆ど無い。単に宇宙船の船体をじっくり6分近くも眺めるだけで、話は何も進展しない。まぁ「次に何が起こるのか!」と云うハラハラドキドキ展開を期待している観客であれば、確かにこのシーンはもどかしくて仕方が無いだろう。
STAR TREK - THE MOTION PICTURE - THE DIRECTOR'S EDITION: The Enterprise 2.0 (Remastered to 5K/48fps)
だが、確かに話が進まないこのシーンは、実際それ程見ていて退屈なものなのだろうか? 私などは映画音楽の巨匠、ジェリー・ゴールドスミスのスコアの圧倒的な分厚いサウンドに酔い痴れるだけで、6分などアッと云う間に過ぎてしまう。目先のインパクトだけが持て囃される昨今のハリウッド映画界に於て、ここまでメロディックでテーマ性を持った、長く心に残る音楽を作り出せる作曲家がどれだけ居るだろうか? これは紛れも無く、ハリウッドの新ロマン主義的な伝統の真骨頂を示す傑作だ。そしてこのシリーズの基本理念である楽観主義的な人類讃歌を、この上も無く美事に表現している(↓下の動画は未使用版。実際に使用されたものと聴き比べてみると、そのインパクトの違いが解るだろう)。
ST TMP - The Enterprise - unused original music
ゴールドスミスがこの映画で使用したメイン・テーマは、やや音を軽くしてTNGのオープニングでも流用されているが、STシリーズが最も明るく輝いていた時代を象徴する、非常に前向きで胸踊らせる冒険を期待させるテーマだ。
Star Trek: The Motion Picture • Main Theme • Jerry Goldsmith
Star Trek: The Next Generation Intro HD
ゴールドスミスは後のTVシリーズ『ヴォイジャー(VGR)』のメイン・テーマや、劇場版第8作『ファースト・コンタクト』の音楽も担当しており、こちらはややノスタルジックなトーンになり、最盛期は過ぎ去ってしまってそれまでの栄光と繁栄に陰りが出て来た様な趣を与えているが、「人類の明るい未来を信じよう。明日に希望を持とう」と云うメッセージは失われてはいない。音楽に関しては、STはVGRの後の『エンタープライズ』シリーズでオープニングがそれまでのオーケストラから軽い感じのポップスになってしまってから、どんどん印象が薄れて来ている様に思うのだが、ゴールドスミスや、劇場版第2&3作目を担当したジェームズ・ホーナーなどは、このシリーズが持つ楽観的なヒューマニズムと云う基本理念を、音楽でよく表現していたと思う。
Star Trek Voyager - 4k / HD Intro - NeonVisual
Star Trek: First Contact • Main Theme • Jerry Goldsmith
さてエンタープライズと再会シーンの話に戻ると、ディレクターズ・カットの音声解説に拠ると、このシーンがここまで長々と描写されたのは、小さなTV画面向けのオリジナル・シリーズ(TOS)では予算や技術の制約も有って表現出来なかった、エンタープライズ号の実際の大きさを、劇場の大画面で観客に体感して貰って、「ああ、エンタープライズと云うのは本当はこんなスケールのものだったんだ」と思って貰いたかったからだと云う。確かに、両者を見比べてみれば違いは歴然としていて、TOSのエンタープライズはどうしても「大きな模型」と云う質感が否めないのに対して、TMPのそれは豪華客船の様に自分の船体を照らす様に照明も工夫して、それがどれだけの巨体なのか、重々しい質量感の演出に工夫が凝らされている。単に全体像をパッと見せるだけなら一瞬でも出来るだろうが(最近の、やたらと動きの速いVFXやフルCG作品の様に)、観客のその質量を映像から感じ取って貰うには、やはり急いではダメで、それなりにゆっくりと時間を掛けて船体を見せないと効果は出ない。その意味ではこのシーンの長さにはそれなりの合理的な理由が有る。


The Original Star Trek USS Enterprise Filming Model!
