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一部外者から見た鳥山明の変容とその時代

 2024/03/01、漫画家・デザイナーの鳥山明氏が死亡した。68歳だった。このニュースに日本のみならず世界の各地から彼の死を悼む声が上がっていて騒がしいので、私もこの機会に一寸気分を変えて彼に関連する話をしてみたいと思う。

 最初に断っておくと、私は鳥山氏のファンではない。寧ろ苦手としていた方なので、「早過ぎる天才の死を悼む」的な、ファン同士で共感を得る文章を読みたい読者はこの先は読まない方がいいかも知れない(寧ろ不快感すら覚えるかも知れない)。私は単に彼の作品を手掛かりにして、『ドラゴンボール(以下DB)』が大流行した時代の潮流を不完全ながら振り返ってみたいだけなので、その点は最初にお断りしておく。

 私の書棚に彼の本は1冊も無い。私がまともに読んだことが有るのは『Dr.スランプ(以下DS)』だけで、DBも最初の数巻には目を通した記憶が有るが、私の好みには合わないのでそれ以降はほったらかしだった。DBのアニメ版も観ていなかったし、私は全くゲームもやらないしで、それ以降のDBシリーズやゲームデザイン等についての彼の仕事についての私の知識は殆ど全てが間接的なものだ。従って以下の文章は彼の作品に関する正面からの批評などではないので、鳥山作品の熱心な読者から見れば不正確な点や偏った点が見付かるかも知れない。私はアンチではないがファンでもない。社会現象としての鳥山ブームに関心が有るだけだ。これは飽く迄ファンではない一部外者からの視点に過ぎない。

 【これはファンによるファン向けの文章ではありません】。いいですか、警告はしましたぞ。

 彼のデビュー作であり出世作であるDSは宮台真司的な表現を借りれば、広い意味で「終わりなき日常を生きる」タイプの作品だった。基本構造が決して変わらない日常を舞台とした基本的に1話読切形式のこのシリーズものは、所謂思春期の「不安の立像」的な要素は希薄なので、単に児童向けの日常ものと括ることも可能だろうが、オタク的なガジェットに対する嗜好や、内輪受け的な性格の強いギャグ(同時代の『オレたちひょうきん族』的)等は明らかに二次創作に慣れた十代以上のオタク世代の感性の産物であって、連載開始当時の作者もまだ二十代の若者であったことを考えれば、これは広い意味でのオタク文化の範疇に入れて考えても差し支え無いのではないかと思う。
 
 DBはこの読切形式を長編物語形式に直し、個々のエピソードを或る程度独立して楽しむことも出来るものの、基本的には息の長い読者を想定した構成になっている。私はこの作品に限らず、当時のジャンプ作品に特に多かった脳筋系の諸作品が全般的に苦手で、主人公やその仲間が何やら強敵に遭遇して何やかや有って大抵のことは筋肉と根性で何とか乗り越える、と云うパターンの物語は退屈でしかなかったので、私は最初の方しかチェックしていなかったのだが、その後シリーズがいよいよ筋肉志向を強めて行くにつれて、巷の人気は上がって行った様だったが、私は益々関心を失って行った(これは鳥山氏本人とは直接関係無いが、アニメ版DBの主題歌の「頭カラッポの方が夢詰め込める」と云う歌詞を、私は虫唾の走る程嫌っていた。巷には頭もカラッポなら夢も無い大馬鹿野郎共が溢れ返っているからだ。この歌詞を聞くと私は今でも、新入社員に座禅を組ませるブラック企業なんかを連想してしまう)。

 DBに限らず、当時の筋肉系の漫画やアニメは本当に何かに取り憑かれた様に戦いを繰り返していた。敵を倒して、もっと強い敵が現れたら修行するなり何かのアイテムを手に入れるなりしてパワーアップしてまた倒して、更に強い敵が現れたら更にパワーアップしてまた倒して、次の強敵が現れたら………と云う具合に延々「敵」を求めては強くなって、主人公はどんどん常人離れして行って、基本的に筋肉と根性で倒す、と云うパターンの繰り返しは、当時のバブル絶頂期やその後のバブル崩壊機のこの国の狂気を反映している様で、私は寧ろ怖かった。この人達は一体何を求めてこんなに際限無く戦っているのだろう、とよく不思議に思っていたものだ。当時の熱狂的なDBブームは、社会的中毒現象の様に私の目には映っていた。

 後から振り返れば、DSで鳥山氏の描いていたキャラクターやストーリーから推測すれば、こうした砂地獄の様な展開になるのは予想出来たことだったとも言える。基本的に彼はキャラクターの精神的成長を描かない。描けない、と言った方が良いのかも知れない。主人公であるアラレちゃんはロボットであり、そもそも物理的に成長しない。彼女を発明した則巻博士は、鉄腕アトムを産んだ天馬博士の様に、何故ロボットの背が伸びないのか、などと云う不合理な悩みから愛情を失ったりはしない(実の我が子を失った代償として身代わりに作った人工の子供に対して身勝手で不合理な期待を抱き、その子自身にはどう仕様も無いことで勝手に失望して愛情を失うのだから、彼の振舞いは親としては理不尽極まり無いのだが、それ故に人間的な矛盾と苦悩に溢れている)。舞台となるペンギン村でも一応時は流れて、キャラクター同士の関係性が変わったりすることも有るが、基本的に中身は一緒だ。関係性が変わるドラマは時々付け足しの様に散発的に描かれるだけで、決してそれがメインではない。手塚治虫の漫画は短編であってもビルドゥングス・ロマン(教養小説、人格陶冶物語)だが、DSの様なタイプの作品のキャラクターは決してビルドゥングスしたりしない。舞台の変化やフェーズの移行は有るが、キャラクターの目的の有る内発的な成長は起こらない。時間の停止したペンギン村と云う遊具場で延々と傷付かずに戯れ続ける―――それがDSの魅力だ。それが悪いと言っている訳ではない。逆に言えば手塚治虫には終わり無き日常タイプの漫画は描けなかったろうし、それぞれのタイプの作品にはそれぞれの魅力が有る。

 少し抽象的かも知れないので、映画の話で補足してみよう。ダブル伝記『黒澤明と早坂文雄』を書いた西村雄一郎は、最初期に自分の作風を模索していた天才、黒澤明は、もう一人の天才、作曲家の早坂文雄と出会うことでその才能を全面的に開花させる様になったが、早坂が41歳の若さで早世してからは、それまでの黒澤映画のダイナミズムを支えていた彼の中の対立軸が失われてしまったと分析している。

 早坂とコンビを組んでいた頃の黒澤映画の代表的登場人物である、『七人の侍』の菊千代と、早坂亡き後の黒澤映画の代表的登場人物である、『用心棒』と『椿三十郎』の三十郎を比較してみよう。菊千代は初登場シーンから、何かを真剣に探し求めている人物であることが示唆されている。彼は未熟で、その未熟さを痛感している登場人物として描かれている。百姓の出身にしては背が高いし荒削りな自己流の強さは有るものの、観客の関心を集めるのは彼の腕っ節の強さでない、彼が己の未熟さや世の中の儘ならぬことに直面した後、どう生きるかを選択するかだ。他方、三十郎は「不惑の年」に近い、最初から完成した姿で登場しており、これ以上内面的な成長の余地は無い。彼は「どう生きるべきか」などと青臭い問題に頭を悩ませたりはしない。彼が頭を悩ませるのは目の前の具体的な困難をどう乗り越えるかであり、自らの生き様についてではない。観客が関心を持つのは彼の内面の成長ではなく、外部に現れた彼の言動の方だ。棒っ切れを放り投げて適当に行き先を決める彼の態度は、最早最初期の黒澤映画(『姿三十郎』や『わが青春に悔いなし』等)ではもっとギラギラと前面に押し出されていた求道者のそれではない。早坂期に作られた『生きる』に登場する小役人は、死を目前に控えてさえも、自分は残された人生をどう生きるべきなのかに迷い、絶望に駆られて街を彷徨う。だが早坂後の黒澤映画からはこうした模索する姿勢は影を潜め、更に海外進出に失敗して自殺未遂の後にカラー作品に移行する様になると、それまでの力動的な特徴はすっかり後退して、まるで静止した風景画の様な作風に移行して行く。