だが、高が「うわー、エンタープライズってでっかいだなぁ」と思って貰うだけの為に、わざわざ6分近い時間を割く必要が本当に有ったのだろうか? この疑問に対して、先に紹介したTRJさんは比較対象として、『2001年宇宙の旅』の月面着陸シーを挙げている。誰も異論は無いだろうが、このシーンはTMPのドッキング・シーンに比べて遙かに動きが少なく、展開がのろい。しかしこのシーンを無駄だと言う人は見掛けない。それはこのシーンが現実の宇宙旅行の描写に極めて近く、当時はそれだけでも驚くべきことだったからだ(『2001年』の公開は1968年で、これはアポロ11号の月面着陸の前年だ)。そしてそれは非常に美しく、単に観ているだけでも価値は有る。リアリズムと、絵画的な美しさ———この2つの為には、大画面にゆっくりとした時間を流れさせることがどうしても必要だったのだ。
2001: A SPACE ODYSSEY - The Landing -
『2001年』は後でまた取り上げるが、TMPが比較されるべきなのはこの2年前に公開された『スター・ウォーズ』ではなく、『2001年』の方なのだ。『2001年』に比べたら、TMPは寧ろ展開がずっと速いとすら言える。後のST映画はアクション色の強いものが多いが、ロッデンベリーが作りたかったのはアクション映画ではない。STシリーズでは寧ろアクションが可能なシーンであっても、わざわざアクション性を回避する様な演出が採られたりもしている。ロッデンベリーは単に圧倒的な映像美で観客をアッと言わせたかった訳ではない、映像を通じて、人々の知性や品性に訴えたかったのだ。
レナード・ニモイが『スタートレック ディスカバリー』の何が問題なのかを説明
そしてまた、「1979年」と云う、公開当時の状況を思い出そう。当時既に米国の産業資本主義には翳りが出始めていたが、新自由主義が本格的に米国に上陸して米国のモノ作り産業を破壊し始めるのはこの後の話だ。NASAの予算の予算は既に大幅に減らされていたものの、20世紀以内にヴォイジャー6号が飛ばされると云うこの映画の設定が説得力を持つ程には、宇宙開発への人々の関心は高かった。人々の生活を向上させてくれる様々なインフラや、人々をより高く、遠く運んでくれる具体的で物理的なモノに対する信頼は、まだ人々の間からは失われてはいなかった。これは子供達が将来希望する職業を訊かれて一番になりたいものが「ユーチューバー」などと答え始めるよりずっと前の時代であって、実際に人々の役に立つモノやサーヴィスを作り出すことこそが自分達の繁栄の基礎であると云う、健全な経済発展に対する信仰が失われる前の時代だ。長引くヴェトナム/インドシナ侵略を背景に、様々な反吐の出る様な偽善や巨大犯罪を繰り返しつつも、そこには「世界中の人々が憧れるアメリカ」「豊かで、時代を前に進ませるアメリカ」と云うイメージを裏付けてくれる現実が確かにまだ残っていた。「過ちを繰り返しても、そこから学んで私達はまだ先へ進める」と云う希望は、決して完全に空虚なものではなかった。現実に目で見て手で触れることの出来るものを手掛かりにして、人類は貧困や貪欲から解放された世界へ向かうことが出来ると云う楽観主義は、今程死に絶えてはいなかったのだ。TMPのエンタープライズとの再会シーンには、そうした人類の世界をより良くし、より広げてくれる具体的で物理的なモノに対する信頼が溢れている。明るい未来とは宙からパッと降って来る訳ではない。それは大勢の人々が懸命に努力して協力して、コツコツ創り上げて行って初めて見られるものだ。STシリーズは破壊ではなく建設に捧げられた讃歌なのだ。

TMPのテーマ