 これと同じで、DSにはキャラクターの内面的な弁証法的成長を促す対立軸が存在しない。従ってこの同じ作者が長い物語の中でキャラクターの何等かの形での成長を描こうとするならば、内面ではなく外部にその軸を求めざるを得ない。一番手っ取り早いのが「敵」の存在だ。先ず怪獣が登場しなければウルトラマンの出番が無い様に、ヒーローをヒーローとして活躍させる為には、相応しい敵役をあてがってやるのが一番手軽だし、確実だ。単なる「課題」では弱い。ミステリ分野に於て窃盗や詐欺事件より殺人事件の方が謎解きの対象として好まれる様に、より多くの読者を獲得したければ、より過激な対立軸を用意してやった方が目立つし話題性が有る。何より解り易いので、異なる文化圏にも輸出が容易で商業的にも旨みが有る。当時のバブルやその残滓の狂乱の風潮の中では、より強い敵、もっと手強くてそう簡単には倒せない敵を次々持って来るのは、読者を減らさずにストーリーを進める確実な方法としては自然な発想だったのだろう。これは「敵」を必要とするあらゆるシリーズもののパターンとして今では全く珍しいことではなくなってしまったが、当時はここまでシリーズを通して敵のエスカレーションに執着する作品はそれ程多くなかった筈だ。最終回でゼットンやらパンドンやらが出てきて主人公がピンチに陥る展開なんかは定番だが、DBの様にシリーズを通してその強化圧力が持続するシリーズは、鳥山氏についてはDS時代の印象が強かった私の様な非ファンにとってはひたすら異質で異様なものに映った。これらのキャラクター達の成長にはそれ自体としての目的が無い。出て来た「敵」に対応して場当たり的に理由や動機がくっ付けられているだけで、筋肉と根性は成長するかも知れないが、精神的な深みは無い。成長はストーリーを先に進める為の推進力として後付けで添えられたものに過ぎないのだ。

 だが、目的無き無際限の成長に対する恐怖は、恐らくDBに熱狂した多くの青少年達の心の底にも蟠っていた筈であって、でなければバブル崩壊後に『新世紀エヴァンゲリオン』(特にその旧劇場版)があれだけヒットした筈が無い。あれはDBの様な作品が意図的に無視して来た「ココロのスキマ」を埋めるタイプの作品だった。

 恐らくこの展開は、鳥山氏当人にとっても異質なものだったのではないか、と私は推測する。先に述べた様に私は原作のDBは最初の数巻しか読んでいないし、これは巷に溢れ返っていた断片的な情報を基にした判断でしかないのだが、シリーズが進むにつれて、氏の画風は明らかに固くなって行くのは私の様な部外者にもはっきりと判った。それがイイ、あの頃が彼の絶頂期だ、どんどん進化している、などと持て囃す人も多い様だが、キャラクターの表情がもっと柔らかく自由で多様だった時代の鳥山作品を知っている身からすると、キャラクターの表情や質感がどんどん固くなって行き、笑顔が如何にも無理やり作った、判で押した様なものに変わって行く光景を見ると、この人はこんなものを描いていて果たして楽しいのだろうか、と思わずにはいられなかった。単なる加齢による筆の衰え、と解釈することも出来るが、それだけではないだろう。


 DSの頃の絵柄は、思わず子供が真似して描きたくなるような柔らかい線に満ちていた。例えば幼さや可愛らしさ、野放図さを一筆で表した口元の表現などは、よくこんなものを思い付いたなぁと私でも感心する。だがDBのキャラクター達は頭身が高くなるにつれて、こうした定型からの「崩し」がどんどん消え失せて行った。初期のもっと自由奔放な感じが失われて行って、硬直して型に嵌った造形が。




 鳥山氏と同じく集英社の同じくジャンプ系列で2020年から連載中の、伊丹十三的な意味での社会派ドラマ漫画『【推しの子】』では、週刊連載漫画家の自虐的ギャグ発言として、編集者の仕事とは「売れる漫画を作らせる事」と、「売れた漫画を終わらせない事」と云う台詞が出て来る。「こわ………」とか別のキャラクターに繰り返し言わせているので、茶化してはいるが割とマジな発言なのだろう。私は舞台裏の詳しい事情は知らないが、死去の報を受けたファンの間でも、鳥山氏は切りのいいところで連載を終わらせたかったが編集部の圧力によって終わらせて貰えなかった、と云う指摘が上がっているので、この推測は恐らく当たっていると見ても良いだろうと思う(Wiki記事を確認したらやはりそれっぽいことを書いてあった)。DBは無論超大ヒット作なので、編集部はそう簡単には連載終了を許してはくれなかった筈だ。『推しの子』の同じ話では、漫画の週刊連載とは「基本的に人間のやる仕事じゃない」、「脳を週刊用にチューンナップされた兵士がやる仕事」とまで言っているので、10年半に及ぶ連載は、「闘いの漫画を描く気が無くなってしまった」「血圧高めで薄味好きのオジサン」にはさぞかし苦痛だったことだろう。描ける作品と描きたい作品が一致しているのは幸運なことだろうが、そうでない場合はどれだけヒットしていようが関係無いだろう。ファンと云うのは身勝手なもので、勿論理解を寄せてくれる人も多いだろうが(二次創作が広がったお陰か、創作の苦労を知って作者に同情する風潮も強くなった様に思う)、基本的に作者の苦痛など知ったこっちゃ無い。ジャック・ロンドンの半自伝的小説『マーティン・イーデン』の主人公なぞは、自分の作品が自分の望んだ時に売れずに後からヒットしたことに虚しさを覚えて命を絶ってしまう。売れることはいいことばかりではないのだ。



 またこれは原作漫画ではなくアニメ版をかなり断片的に観た感想になってしまうのだが、作者本人の意に反して続けられたであろうDBの不幸に関してもう一点指摘しておくべきは、その反アクション性だ。人間に与えられた肉体の束縛から逃れたいと云うのは古来からの人類の夢だ。その夢の一部を見せてくれる活劇やアクションもののフィクションは、DBの主人公の名前「孫悟空」の由来となった『西遊記』も含めて、昔から大衆に人気が有った。男性なら子供の頃に友達とチャンバラごっこやそれに類する時代時代に応じたヴァージョンの遊びに加わり、体を動かしたことの有る人も多いだろう。だがシリーズが進むにつれてキャラクター達がどんどん人間離れして行くDBでは、「バトル」の内容もどんどん生身の身体感覚から乖離して行く。

 アニメーションに於てこの点の描写に優れている有名どころのクリエイターとしては宮崎駿が挙げられるだろう。彼の作品に登場するキャラクター達は屢々荒唐無稽で生身の人間には到底不可能な動きをする。だがそれは実際の生身の感覚がベースに有るものであって、彼の描くキャラクター達は肉体の桎梏を絵の中ではこんなに軽々と超えられるんだぜと云う楽しさに溢れている。彼の作品は「バトルもの」ではないが、肉体の感覚を研ぎ澄まし、肉体を通じて世界の地平の中に自らの存在を拡大したり切り裂いたり溶け込んだりすると云う点で、そこらのバトルものより遙かに、自由な肉体を感じさせるものだ。

 だがDBはそうではない。「バトル」に於けるキャラクター達の派手な動きは「敵」を痛め付ける為のものであって、当然ながら彼等は生身の肉体の限界を画面の上で超える時、余り楽しそうではない。そしてその動きは、従来のアクションものの様に人間の動作を模したり誇張したりしたと云った体のものではなく、寧ろゲーム画面のアバターの動きに似ている。アバターを動かすのは当然、画面の前で座ってコントローラーを握っているプレイヤーだ。作者の想像力は外を駆け回る肉体ではなく、部屋の中に閉じ籠って座りっ切りの生活を送っている不健康な人間の肉体に基付いている。現在ではこうしたタイプのアクションものは、VFXやアニメ技術の向上によって寧ろ主流派になってしまったが(例:マーヴェル映画、『進撃の巨人』、『鬼滅の刃』等々)、これらはその想像力ベースに着目した場合はアクションものと云うよりは反アクションものと言うべきだろう。当時アバター的アクション描写を広めた作品はDBだけではないが、バブル期の偏執狂的な想像力に従ってこの描写をグローバルなレヴェルでスタンダードにしたと云う点で、DBの果たした役割は恐らく大きいだろう。私達の肉体感覚は日々ドラスティックな形で改変されている。恐らく今の子供達は子供時代の私とはかなり違った身体的アイデンティティを持っていることだろう。私には畏怖と警戒心を持ってそれらを唯遠巻きに想像することしか出来ない。

 DBは、「この先子供達の想像力はどう変容して行ってしまうのだろう」と私が不安を覚えた作品のひとつだ。これがマイナーな作品だったら私もそこまで注意しなかったかも知れないが、国際的に大ヒットしたと云うのが気になる。ヒットした要因は何なのだろうか。結論が出ている訳ではないので言いっ放しで申し訳無いのだが、日々デジタル中毒化を深める今の子供達を見ていると、この懸念が今尚更に拡大中であると思わずにはいられない。
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何故私は展開ののろさなど気にせずに『スター・トレック ザ・モーション・ピクチャー』をこよなく愛するのか

 ジーン・ロッデンベリーが企画した長寿の人気SFフランチャイズ、『スター・トレック(以下ST)』の劇場版第1作、Star Trek: The Motion Picture(以下TMP) の4K版の豪華セットが出ると云うことで、ファン達が静かに湧いている様だ。名匠ロバート・ワイズが監督したこの映画は、多くのトレッキー達からは、その展開の余りののろさに"Motionless Picture"などと揶揄され、歴代のST映画の中でも低い評価を受けている様だが、私は寧ろこれこそがTVシリーズを含めて歴代のSTものの中で最高傑作で、これこそがロッデンベリーの世界観を反映した作品の真骨頂だと考えており、折に触れて何度も観返している。なので、何故この映画の良さが解らない人がこうも多いのか!と嘆いていたものだが、珍しくこの作品を支持している人の動画を見付けたので、この機会にこの映画の良さを宣伝してみたいと思う。

Star Trek The Motion Picture - BetterThan You Remember?




TMPの欠点

 このTRJさんが指摘している通り、この映画は些か編集が荒い。TRJさんが取り上げているのは、ミスター・スポックの重要な心理描写が、劇場公開版からは丸ごとカットされていたと云う点だ。スポックが涙を流して、「ヴィジャーを自分の弟の様に感じる」と言うシーンは、元々のTVシリーズ(TOS)の時からスポックが顕著な精神的成長を遂げたことを示しているのに、この非常に人気の有るキャラクターを理解する上で鍵となるシーンが、1979年の劇場公開時には抜け落ちていたのだ。このシーンも後のディレクターズ・カットに含まれることになった。


 これ以外にも、例えば副長のウィリアム・デッカーと、デルタ人のアイリアとの恋愛関係の描写があっさりし過ぎている点などが私は不満だ(デッカーは後の『ネクスト・ジェネレーション(TNG)』のウィリアム・ライカー副長の雛形で、アイリアは「神秘的な美しい異星人」と云う設定がTNGのカウンセラー・トロイに受け継がれ、デッカーとアイリアの様に、ライカーとトロイも恋仲になっている)。アイリアがヴィジャーのセンサーによってデータ化されて消失し、周囲には恐らく死亡したと見做された際にも、デッカーは最愛の恋人が目の前で死んでしまったと云うのに、僅かに「だから無謀だと言ったのに」と上官のカークへ怒りをぶつけるだけで、強いショックを受けた様には見えない。デッカーとアイリアの精神的結び付きは、クライマックスでデッカーがヴィジャーとの融合を望む動機に繋がるのだが、この結び付きの描写が薄い為に、クライマックスの展開が些か説得力に欠けるものになってしまった。
 

  この辺は編集と云うよりシナリオの欠点かも知れないが。長い上映時間を少しでも短縮する為か、個々の登場人物の内面を掘り下げて行く過程が、若干省略されてしまった嫌いが有るのは否めない。

 また、SFXの完成度に疑問が残る点も不満のひとつ。特殊撮影にはダグラス・トランブルジョン・ダイクストラが起用され、CG時代の前に撮影されたとは思えない、途方も無く美しい異世界を観客の眼前に展開してみせたのだが、当時の撮影技術の限界も有って、この作品のスケールと深みを十分に観客に伝えられていないのではと云う恨みが有った。これは後のディレクターズ・カットによって一部が補完されることになった。
Star Trek: The Motion Picture • Original vs Director's Edition • Comparison




展開がのろい?

 この映画が批判される主な理由は展開ののろさだが、それを象徴するのが、提督に昇進して前線から退いてデスクワークに忙殺されていたであろう主人公のカークが、改装後のエンタープライズ号と再会するシーン。ST世界には転送機と云う便利な移動手段が存在するので、それを使って一瞬で船内に移動することも出来ただろうに、このシーンでは機関長のスコットが彼の為にわざわざシャトルを出して、船体の周りをゆっくり舐める様に移動してドッキングするのだ。この間、何と6分近く。会話は殆ど無い。単に宇宙船の船体をじっくり6分近くも眺めるだけで、話は何も進展しない。まぁ「次に何が起こるのか!」と云うハラハラドキドキ展開を期待している観客であれば、確かにこのシーンはもどかしくて仕方が無いだろう。
STAR TREK - THE MOTION PICTURE - THE DIRECTOR'S EDITION: The Enterprise 2.0 (Remastered to 5K/48fps)

 
 だが、確かに話が進まないこのシーンは、実際それ程見ていて退屈なものなのだろうか? 私などは映画音楽の巨匠、ジェリー・ゴールドスミスのスコアの圧倒的な分厚いサウンドに酔い痴れるだけで、6分などアッと云う間に過ぎてしまう。目先のインパクトだけが持て囃される昨今のハリウッド映画界に於て、ここまでメロディックでテーマ性を持った、長く心に残る音楽を作り出せる作曲家がどれだけ居るだろうか? これは紛れも無く、ハリウッドの新ロマン主義的な伝統の真骨頂を示す傑作だ。そしてこのシリーズの基本理念である楽観主義的な人類讃歌を、この上も無く美事に表現している(↓下の動画は未使用版。実際に使用されたものと聴き比べてみると、そのインパクトの違いが解るだろう)。
ST TMP - The Enterprise - unused original music


 ゴールドスミスがこの映画で使用したメイン・テーマは、やや音を軽くしてTNGのオープニングでも流用されているが、STシリーズが最も明るく輝いていた時代を象徴する、非常に前向きで胸踊らせる冒険を期待させるテーマだ。
Star Trek: The Motion Picture • Main Theme • Jerry Goldsmith

Star Trek: The Next Generation Intro HD


 ゴールドスミスは後のTVシリーズ『ヴォイジャー(VGR)』のメイン・テーマや、劇場版第8作『ファースト・コンタクト』の音楽も担当しており、こちらはややノスタルジックなトーンになり、最盛期は過ぎ去ってしまってそれまでの栄光と繁栄に陰りが出て来た様な趣を与えているが、「人類の明るい未来を信じよう。明日に希望を持とう」と云うメッセージは失われてはいない。音楽に関しては、STはVGRの後の『エンタープライズ』シリーズでオープニングがそれまでのオーケストラから軽い感じのポップスになってしまってから、どんどん印象が薄れて来ている様に思うのだが、ゴールドスミスや、劇場版第2&3作目を担当したジェームズ・ホーナーなどは、このシリーズが持つ楽観的なヒューマニズムと云う基本理念を、音楽でよく表現していたと思う。
Star Trek Voyager - 4k / HD Intro - NeonVisual

Star Trek: First Contact • Main Theme • Jerry Goldsmith


 さてエンタープライズと再会シーンの話に戻ると、ディレクターズ・カットの音声解説に拠ると、このシーンがここまで長々と描写されたのは、小さなTV画面向けのオリジナル・シリーズ(TOS)では予算や技術の制約も有って表現出来なかった、エンタープライズ号の実際の大きさを、劇場の大画面で観客に体感して貰って、「ああ、エンタープライズと云うのは本当はこんなスケールのものだったんだ」と思って貰いたかったからだと云う。確かに、両者を見比べてみれば違いは歴然としていて、TOSのエンタープライズはどうしても「大きな模型」と云う質感が否めないのに対して、TMPのそれは豪華客船の様に自分の船体を照らす様に照明も工夫して、それがどれだけの巨体なのか、重々しい質量感の演出に工夫が凝らされている。単に全体像をパッと見せるだけなら一瞬でも出来るだろうが(最近の、やたらと動きの速いVFXやフルCG作品の様に)、観客のその質量を映像から感じ取って貰うには、やはり急いではダメで、それなりにゆっくりと時間を掛けて船体を見せないと効果は出ない。その意味ではこのシーンの長さにはそれなりの合理的な理由が有る。
 
The Original Star Trek USS Enterprise Filming Model!