TMPのテーマは成長だ。メインの登場人物と言える2人、カークとスポックは、登場時にそれぞれ精神的危機を迎えている。カークは提督に昇進したものの、「中年の危機」を迎えて人生の行き先を見失い、船を指揮していた頃が忘れられずに、危機を利用してエンタープライズの船長への返り咲きを試みる。他方スポックは宇宙艦隊を退いて、ヴァルカン人の悟りとも言うべき「コリナー」の境地に達しようと修行しているが、資格を得られる寸前、宇宙からのヴィジャーの呼び掛けを耳にして感情を超越した境地に安住することに躊躇いを覚え、確信の無い儘エンタープライズに戻って、ヴィジャーが自分の求めている答えを持っているかどうか確かめようとする。両者共にTOSでは自信に満ちて行動していたのに、今では深刻なアイデンティティーの危機を迎えて「自分はこれでいいのか」と自問している。
そこへ絡んで来るのが3人目の主人公、ヴィジャーだ。ヴィジャーはポスターでは探査機が模倣したアイリア中尉の形態によって表現されているが、これがこの映画の3人の主人公で、この作品は3人の精神的成長と進化を描いている。

地球を脅かす謎の巨大物体、ヴィジャーの目的とその正体は、物語が進むにつれて徐々に明らかになって行くのだが、ヴィジャーと精神融合を果たしてその内面を理解したスポックの説明に拠れば、ヴィジャーは「子供」だ。「進化し、学び、探し求め、本能的に求めている。」「それは自分が求めていることは知っているが、我々の多くと同様、何を求めているのかは分かっていない。」つまりヴィジャーはカークやスポックと同様、先へ進みたいとは思っているが、この先どう進んで行けば分からなくて迷っている、一種の求道者なのだ。彼等の道行きは「神を探し求めること」と言い換えても良い。実際、製作の過程で「神」の話題は製作陣の間でも話題になり、所謂「バイブル・ベルト」の観客層への配慮をどうするかと云った議論が行われている。
Star Trek: The Motion Picture (6/9) Movie CLIP - VGER is a Child (1979) HD
スポックはヴィジャーこそが自分の求める答えを持っているかも知れないと思ってヴィジャーとの精神融合を果たすのだが、その結果に彼は大いに失望させられることになる。ヴィジャーもまた彼同様、道に迷った子羊に過ぎなかった。彼の台詞を抜粋しよう:
スポック「しかし、これ程までに純粋な論理でありながら、ヴィジャーは不毛で、冷たい———神秘も、美も無い。私は知っていた筈なのに。」
カーク「知っていた? 何をだ? 何を知っていた筈なんだ?」
スポック「(カークの手を握り)この、シンプルな感覚が、ヴィジャーには理解出来ない。意味も、希望も無い。そして———ジム———答えも無いんだ。それは問い続けている、『自分は只これだけの存在か? これ以上何も無いのか?」
Dr. Chapel and Dr. McCoy Examining Mr. Spock In Sickbay
クライマックスでの別の会話を抜き出してみよう:
スポック「ヴィジャーは進化を必要としている。その知識がこの宇宙の限界に達したので、進化しなければならないのだ。それが神に求めているのは、ドクター、質問に対する答えだ、『これ以上は何も無いのか?』」
マッコイ「宇宙以上の何が有るって云うんだ、スポック?」
デッカー「別の次元。高次元の存在」
スポック「その存在を論理的に証明することは出来ない。従って、ヴィジャーはそれを信じることが出来ずにいる。」
カーク「進化する為に必要なのは………人間の資質だ。論理を跳び越える我々の能力だ。」
デッカー「創造主とひとつになることで、それが可能になるかも知れない。」
Star Trek V'ger parte final