 だが、高が「うわー、エンタープライズってでっかいだなぁ」と思って貰うだけの為に、わざわざ6分近い時間を割く必要が本当に有ったのだろうか? この疑問に対して、先に紹介したTRJさんは比較対象として、『2001年宇宙の旅』の月面着陸シーを挙げている。誰も異論は無いだろうが、このシーンはTMPのドッキング・シーンに比べて遙かに動きが少なく、展開がのろい。しかしこのシーンを無駄だと言う人は見掛けない。それはこのシーンが現実の宇宙旅行の描写に極めて近く、当時はそれだけでも驚くべきことだったからだ(『2001年』の公開は1968年で、これはアポロ11号の月面着陸の前年だ)。そしてそれは非常に美しく、単に観ているだけでも価値は有る。リアリズムと、絵画的な美しさ———この2つの為には、大画面にゆっくりとした時間を流れさせることがどうしても必要だったのだ。
2001: A SPACE ODYSSEY - The Landing -


 『2001年』は後でまた取り上げるが、TMPが比較されるべきなのはこの2年前に公開された『スター・ウォーズ』ではなく、『2001年』の方なのだ。『2001年』に比べたら、TMPは寧ろ展開がずっと速いとすら言える。後のST映画はアクション色の強いものが多いが、ロッデンベリーが作りたかったのはアクション映画ではない。STシリーズでは寧ろアクションが可能なシーンであっても、わざわざアクション性を回避する様な演出が採られたりもしている。ロッデンベリーは単に圧倒的な映像美で観客をアッと言わせたかった訳ではない、映像を通じて、人々の知性や品性に訴えたかったのだ。
レナード・ニモイが『スタートレック ディスカバリー』の何が問題なのかを説明


 そしてまた、「1979年」と云う、公開当時の状況を思い出そう。当時既に米国の産業資本主義には翳りが出始めていたが、新自由主義が本格的に米国に上陸して米国のモノ作り産業を破壊し始めるのはこの後の話だ。NASAの予算の予算は既に大幅に減らされていたものの、20世紀以内にヴォイジャー6号が飛ばされると云うこの映画の設定が説得力を持つ程には、宇宙開発への人々の関心は高かった。人々の生活を向上させてくれる様々なインフラや、人々をより高く、遠く運んでくれる具体的で物理的なモノに対する信頼は、まだ人々の間からは失われてはいなかった。これは子供達が将来希望する職業を訊かれて一番になりたいものが「ユーチューバー」などと答え始めるよりずっと前の時代であって、実際に人々の役に立つモノやサーヴィスを作り出すことこそが自分達の繁栄の基礎であると云う、健全な経済発展に対する信仰が失われる前の時代だ。長引くヴェトナム/インドシナ侵略を背景に、様々な反吐の出る様な偽善や巨大犯罪を繰り返しつつも、そこには「世界中の人々が憧れるアメリカ」「豊かで、時代を前に進ませるアメリカ」と云うイメージを裏付けてくれる現実が確かにまだ残っていた。「過ちを繰り返しても、そこから学んで私達はまだ先へ進める」と云う希望は、決して完全に空虚なものではなかった。現実に目で見て手で触れることの出来るものを手掛かりにして、人類は貧困や貪欲から解放された世界へ向かうことが出来ると云う楽観主義は、今程死に絶えてはいなかったのだ。TMPのエンタープライズとの再会シーンには、そうした人類の世界をより良くし、より広げてくれる具体的で物理的なモノに対する信頼が溢れている。明るい未来とは宙からパッと降って来る訳ではない。それは大勢の人々が懸命に努力して協力して、コツコツ創り上げて行って初めて見られるものだ。STシリーズは破壊ではなく建設に捧げられた讃歌なのだ。




TMPのテーマ

 TMPのテーマは成長だ。メインの登場人物と言える2人、カークとスポックは、登場時にそれぞれ精神的危機を迎えている。カークは提督に昇進したものの、「中年の危機」を迎えて人生の行き先を見失い、船を指揮していた頃が忘れられずに、危機を利用してエンタープライズの船長への返り咲きを試みる。他方スポックは宇宙艦隊を退いて、ヴァルカン人の悟りとも言うべき「コリナー」の境地に達しようと修行しているが、資格を得られる寸前、宇宙からのヴィジャーの呼び掛けを耳にして感情を超越した境地に安住することに躊躇いを覚え、確信の無い儘エンタープライズに戻って、ヴィジャーが自分の求めている答えを持っているかどうか確かめようとする。両者共にTOSでは自信に満ちて行動していたのに、今では深刻なアイデンティティーの危機を迎えて「自分はこれでいいのか」と自問している。

 そこへ絡んで来るのが3人目の主人公、ヴィジャーだ。ヴィジャーはポスターでは探査機が模倣したアイリア中尉の形態によって表現されているが、これがこの映画の3人の主人公で、この作品は3人の精神的成長と進化を描いている。


 地球を脅かす謎の巨大物体、ヴィジャーの目的とその正体は、物語が進むにつれて徐々に明らかになって行くのだが、ヴィジャーと精神融合を果たしてその内面を理解したスポックの説明に拠れば、ヴィジャーは「子供」だ。「進化し、学び、探し求め、本能的に求めている。」「それは自分が求めていることは知っているが、我々の多くと同様、何を求めているのかは分かっていない。」つまりヴィジャーはカークやスポックと同様、先へ進みたいとは思っているが、この先どう進んで行けば分からなくて迷っている、一種の求道者なのだ。彼等の道行きは「神を探し求めること」と言い換えても良い。実際、製作の過程で「神」の話題は製作陣の間でも話題になり、所謂「バイブル・ベルト」の観客層への配慮をどうするかと云った議論が行われている。
Star Trek: The Motion Picture (6/9) Movie CLIP - VGER is a Child (1979) HD


 スポックはヴィジャーこそが自分の求める答えを持っているかも知れないと思ってヴィジャーとの精神融合を果たすのだが、その結果に彼は大いに失望させられることになる。ヴィジャーもまた彼同様、道に迷った子羊に過ぎなかった。彼の台詞を抜粋しよう:

 スポック「しかし、これ程までに純粋な論理でありながら、ヴィジャーは不毛で、冷たい———神秘も、美も無い。私は知っていた筈なのに。」
 カーク「知っていた? 何をだ? 何を知っていた筈なんだ?」
 スポック「(カークの手を握り)この、シンプルな感覚が、ヴィジャーには理解出来ない。意味も、希望も無い。そして———ジム———答えも無いんだ。それは問い続けている、『自分は只これだけの存在か? これ以上何も無いのか?」
Dr. Chapel and Dr. McCoy Examining Mr. Spock In Sickbay


 クライマックスでの別の会話を抜き出してみよう:

 スポック「ヴィジャーは進化を必要としている。その知識がこの宇宙の限界に達したので、進化しなければならないのだ。それが神に求めているのは、ドクター、質問に対する答えだ、『これ以上は何も無いのか?』」
 マッコイ「宇宙以上の何が有るって云うんだ、スポック?」
 デッカー「別の次元。高次元の存在」
 スポック「その存在を論理的に証明することは出来ない。従って、ヴィジャーはそれを信じることが出来ずにいる。」
 カーク「進化する為に必要なのは………人間の資質だ。論理を跳び越える我々の能力だ。」
 デッカー「創造主とひとつになることで、それが可能になるかも知れない。」
Star Trek V'ger parte final


 ヴィジャーに失望したことで、スポックは自分の人間的な側面を受け入れることを学び、「成熟」する(これはディレクターズ・カットで元に戻された、ヴィジャーと自分を重ねて泣くシーンで一層明らかになる)。他方、ヴィジャーは「創造主」たる人類の一人と物理的に融合することで、新たな次元の存在へと「進化」する。そしてカークは新たな生命の誕生を目の当たりにすることで、人類には、そして自分には、まだまだ大きな可能性が開かれていることを確信する。自らを成長させることを切望していた3人の主人公達は、それぞれ自分なりの仕方で成長を遂げるのだ。そしてそれが最終的には、ラストシーンでの、人類全体に向けた感動的なメッセージに繋がる。TMPのラストシーンで、エンタープライズがワープした後で、画面一杯に黒字に独特の白抜きフォントによる次の様なメッセージが表示される:

 「人類の冒険は始まったばかりである(THE HUMAN ADVENTURE IS JUST BEGINNIG)」


 これにはもう少し長いヴァージョンの言葉もファン達の間で出回っていて、こんなものだ:

 「何もかもが終わった訳じゃない。何もかも、まだ生み出され(invent)てはいない。人類の冒険は始まったばかりなのだ。」

 私はこれが、これこそが、STシリーズの最も重要なメッセージだろうと思う。少なくとも、ジーン・ロッデンベリーにとってはそうだった筈だ。人類には希望を持つべき明日が開かれている、人類はより進歩し成熟し、多様性を包摂してより豊かで平和な社会を築くことが出来る。それは偉大な成長への讃歌なのだ。



再び、『2001年』との比較

 人類進化を描いた映画として最も有名なのは、やはり先に挙げた『2001年宇宙の旅』だろう。だが『2001年』のボーマンは最終的に「スター・チャイルド」へと進化するものの、それが何を意味するのかは観客の解釈に委ねられていて、具体的にどんな方向性を示したいのかははっきりしていない。

 「進化」と「進歩」は、往々にして同義であるかの様に語られるが、厳密に言えば違う。「進歩」とは現在の人類の価値観を未来に投影した言葉であって、今の人類から見て「より良いもの」へと向かうことを指す。他方、「進化」とは変化する環境に対する適応であって、その変化が現在の人類の価値観からみて良いものであるとは限らない。それはショッキングで忌まわしいものかも知れないし、悍ましく不可解なものかも知れないし、汚らわしく嘆かわしいものであるかも知れない。『2001年』に於ける「進化」には、そうした得体の知れない未知の要素が充満していて、「スター・チャイルド」への進化が今の人類から見て望ましいものに映るとは限らない。

 映画で類人猿がモノリスに触れた後、彼等が獲得した能力は何だったろうか。より効率的な破壊と殺戮だ。それは確かに偉大な人類文明の基礎を作ったのかも知れないが、それは類人猿から見て本当に望ましい変化だったのだろうか。『2001年』には、そうした未知の変化に対する恐怖の通奏低音が最後まで付いて回っている。


 他方、STはどうだろうか。TMPの、エンタープライズがヴィジャーの雲の中に突入して行くシーンを、ボーマンが「スター・ゲイト」へ突入して行くシーンと見比べてみると良い。両者とも非常にテンポがのろく、話は一向に進まない。今の様に何でもかんでもCGで合成してしまう時代と違って、両者とも当時のアナログSFX技術の粋を凝らした贅沢な映像美が展開されているが、これらは今見ても全く色褪せておらず、この美しさだけでも観ているに値する(「話が進まないから」とカットするなど以ての外だ)。『2001年』の方はリゲティの不安を掻き立てる前衛的な現代音楽を流しているのに対して、TMPが使っているゴールドスミスの曲は、不定形だがそれでも一定度のメロディ・ライン残している。それは未知のものに対する不安と畏怖の念で満ちてはいるが、超巨大なヴィジャーに対して余りにも卑小な人類が、それに一方的に圧倒されて押し潰されるのではなく、どう仕様も無く魅せられている様が描かれている。抽象度の高い「スター・ゲイト」に比べた時のヴィジャーの具体的な物理的巨大さを見てみると良い。少なくともそれは人間の知覚によって捉えることが可能なものであり、古典的な美と崇高さの結合を思い起こさせるものだ。それは恐ろしいが、理解可能性の余地を残したものであって、何か素晴らしいものであるかも知れないと云う潜在的な期待を孕んでいる(エンタープライズのブリッジ・クルーは全員、ヴィジャーの雲内部の光景に魅せられているが、身を乗り出してもっとよく見ようとしているのがアイリアであることが予兆的だ。彼女はこの後、ヴィジャーの探査機にデータ化されることになる)。
Additional Scenes V'ger Flyover

2001: A Space Odyssey - Stargate Sequence (Movie Clip)


 「宇宙服のヘルメットに外界の光景が映し出される」と云うのは、見る者とその人が見る光景を同時に一枚の映像に落とし込む、映画でしか出来ない素晴らしい映像表現だが、上記の『2001年』のボーマンは、一方的な衝撃に揺さぶられ、その存在の内奥まで破壊され、根本的なアイデンティティを喪失させられて、最後には瞬きする度に色が変わる瞳だけが描写される。他方、ヴィジャーの深奥にスポックが突入するシーンでは、スポックは冷静に周囲の状況を観察し、記録し、自分の推測を口にする。彼が目にするのは深遠だが理解可能な世界であり、驚異的ではあるが人類にも何時かは手が届くかも知れないことを予感させる宇宙だ。彼が直面しているのは「全く訳の分からない恐ろしい未知のもの」ではない。それは解明されるのを待っている謎であり、圧倒的な巨大な美であり、人間の主体的な問いに対する答えなのだ。そしてそれは同時に、ヴィジャーがそれまでの旅で見てきたものの記録でもある。ここでは機械ではあるが別の宇宙飛行士の視点から見た宇宙の驚異の数々、ヴィジャーの成長の記録が、スポックと云う別の求道者の旅と二重映しになっている。『2001年』の訳の分からなさに比べて、TMPで描かれる成長物語は、遙かに平易で親しみ易い。それはより手の届き易い進化(進歩)の姿を描き出している。TMPは『2001年』を通俗化した作品だと言えなくもない。だが未来に対する両者のヴィジョンは極めて異なったものだ。『2001年』は言ってしまえば高踏趣味のエリート向けの作品だが、TMPは万人に開かれたものであることを期待している。
Mr. Spock Attempts Mind Meld With V'ger


 TMPのラストシーンを見てみよう。エンタープライズの新たな進路を訊かれて、カークは窓の外の宇宙を魅せられた様に見詰めて、独り言の様にこう呟く、「宇宙へ………(Out there...)」。そしてふとナヴィゲイターの視線に気が付いたのか気を取り直して真面目な顔を作り直して、ぶっきらぼうに手を振って命じる、「あっちだ(That away)」。そして指揮官席に身を沈め、静かに微笑む。確かな目的地も定めず、「細かいことは、まぁ後で考えよう」と、とにかく前に進もうとする陽気な無謀さは、カークを演じるウィリアム・シャトナーでなければ出せなかったであろう、粋で心浮き立つ雰囲気に溢れている。そしてエンタープライズがワープした後に広がる宇宙の虚空に、温かみを感じるフォントで、「人類の冒険は始まったばかりである」のメッセージ。「スター・チャイルド」が独り地球を見下ろして黙考する『2001年』と比べて何たる違いだろうか。それは観客に向かって、「さぁ、君も一緒に来いよ」と親しげに手を差し伸べている。
Star Trek: The Motion Picture (9/9) Movie CLIP - Thattaway (1979) HD




スター・トレックの基本理念とその堕落

 STシリーズはスター・ウォーズ(SW)シリーズとよく比較されるが、両者はジャンルが違う。SWは神話だが、STは近未来SFであり、一種のユートピア・フィクションだ。それは人々が、未来はこうあって欲しいと望む姿、人々が憧れる未来社会、夢物語とは知りつつも、自分達はどんな方向に向かって進むべきなのか、或いは進みたいのかを視聴者に再確認させてくれる物語だ。ジーン・ロッデンベリー自身の言葉を引用しよう:

 「『スター・トレック』は、人間の或る基本的な欲求を代弁するものです。つまり、明日があること、大きな閃光と爆弾で全てが終わる訳ではないこと、人類は進歩していること、人間として誇れるものを持っていること。いいえ、古代の宇宙飛行士がピラミッドを建てたのではありません、人間が建てたのです。何故なら彼等は賢くてよく働くからです。スター・トレックとはそう云うものについての話です。」


 別の言葉を引用しよう:

 「『スター・トレック』は、考え方の違いや生命形態の違いを許容するだけでなく、そこに特別な喜びを感じる様になった暁には、人類は成熟し知恵を得ることが出来るだろう、と言おうとする試みなのです。………若し私達がこの惑星でこうした小さな違いを実際に楽しむこと、人類同士の間の小さな違いに肯定的な喜びを感じることをを学ぶことが出来なければ、私達は宇宙に出て、そこに殆ど確実に存在しているであろう多様性に遭遇する資格は無いのです。」