ヴィジャーに失望したことで、スポックは自分の人間的な側面を受け入れることを学び、「成熟」する(これはディレクターズ・カットで元に戻された、ヴィジャーと自分を重ねて泣くシーンで一層明らかになる)。他方、ヴィジャーは「創造主」たる人類の一人と物理的に融合することで、新たな次元の存在へと「進化」する。そしてカークは新たな生命の誕生を目の当たりにすることで、人類には、そして自分には、まだまだ大きな可能性が開かれていることを確信する。自らを成長させることを切望していた3人の主人公達は、それぞれ自分なりの仕方で成長を遂げるのだ。そしてそれが最終的には、ラストシーンでの、人類全体に向けた感動的なメッセージに繋がる。TMPのラストシーンで、エンタープライズがワープした後で、画面一杯に黒字に独特の白抜きフォントによる次の様なメッセージが表示される:
「人類の冒険は始まったばかりである(THE HUMAN ADVENTURE IS JUST BEGINNIG)」。

これにはもう少し長いヴァージョンの言葉もファン達の間で出回っていて、こんなものだ:
「何もかもが終わった訳じゃない。何もかも、まだ生み出され(invent)てはいない。人類の冒険は始まったばかりなのだ。」
私はこれが、これこそが、STシリーズの最も重要なメッセージだろうと思う。少なくとも、ジーン・ロッデンベリーにとってはそうだった筈だ。人類には希望を持つべき明日が開かれている、人類はより進歩し成熟し、多様性を包摂してより豊かで平和な社会を築くことが出来る。それは偉大な成長への讃歌なのだ。
再び、『2001年』との比較
人類進化を描いた映画として最も有名なのは、やはり先に挙げた『2001年宇宙の旅』だろう。だが『2001年』のボーマンは最終的に「スター・チャイルド」へと進化するものの、それが何を意味するのかは観客の解釈に委ねられていて、具体的にどんな方向性を示したいのかははっきりしていない。
「進化」と「進歩」は、往々にして同義であるかの様に語られるが、厳密に言えば違う。「進歩」とは現在の人類の価値観を未来に投影した言葉であって、今の人類から見て「より良いもの」へと向かうことを指す。他方、「進化」とは変化する環境に対する適応であって、その変化が現在の人類の価値観からみて良いものであるとは限らない。それはショッキングで忌まわしいものかも知れないし、悍ましく不可解なものかも知れないし、汚らわしく嘆かわしいものであるかも知れない。『2001年』に於ける「進化」には、そうした得体の知れない未知の要素が充満していて、「スター・チャイルド」への進化が今の人類から見て望ましいものに映るとは限らない。
映画で類人猿がモノリスに触れた後、彼等が獲得した能力は何だったろうか。より効率的な破壊と殺戮だ。それは確かに偉大な人類文明の基礎を作ったのかも知れないが、それは類人猿から見て本当に望ましい変化だったのだろうか。『2001年』には、そうした未知の変化に対する恐怖の通奏低音が最後まで付いて回っている。

他方、STはどうだろうか。TMPの、エンタープライズがヴィジャーの雲の中に突入して行くシーンを、ボーマンが「スター・ゲイト」へ突入して行くシーンと見比べてみると良い。両者とも非常にテンポがのろく、話は一向に進まない。今の様に何でもかんでもCGで合成してしまう時代と違って、両者とも当時のアナログSFX技術の粋を凝らした贅沢な映像美が展開されているが、これらは今見ても全く色褪せておらず、この美しさだけでも観ているに値する(「話が進まないから」とカットするなど以ての外だ)。『2001年』の方はリゲティの不安を掻き立てる前衛的な現代音楽を流しているのに対して、TMPが使っているゴールドスミスの曲は、不定形だがそれでも一定度のメロディ・ライン残している。それは未知のものに対する不安と畏怖の念で満ちてはいるが、超巨大なヴィジャーに対して余りにも卑小な人類が、それに一方的に圧倒されて押し潰されるのではなく、どう仕様も無く魅せられている様が描かれている。抽象度の高い「スター・ゲイト」に比べた時のヴィジャーの具体的な物理的巨大さを見てみると良い。少なくともそれは人間の知覚によって捉えることが可能なものであり、古典的な美と崇高さの結合を思い起こさせるものだ。それは恐ろしいが、理解可能性の余地を残したものであって、何か素晴らしいものであるかも知れないと云う潜在的な期待を孕んでいる(エンタープライズのブリッジ・クルーは全員、ヴィジャーの雲内部の光景に魅せられているが、身を乗り出してもっとよく見ようとしているのがアイリアであることが予兆的だ。彼女はこの後、ヴィジャーの探査機にデータ化されることになる)。