 それは成熟と知恵の獲得に関する物語であり、世界の多様性を豊穣性と感じる感性を育てる為のメッセージを伝えるものだ。変化を恐れず、心を開き、明日の為に力を合わせて協力する………そうした極く真っ当な健全さを志向する、素朴と言っても良い明るい理想主義が、このシリーズには込められている。ここまで楽天的な未来観を一貫して真実続け、それを娯楽物語の形にして人々に伝えることが出来る人物と云うのは、いざ探してみると非常に限られて来る。日本で言うと、例えば藤子・F・不二雄だろうか。彼の主人公の描き方は、視聴者が憧れる様なロッデンベリーの主人公と違って、欠点だらけで、人よりも劣っていることが多い。だがそれにも関わらず、彼等は様々な経験を通して成長し続ける。『劇画・オバQ』の様に、変わってしまった現実を前にして古い冒険衝動に区切りを付けることも有るが、彼の描く主人公達の多くは、困難を前にして新たな可能性に賭ける方を選択する。アーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』に対するアンチテーゼの様なタイトルの『老年期の終わり』の、人類全体が進歩することを止めてしまった様な未来に於てすら、そこには「たとえそれがどんなにかすかな光でも………ぼくは行く!!」と、明日の可能性を信じて無謀な挑戦を試みると言い切る青年が残っている。パーマンが留学の為に遠い星へ旅立ってしまっても、パー子(星野スミレ)は須羽満夫(ミツ夫。「スーパーマン」に引っ掛けている)が帰って来るのを、何と大人になっても信じて待ち続けている。小学生の時の片想いの相手を一途に想い続けるなど、現実では先ず有り得ないことだが、そんなことは構わないのだ。これは「こうあって欲しい」と云うユメを描いたフィクションだからだ。現実には挫折や喪失が付き物だ。だが惨めな現実を惨めな儘描き出すことだけが、クリエイターの使命なのだろうか? 現実では起こり得ない、視聴者や読者が「こうあって欲しい」と思いたくなる様な世界を描きだすこともまた、立派なひとつの創作作業だろう。挫折や喪失の先にも、再会や新たな可能性が待ち受けているかも知れない。我々は何を根拠にするのでもない、単に明日はより明るくなると信じてみても良いのだ………そうした楽観主義を、特に若い世代に向けて伝えることが出来ると云うことは、実に稀有な才能ではないだろうかと、私は最近よく思う。
  

 TOSの成功を受けたジーン・ロッデンベリーは、ファンからの熱い要請に応えてTV用の続編「フェーズ2」を製作しようとしたが難航し、結果的にその企画が紆余曲折を経て劇場版第1作が作られることになった(例えば、ミスター・スポックの代わりに感情を理解出来ないヴァルカン人が登場する予定だったが、このキャストに予定されていた俳優が、宇宙ステーション・エプシロン9の司令官として登場している。この役が恐らくTNGのデータの雛形だろう)。それはロッデンベリーが、TOSで本当は何をやりたかったのか、力不足により何を語れなかったのかを改めて確認する作業であり、TOSを通じて語り切れなかった中心メッセージを視聴者に伝える為の企画だった。だがそれは各方面の思惑や利害が衝突する中で、大変な難産のプロセスを経て実現されることになった。
Star Trek - The Motion Picture -Trekkiechannel documentary part 1


 TMPの成功によってSTが儲けられるフランチャイズであることを確認したパラマウントは、不評の主因と考えられたロッデンベリーを、以降の映画作品から外してしまう。それによりSTの基本路線はそれ以降、大きく変更を受けることになる。違いは例えば宇宙艦隊の制服の変更を見れば一目瞭然で、元々は宇宙艦隊の船は戦争の船ではなく平和の船であることを強調する為に、制服も寛いだ感じのデザインのものが採用されていた。それがあからさまにより軍服らしいデザインに変更され、確かにスクリーン映えのするカッコ良さは増したものの、「エンタープライズは軍艦ではない」と云う理念が薄れてしまう結果になった。ストーリーや設定の方もそれに合わせて徐々に変化して行き、ロッデンベリーが関与したTVのTNGシリーズが始まって、一旦は基本に立ち返ったものの、ロッデンベリーの死後はまた再び軍事色が強まって行って、2000年代になると完全に「宇宙艦隊は基本的に軍事組織」と云うイメージがメインになってしまった。これはロッデンベリーのオリジナルの理念からの著しい逸脱で、多くのファンがこれを含めて、ロッデンベリーの遺産を軒並み台無しにしまくっている新世代の製作陣を非難している。

Did Star Trek Discovery Betray The Vision of Gene Roddenberry ?


 残念ながら、ロッデンベリーは死後の後継者には恵まれなかった。彼は本物の理想家だったが、彼の仕事を引き継いだ次世代の製作陣は理念無きビジネスマン達だった。ポスト・ロッデンベリー時代に作られた「ロッデンベリーらしい」傑作の数々は、製作陣「のお陰」ではなく、製作陣「にも関わらず」実現されたと指摘する評者も居る。
Berman Trek | Renegade Cut


 『ディスカバリー』以降のプロデューサーのアレックス・カーツマンに至っては、子供の頃は「余りに哲学的過ぎて」STは好きではなかったと公言する始末で、オリジナルとの差異化を図る余りに、安易な暴力描写や扇情的な傾向をどぎついまでに推し進めて、STの人気の理由だった根本的な楽観主義、誰もが憧れる未来像を完全に放棄してしまった。『劇画・オバQ』の設定を更に悲惨にして『オバケのQ太郎』のリメイクをやっている様なもので、これには多くのオールド・ファンが「我々のヒーローは一体どうなってしまったんだ?」と嘆いている。しかもあちこちで旧シリーズとの辻褄も合っていないものだから、最早STシリーズはパラレルワールドに舞台を移してしまったかの様だ(劇場版の新シリーズは文字通りのパラレルワールドに舞台を設定している)。この傾向は他の映画やTVのヒーロー達のリメイクや続編についても同様で、柳の下のどじょうを狙って金の亡者達が次々と過去のヒット作をフランチャイズ化したがるものの、彼等はそれらのヒーローをヒーローたらしめた要因を全く理解していない為、表面的に模倣するばかりで、「私達のヒーローが台無しにされてしまった」と云う声を後を絶たない。それらについて詳しくはhttp://kawamomomurmur.blog.fc2.com/blog-entry-1115.html" target="_blank" title="別のスレッド">別のスレッドに多少纏めてあるので、興味の有る方はそちらを参照されたい。
The Difference Between Kurtzman and Gene Roddenberry . Old Star Trek vs NuTrek


 尤も公平を期しておくと、ロッデンベリーが定めた基本理念から逸脱することによってヒットしたり、素晴らしい話が生まれたりしたことも少なくない。実際、ロッデンベリーらしさがよく表れされたTMPを、多くのファンが「退屈」と評している。まぁ私も正直に言うと、体のラインがくっきり出る様な制服のデザインを見た時には「23/24世紀では宇宙船ではパジャマを着るのか?」と、最初は戸惑いを隠せなかった。政治や軍事、紛争や流血沙汰の話はファンの間でも若干評価が分かれるらしく、「新たな宇宙の探求」と云うテーマはどうなったんだ、と云う批判も有るらしいが、軍事色の強い劇場版第2作『カーンの逆襲』を、多くのファンは劇場版の最高傑作と見做している。だがファン達の最近の批判を見る限り、STにとって最も肝心なのは、その楽観主義、「未来はきっと明るい」「人類は成長出来る」と云うメッセージであると、多くのファンが考えている様だ。人類の悲惨さや惨めさや残虐さに焦点を当てるのではなく、人類の肯定的な面、人類が誇れる様な点、憧れる点、希望を持てる点にこそ焦点を当て、素晴らしい物語を紡ぐこと………それが出来ていないST作品は、最早STを名乗るのに値しないと考えるファンは多い。私もその一人だ。
10 Times Gene Roddenberry Hated Star Trek




結び

 別の原稿の序でに、一寸息抜きに気分転換しようと思って書き始めたら、思いの外長くなってしまた。まぁ思い付く儘に色々書いては来たが、とにかく最近のST作品は人間の醜い点や絶望に焦点を当て過ぎる。私が好きなST作品は、人類の肯定的な面や希望にこそ焦点を当てるものだ。TMPはその点で、多少の欠点は有りつつも、最も完成度の高いロッデンベリー的世界観を表現している。世界史的な地政学的大変動が起きている現在、「理想とする未来像」「何時かはこうありたいと望む世界像」が想像出来ないことは、単なる娯楽や時間潰し以上の、遙かに重要な意味を持っているのではないかと云う危機感を最近私は募らせている。想像力の枯渇は、人間のアイデンティティーや社会形成の根幹に関わる問題だ。人間は仮令夢物語であっても、想像出来ないものは追求出来ない。今は現実離れしていたとしても、現実をどの方向に進めるべきかを見定める参照枠や基準点がフィクションの形で良いから存在しないことには、人類は先に進み様が無い。自分はどんな存在になりたいのか、どんな社会を作りたいのかを思い描けないことには、目の前の腐って醜い現実と妥協することばかりしか考えられなくなる。現実に於て妥協は勿論必要だ。だが妥協ばかりでは、そもそも何の為に何を妥協させているのかすら見えなくなってしまう。時々は目の前の現実から一歩身を引いて、想像力を自由に遊ばせてやることが非常に重要だ。夢は記憶の整理だと云う説が有るらしいが、それと同じで、時には思考を昼間の現実から解放してやらないと、精神はその内息が詰まって死んでしまう。そして自分が死んだことにすら気付けなくなる。何も難しく考える必要は無い、夢の方向性なんかは適当で良い。「あっちだ」で構わないのだ。肝心なのは、大人になっても世界へ向かって自分を開放しようとする欲求を忘れないこと、宇宙の神秘と驚異と美しさに対して、シャイになり過ぎないこと、そしてそれによって「貧困も貪欲も無い世界っていいよね!」と言い放つ図々しさを自分の中に育ててやることだ。折角人類の一員としてこの宇宙の片隅に生を享けたのに、憧れ無くして何が人生だろうか?

非暴力のヒーローのカッコ良さについて

2020/12/14(月)の呟きより。

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イギリスの少年向けSFTVシリーズ『ドクター・フー』は色々と偽善に満ちてはいるのだが、「暴力で問題を解決することを断固として拒否するヒーロー」と云う設定は実に貴重だと思うし、そこに込められた製作者達の思いは尊ばれるべきだと思う。

CG技術によって映像表現の可能性が広がったお陰も有って、最近では物理的な超能力を振るうことで問題を解決するアメコミヒーロー映画が盛んだ。余りに複雑化し過ぎた社会に倦み疲れた人々は、より解り易くて目に見える強さを求めているのだろう。

原初的な身体感覚に訴える表現はその点で広く万人に浸透し易い。どんな種類の強さかは見れば解るし、いちいち深く考える必要が無い。単純そのもの。単純さはそれ自体で快楽を生む。

日本で言うと特にジャンプ系漫画に昔からこの傾向が顕著だ。漫画やアニメと云った視覚的媒体では、登場人物の葛藤や苦悩や対立を物理的暴力表現と云う形で結実させ易い。心理的な遣り取りも拳の応酬で表現する方が読者/視聴者の情動を喚起し易いし、それ故に強い説得力を持つ。

だが子供の頃の私にとっては、物理的な暴力表現それ自体には大してドラマが無かった(運動が苦手だったことも一因だったかも知れない)。宮崎駿の様にそれが上手い表現者が居ない訳ではなかったのだが、極めて稀。多くの場合、暴力は単なる暴力としか映らなかった。

画面の向こうの派手なガチンコはスペクタクルかも知れないが、基本的にドラマが無い。少女漫画の方がよっぽどドラマ性に富んでいた。

それに私は「ひたすら物理的により強い敵と戦い続けるヒーロー」の「取り敢えず殴って解決」と云うスタンスがとにかく嫌いだった。怪し気なカルトか何かの中毒の様な臭いを感じて厭だったのだ。

一体それ自体に何の意味が有るのか解らない暴力表現のエスカレーションは、この国の偽りの繁栄の腐臭とでも呼ぶべき臭いを放っていた。或る程度までの誇張された暴力表現までは私も楽しめた。だがより刺激的な表現を求める周囲の人々の欲望には際限が無い様に見えた。

度を越したより強度の高い視覚的刺激の追求はイカれているとしか思えなかった(今でもそう思っているが)。物理的暴力表現は何処まで追求してもそれ自体としては暴力をしか表現しない。ドラマが無い。

だから私の関心は自然とそれ以外の表現方法に向かって行った。好意的な言い方をするならば、相性が悪かったのだ。

だからTVと云う視覚表現媒体に於て、「腕っ節が強い奴より、知恵を絞る奴の方がカッコ良いんだぜ」と云うメッセージを子供達に伝えてくれるヒーローには、それだけで拍手を送りたいと思う。

21世紀に入ってリブートされた後の『ドクター・フー』は、大人が観ても結構面白いが、例えば日本の『ウルトラマン』や『仮面ライダー』と云った古いヒーローをリブートしてみたところで、大人の鑑賞に耐え得る作品が作られる可能性は極めて低いだろう。製作者側でその様な作品を作ろうとしないからだ。

日本の子供向け番組製作者達は、基本的に子供の可能性を信じていないと思う。作り手の側の基礎教養の低下と云う問題も有るだろうが、何より先ず「難しいことを言ったって子供達には理解出来ない。もっと解り易く簡単な表現にしよう」と云うスタンスから意図的に知的水準を落としている様に見える。

だから日本で「子供向け」と言ったらイコール子供騙しのことになってしまう。「売り上げ」と云う単純な物差しで測れる商業主義の観点からすれば、レヴェルを落とした方が恐らく目先の売り上げは保証されるし、要らぬ冒険はしたくとも出来ない。

子供達のことを考えるより先に、先ず自分達の生活のことを気にせねばならないのだ。だがそれでは背伸びをしたい子供達の欲求には全く応えられないし、長く子供達の心に残るヒーローは生まれ難い。

そもそも表現者達は子供達に何を伝えたいのか? 売りたいだけか? 仮に売り上げが伸びなかったとしても、歯を食い縛ってでも「子供達にこれだけは伝えなければ」と思うメッセージは持っているのだろうか?

貧すれば鈍す、とはこのことだろうか。その種の冒険をやろうとしない、やりたくても出来ない、病んで衰えて後ろ向きなこの国の表現の現状を、私は残念に思う。

「祈り」が無かった『シン・ゴジラ』(まだ観ていない方はネタバレ注意)

厖大な量の情報が氾濫する画面

 庵野秀明氏が総監督を務めるゴジラ映画最新作、『シン・ゴジラ』、公開から5日目にして私も観に行って参りました。一言で言うと、非常事態マニアとしての庵野氏の本領が遺憾無く発揮された大怪作で、圧倒されました。とにかく情報量が半端ではなく、特に言語情報(文字、発話双方を含む)の多さは、はっきり言ってまともに消化し切れないレヴェルです。正直なところ私は最近のこう云う情報過多の映画やTVドラマをあんまり観ていないので、こう云う流れが一般的なのかどうかは知りませんが、庵野氏作品で言えばTVエヴァ最終2話に匹敵する様な、馬鹿馬鹿しいまでの大量の情報が画面から溢れ出して来ます。少なくとも怪獣ものの映画でここまで情報が多い作品を目にするのは、私は初めてです。近年の流行りものの常とて、本作もまたノヴェライズされるかも知れませんが、出来たとしても粗筋を何となくなぞる以上のことは出来ないでしょう。映画版を観て観客が受け取る情報をひとつだけの流れにして文章化するのは恐らく不可能ではないかと思います。

 登場人物は仮令端役であっても、何等かの肩書きが付いている者は全て字幕で表示し、会議の場所や使用される兵器に至るまで徹底的に説明する、この異常なまでの拘りは、恐らくこれがどれだけ現実に即していると云う意味で「リアルか」と云うことを強調する為の演出でしょう。宣伝文句にも、現実と虚構の対決だと謳ってありますし、ゴジラと云う荒唐無稽な存在を正当化する為に、状況設定を可能な限り限界まで現実だと思わせる努力には凄まじいものが有ります。台詞の上に台詞が重ねられ、そもそも何と言っているのか聞き取れないことも多い。しかも時々やたらと専門的な長たらしい抑揚の無い台詞が出て来て、観客が何が言われているのか理解し咀嚼する前に、次のシーンへ進んでしまう。この非常に素っ気無いパッチワークを次々繰り出すことで、観客がそこで行われていることが何かを正確に「理解」はしていなくても、何となく流れが解ってしまう、と云う点は、恐らく演出の妙でしょうから、その辺の手腕はもう評価するしかありません。本来であればTVドラマにして1クールか、下手すると2クール位要するかも知れない内容を僅か2時間に凝縮し、しかもそれで何とか体裁が整っているのだから大したものだと言わざるを得ません。

 ですがこうした「とにかく我武者等に力と勢いで押し切る」タイプの演出を行う作品は、屢々徒らにその場の熱狂だけを煽り立てて、じっくりした内容の検討を拒絶する側面が有ります。圧倒的な破壊の映像の快楽に「ヒャッハー!」と酔う為のお膳立てだとも取れます。その辺はまぁバランスの問題でしょうが、では本作は中身の濃さに関して言えばどうでしょうか。ゴジラの場合、やはり核の脅威と云うテーマからは切り離せません。