Additional Scenes V'ger Flyover
2001: A Space Odyssey - Stargate Sequence (Movie Clip)
「宇宙服のヘルメットに外界の光景が映し出される」と云うのは、見る者とその人が見る光景を同時に一枚の映像に落とし込む、映画でしか出来ない素晴らしい映像表現だが、上記の『2001年』のボーマンは、一方的な衝撃に揺さぶられ、その存在の内奥まで破壊され、根本的なアイデンティティを喪失させられて、最後には瞬きする度に色が変わる瞳だけが描写される。他方、ヴィジャーの深奥にスポックが突入するシーンでは、スポックは冷静に周囲の状況を観察し、記録し、自分の推測を口にする。彼が目にするのは深遠だが理解可能な世界であり、驚異的ではあるが人類にも何時かは手が届くかも知れないことを予感させる宇宙だ。彼が直面しているのは「全く訳の分からない恐ろしい未知のもの」ではない。それは解明されるのを待っている謎であり、圧倒的な巨大な美であり、人間の主体的な問いに対する答えなのだ。そしてそれは同時に、ヴィジャーがそれまでの旅で見てきたものの記録でもある。ここでは機械ではあるが別の宇宙飛行士の視点から見た宇宙の驚異の数々、ヴィジャーの成長の記録が、スポックと云う別の求道者の旅と二重映しになっている。『2001年』の訳の分からなさに比べて、TMPで描かれる成長物語は、遙かに平易で親しみ易い。それはより手の届き易い進化(進歩)の姿を描き出している。TMPは『2001年』を通俗化した作品だと言えなくもない。だが未来に対する両者のヴィジョンは極めて異なったものだ。『2001年』は言ってしまえば高踏趣味のエリート向けの作品だが、TMPは万人に開かれたものであることを期待している。
Mr. Spock Attempts Mind Meld With V'ger
TMPのラストシーンを見てみよう。エンタープライズの新たな進路を訊かれて、カークは窓の外の宇宙を魅せられた様に見詰めて、独り言の様にこう呟く、「宇宙へ………(Out there...)」。そしてふとナヴィゲイターの視線に気が付いたのか気を取り直して真面目な顔を作り直して、ぶっきらぼうに手を振って命じる、「あっちだ(That away)」。そして指揮官席に身を沈め、静かに微笑む。確かな目的地も定めず、「細かいことは、まぁ後で考えよう」と、とにかく前に進もうとする陽気な無謀さは、カークを演じるウィリアム・シャトナーでなければ出せなかったであろう、粋で心浮き立つ雰囲気に溢れている。そしてエンタープライズがワープした後に広がる宇宙の虚空に、温かみを感じるフォントで、「人類の冒険は始まったばかりである」のメッセージ。「スター・チャイルド」が独り地球を見下ろして黙考する『2001年』と比べて何たる違いだろうか。それは観客に向かって、「さぁ、君も一緒に来いよ」と親しげに手を差し伸べている。
Star Trek: The Motion Picture (9/9) Movie CLIP - Thattaway (1979) HD
スター・トレックの基本理念とその堕落
STシリーズはスター・ウォーズ(SW)シリーズとよく比較されるが、両者はジャンルが違う。SWは神話だが、STは近未来SFであり、一種のユートピア・フィクションだ。それは人々が、未来はこうあって欲しいと望む姿、人々が憧れる未来社会、夢物語とは知りつつも、自分達はどんな方向に向かって進むべきなのか、或いは進みたいのかを視聴者に再確認させてくれる物語だ。ジーン・ロッデンベリー自身の言葉を引用しよう:
「『スター・トレック』は、人間の或る基本的な欲求を代弁するものです。つまり、明日があること、大きな閃光と爆弾で全てが終わる訳ではないこと、人類は進歩していること、人間として誇れるものを持っていること。いいえ、古代の宇宙飛行士がピラミッドを建てたのではありません、人間が建てたのです。何故なら彼等は賢くてよく働くからです。スター・トレックとはそう云うものについての話です。」

別の言葉を引用しよう:
「『スター・トレック』は、考え方の違いや生命形態の違いを許容するだけでなく、そこに特別な喜びを感じる様になった暁には、人類は成熟し知恵を得ることが出来るだろう、と言おうとする試みなのです。………若し私達がこの惑星でこうした小さな違いを実際に楽しむこと、人類同士の間の小さな違いに肯定的な喜びを感じることをを学ぶことが出来なければ、私達は宇宙に出て、そこに殆ど確実に存在しているであろう多様性に遭遇する資格は無いのです。」

それは成熟と知恵の獲得に関する物語であり、世界の多様性を豊穣性と感じる感性を育てる為のメッセージを伝えるものだ。変化を恐れず、心を開き、明日の為に力を合わせて協力する………そうした極く真っ当な健全さを志向する、素朴と言っても良い明るい理想主義が、このシリーズには込められている。ここまで楽天的な未来観を一貫して真実続け、それを娯楽物語の形にして人々に伝えることが出来る人物と云うのは、いざ探してみると非常に限られて来る。日本で言うと、例えば藤子・F・不二雄だろうか。彼の主人公の描き方は、視聴者が憧れる様なロッデンベリーの主人公と違って、欠点だらけで、人よりも劣っていることが多い。だがそれにも関わらず、彼等は様々な経験を通して成長し続ける。『劇画・オバQ』の様に、変わってしまった現実を前にして古い冒険衝動に区切りを付けることも有るが、彼の描く主人公達の多くは、困難を前にして新たな可能性に賭ける方を選択する。アーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』に対するアンチテーゼの様なタイトルの『老年期の終わり』の、人類全体が進歩することを止めてしまった様な未来に於てすら、そこには「たとえそれがどんなにかすかな光でも………ぼくは行く!!」と、明日の可能性を信じて無謀な挑戦を試みると言い切る青年が残っている。パーマンが留学の為に遠い星へ旅立ってしまっても、パー子(星野スミレ)は須羽満夫(ミツ夫。「スーパーマン」に引っ掛けている)が帰って来るのを、何と大人になっても信じて待ち続けている。小学生の時の片想いの相手を一途に想い続けるなど、現実では先ず有り得ないことだが、そんなことは構わないのだ。これは「こうあって欲しい」と云うユメを描いたフィクションだからだ。現実には挫折や喪失が付き物だ。だが惨めな現実を惨めな儘描き出すことだけが、クリエイターの使命なのだろうか? 現実では起こり得ない、視聴者や読者が「こうあって欲しい」と思いたくなる様な世界を描きだすこともまた、立派なひとつの創作作業だろう。挫折や喪失の先にも、再会や新たな可能性が待ち受けているかも知れない。我々は何を根拠にするのでもない、単に明日はより明るくなると信じてみても良いのだ………そうした楽観主義を、特に若い世代に向けて伝えることが出来ると云うことは、実に稀有な才能ではないだろうかと、私は最近よく思う。



TOSの成功を受けたジーン・ロッデンベリーは、ファンからの熱い要請に応えてTV用の続編「フェーズ2」を製作しようとしたが難航し、結果的にその企画が紆余曲折を経て劇場版第1作が作られることになった(例えば、ミスター・スポックの代わりに感情を理解出来ないヴァルカン人が登場する予定だったが、このキャストに予定されていた俳優が、宇宙ステーション・エプシロン9の司令官として登場している。この役が恐らくTNGのデータの雛形だろう)。それはロッデンベリーが、TOSで本当は何をやりたかったのか、力不足により何を語れなかったのかを改めて確認する作業であり、TOSを通じて語り切れなかった中心メッセージを視聴者に伝える為の企画だった。だがそれは各方面の思惑や利害が衝突する中で、大変な難産のプロセスを経て実現されることになった。
Star Trek - The Motion Picture -Trekkiechannel documentary part 1
TMPの成功によってSTが儲けられるフランチャイズであることを確認したパラマウントは、不評の主因と考えられたロッデンベリーを、以降の映画作品から外してしまう。それによりSTの基本路線はそれ以降、大きく変更を受けることになる。違いは例えば宇宙艦隊の制服の変更を見れば一目瞭然で、元々は宇宙艦隊の船は戦争の船ではなく平和の船であることを強調する為に、制服も寛いだ感じのデザインのものが採用されていた。それがあからさまにより軍服らしいデザインに変更され、確かにスクリーン映えのするカッコ良さは増したものの、「エンタープライズは軍艦ではない」と云う理念が薄れてしまう結果になった。ストーリーや設定の方もそれに合わせて徐々に変化して行き、ロッデンベリーが関与したTVのTNGシリーズが始まって、一旦は基本に立ち返ったものの、ロッデンベリーの死後はまた再び軍事色が強まって行って、2000年代になると完全に「宇宙艦隊は基本的に軍事組織」と云うイメージがメインになってしまった。これはロッデンベリーのオリジナルの理念からの著しい逸脱で、多くのファンがこれを含めて、ロッデンベリーの遺産を軒並み台無しにしまくっている新世代の製作陣を非難している。

Did Star Trek Discovery Betray The Vision of Gene Roddenberry ?
残念ながら、ロッデンベリーは死後の後継者には恵まれなかった。彼は本物の理想家だったが、彼の仕事を引き継いだ次世代の製作陣は理念無きビジネスマン達だった。ポスト・ロッデンベリー時代に作られた「ロッデンベリーらしい」傑作の数々は、製作陣「のお陰」ではなく、製作陣「にも関わらず」実現されたと指摘する評者も居る。
Berman Trek | Renegade Cut
『ディスカバリー』以降のプロデューサーのアレックス・カーツマンに至っては、子供の頃は「余りに哲学的過ぎて」STは好きではなかったと公言する始末で、オリジナルとの差異化を図る余りに、安易な暴力描写や扇情的な傾向をどぎついまでに推し進めて、STの人気の理由だった根本的な楽観主義、誰もが憧れる未来像を完全に放棄してしまった。『劇画・オバQ』の設定を更に悲惨にして『オバケのQ太郎』のリメイクをやっている様なもので、これには多くのオールド・ファンが「我々のヒーローは一体どうなってしまったんだ?」と嘆いている。しかもあちこちで旧シリーズとの辻褄も合っていないものだから、最早STシリーズはパラレルワールドに舞台を移してしまったかの様だ(劇場版の新シリーズは文字通りのパラレルワールドに舞台を設定している)。この傾向は他の映画やTVのヒーロー達のリメイクや続編についても同様で、柳の下のどじょうを狙って金の亡者達が次々と過去のヒット作をフランチャイズ化したがるものの、彼等はそれらのヒーローをヒーローたらしめた要因を全く理解していない為、表面的に模倣するばかりで、「私達のヒーローが台無しにされてしまった」と云う声を後を絶たない。それらについて詳しくはhttp://kawamomomurmur.blog.fc2.com/blog-entry-1115.html" target="_blank" title="別のスレッド">別のスレッドに多少纏めてあるので、興味の有る方はそちらを参照されたい。
The Difference Between Kurtzman and Gene Roddenberry . Old Star Trek vs NuTrek
尤も公平を期しておくと、ロッデンベリーが定めた基本理念から逸脱することによってヒットしたり、素晴らしい話が生まれたりしたことも少なくない。実際、ロッデンベリーらしさがよく表れされたTMPを、多くのファンが「退屈」と評している。まぁ私も正直に言うと、体のラインがくっきり出る様な制服のデザインを見た時には「23/24世紀では宇宙船ではパジャマを着るのか?」と、最初は戸惑いを隠せなかった。政治や軍事、紛争や流血沙汰の話はファンの間でも若干評価が分かれるらしく、「新たな宇宙の探求」と云うテーマはどうなったんだ、と云う批判も有るらしいが、軍事色の強い劇場版第2作『カーンの逆襲』を、多くのファンは劇場版の最高傑作と見做している。だがファン達の最近の批判を見る限り、STにとって最も肝心なのは、その楽観主義、「未来はきっと明るい」「人類は成長出来る」と云うメッセージであると、多くのファンが考えている様だ。人類の悲惨さや惨めさや残虐さに焦点を当てるのではなく、人類の肯定的な面、人類が誇れる様な点、憧れる点、希望を持てる点にこそ焦点を当て、素晴らしい物語を紡ぐこと………それが出来ていないST作品は、最早STを名乗るのに値しないと考えるファンは多い。私もその一人だ。
10 Times Gene Roddenberry Hated Star Trek
結び
別の原稿の序でに、一寸息抜きに気分転換しようと思って書き始めたら、思いの外長くなってしまた。まぁ思い付く儘に色々書いては来たが、とにかく最近のST作品は人間の醜い点や絶望に焦点を当て過ぎる。私が好きなST作品は、人類の肯定的な面や希望にこそ焦点を当てるものだ。TMPはその点で、多少の欠点は有りつつも、最も完成度の高いロッデンベリー的世界観を表現している。世界史的な地政学的大変動が起きている現在、「理想とする未来像」「何時かはこうありたいと望む世界像」が想像出来ないことは、単なる娯楽や時間潰し以上の、遙かに重要な意味を持っているのではないかと云う危機感を最近私は募らせている。想像力の枯渇は、人間のアイデンティティーや社会形成の根幹に関わる問題だ。人間は仮令夢物語であっても、想像出来ないものは追求出来ない。今は現実離れしていたとしても、現実をどの方向に進めるべきかを見定める参照枠や基準点がフィクションの形で良いから存在しないことには、人類は先に進み様が無い。自分はどんな存在になりたいのか、どんな社会を作りたいのかを思い描けないことには、目の前の腐って醜い現実と妥協することばかりしか考えられなくなる。現実に於て妥協は勿論必要だ。だが妥協ばかりでは、そもそも何の為に何を妥協させているのかすら見えなくなってしまう。時々は目の前の現実から一歩身を引いて、想像力を自由に遊ばせてやることが非常に重要だ。夢は記憶の整理だと云う説が有るらしいが、それと同じで、時には思考を昼間の現実から解放してやらないと、精神はその内息が詰まって死んでしまう。そして自分が死んだことにすら気付けなくなる。何も難しく考える必要は無い、夢の方向性なんかは適当で良い。「あっちだ」で構わないのだ。肝心なのは、大人になっても世界へ向かって自分を開放しようとする欲求を忘れないこと、宇宙の神秘と驚異と美しさに対して、シャイになり過ぎないこと、そしてそれによって「貧困も貪欲も無い世界っていいよね!」と言い放つ図々しさを自分の中に育ててやることだ。折角人類の一員としてこの宇宙の片隅に生を享けたのに、憧れ無くして何が人生だろうか?
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