核の脅威の描かれ方各論

 今回はこれまでのゴジラシリーズの歴史を一旦無かったことにして、初登場の未知の怪物(「新・ゴジラ」)としてゴジラを登場させている訳ですが、1954年の第1作の場合、同年に行われたビキニ環礁沖での核実験が背景に有りました。ゴジラは、広島・長崎と云う2度の核爆弾による被害への悔悟と、今また世界中に拡散されようとしている核実験の恐怖のふたつを体現する巨大な「被曝者」のアイコンとして登場させられた訳です。今回の新ゴジラは、過去に行われた核実験の後に海洋投棄された核物質(世界中の海がこれによって汚染されました)を食べて(?)怪物化した、と云う点は初代ゴジラと同じですが、核実験の恐怖は現在では表向きは過去にものになっていますので、その意味では未来志向ではありません。現在と将来の危機に関してこの新ゴジラが何を言ってくれているかと言えば、東京に落とされる熱核兵器の存在を描くことで、核の脅威はまだ人類を脅かしていると云うことを改めて指摘すること位でしょう。3.11以降に作られた作品としては、原発と核兵器との関わりの描写は希薄で、その辺はどうも物足りなさを感じざるを得ません。84年版のゴジラの様に原発を襲ったりもせず、水と空気だけで生きて行けると云う、霞を食って生きる仙人みたいな存在になってしまったらしいので、今現在進行形で現実を脅かしている原発の脅威に関しては、ストーリー上は背景に退いてしまった感が有ります。

 但、ゴジラと云う生き物のビジュアル的な描き方に関しては特筆すべきものが有ります。パッと見ただけでも解りますが、今回の新ゴジラには体中のあちこちに赤い亀裂の様な傷だか模様だかが走っていて、見るからに痛々しい外見です。歯並びも悪く、顔面は異様に膨れていて、目なんかは殆ど点になっていて、これまでのゴジラデザインで多く見られた太々しい「悪役」感を出そうと云う意図が感じられません。ひたすらに歪で、醜悪で、悍ましい生き物、善悪を超越した、非人間的と言うよりは没人間的な存在として描かれています。新ゴジラが破壊行為を行う時にも、第1形態の時なんかは特に、壊したいと思って壊しているのではなく、只単にのたうちまわっている様にしか見えません。今回、伝統的な着ぐるみからフルCGに以降した様ですが、その辺では確かに今回の様な描き方をするのであれば、着ぐるみではあの痛々しい感じを出すのは不可能か、極めて困難だったでしょう。エラ(?)から大量出血するシーンとか、地中貫通爆弾にやられて大量出血した後、顎がバカッと割れて、まるで血反吐か、或いは内蔵を全部吐き出すかの様に、初めて火炎を吐くシーンなどは、その圧倒的な強さにも関わらず、どうしても悲壮感が拭えません。ゴジラはその根本に於て「被曝者」である、と云うその一点に於て、ビジュアル面での演出はストーリー面でのその側面の弱さを補強するものである、と、好意的に解釈すればそうなるでしょう。

 また米軍が、日本への被害を無視してまで日本を核攻撃したがる、と云う状況をはっきり描いた点は、庵野氏が軍事オタクとしては核の運用の現状について、また日本の安全保障上のシビアな地位についてきちんと理解していることを示していて、この辺も評価すべきでしょう。「東京に核攻撃」と云う状況は、84年版の『ゴジラ』でも描かれましたが、あれは戦術核の使用を強硬に主張する米ソの要求を日本の首相がきっぱりと撥ね付けた後、不測の事故によってソ連の衛星から核ミサイルが発射されてしまう、と云う流れでした。私は子供の頃にあの作品を観てからと云うもの、冷戦継続中にも関わらず、米ソの特使を前に非核三原則を堂々を主張してみせた、小林桂樹氏演じる三田村清輝首相のことをヒーローだと思って来ましたが、あれが現実の日本の(恐らくは自民党の)首相としては如何に有り得ないことかは十分承知しています。あれは言うなれば左翼の、或いは日本の平和主義を鵜呑みにして信じている多くの日本国民の妄想の様なもので、84年の段階で(そして今もそうですが)ああした展開になることは絶対に有り得なかったでしょう。日本の首相はアメリカからの核攻撃の要求を拒否しないし、出来ない。

 その点は54年の初代『ゴジラ』も同じで、この時何故か在日米軍は一切要求を出して来ませんが(レイモンド・バーが出演したアメリカ版でも同様で、米軍は大したことはしていません)、54年の状況を考えればそんなことは有り得ません。50年に始まった朝鮮戦争でさえ、米軍は何度も原爆の投下を検討したと言いますから、何等かのアクションが有って然るべきでした。脚本を書いた香山滋氏を始め、当時の日本人は勿論そう云う事情を知らされていなかった訳ですから無理も無い話ですが、米軍と日本政府の地位について、ここまではぐらかさずに描いたゴジラ映画は、本作が初めてでしょう。嶋田久作氏演じる臨時外務大臣が、日本の被害を全く無視したアメリカの要求を突き付けられて(予めちゃんと「国連軍」と云う体裁を整えてから、実際には在日米軍が動く、と云う所まで描き込まれています)、「酷過ぎます!」と泣きながら激怒するシーンが有りますが、この怒りと嘆きは、もっと多くの日本人が共有すべきでしょう。戦後70年間ずっと日本が置かれている異常な状況と、それがアメリカの「核抑止」による覇権政策に果たした役割の検証と反省、これ無くして日本人は核の脅威について語れませんし、また語るべきではありません。尤も、この点に気付ける観客がどれだけ居るのかは未知数ですが………。



葛藤する科学者の意図的な不在

 54年版『ゴジラ』では、この国の安全保障の形について屈折した想いで行動する、暗い情念を持つ登場人物が2人登場します。言うまでもなく、オキシジェン・デストロイヤーと云う、或る意味では核以上の脅威と成り得る兵器転用可能な装置を開発してしまった芹沢博士と、放射能を浴びて尚生きている生命の神秘を解明したいと云う科学者としての情熱と、現実の目の前の被害の認識の間で引き裂かれ苦悩する山根博士です。84年版『ゴジラ』では、両親を初代ゴジラに殺されて最初は復讐の念からゴジラ研究を始めたけれども、「人間の方がよっぽどバケモノだ。私はゴジラを自然に還したい」と呟く林田博士がこれと似た位置に居ましたが、残念ながらそれ以上ストーリーの上で葛藤の掘り下げは行われなかったので、非常に良い設定の登場人物だったのですが、残念ながら不完全燃焼でした。

 今回彼等の様な役割を与えられているのは、専ら政治的な方面で苦悩と葛藤を繰り返す主人公を除けば、冒頭に失踪シーンが描かれ、結局劇中には一度も登場しなかった牧吾郎(『怪奇大作戦』の牧史郎へのオマージュか?)博士でしょう。彼は妻がどうやら放射能の被害に遭ったらしく(米国特使の日系3世のおばあちゃんも被曝者ではないかと云う仄めかしが見られますが)、新ゴジラの存在を知りつつ、その研究データを故意に(部分的に)隠匿したらしいので、新ゴジラの出現は或る意味ではテロに準ずるものだとも言えます(押井守氏の劇場版『パトレイバー』に登場するテロリストにも似た描かれ方をしていますが)。先に挙げた2作よりもよりずっと先鋭化して、この国の安全保障と対立する路線上に位置している訳ですが、彼は単に登場しないだけではなく、最初から本作のストーリー展開から意図的に排除されてしまっており、回想シーンすら出て来ないので、劇中で葛藤のし様が有りません。前2作に実存的な深みを与えているのは、こうした「安全保障とは何か」と云うラディカルな問いについて苦悩する登場人物の存在だったと私は思うのですが、科学者と云う立場からこうした問題を引き受ける登場人物は今回存在しません。辛うじて、政治家である主人公が科学者チームを率いることによって、それに近い役割を与えられていますが、新ゴジラを排除することそれ自体については全く疑問を持っていません。その点では本作は人間ドラマとしては後退したものと評価せざるを得ないかと思います。

 まぁ何も前例を踏襲する必要は無いので、新作は新作だと割り切ってしまえば良いのかも知れませんが、先にも述べた様にやはり立ち止まって根本的な問題について考えてみると云う姿勢が希薄化してしまったことは残念に思います。今挙げた様な登場人物達と云うのは、ゴジラと云う「破壊神」を登場させてしまった人達の鏡であると云う側面を指摘することが出来ます。クリエイターとして「映像と音響によって破壊の快楽を紡ぎ出す」と云う行為に対しては、常に何等かの後ろめたさが有って然るべきだと思いますので、その辺の葛藤を投影する存在でもあるのです。庵野氏の本音としては、牧博士の遺言に有った様に「自分の好きなことをしたい」、即ち、破壊の快楽に酔いたいだけだったのかも知れませんが、それで言い訳の全てを終わらせてしまうのでは、ストーリーを膨らませる上でも勿体無いと思うのです。

 まぁそれ位のレヴェルの人間的な深みを要求してしまいたくなると云うのは、それだけ今回の作品がゴジラ映画として傑出していることの裏返しでもありますが(これまでのゴジラ映画に、如何に何にも考えずに能天気な上っ面の娯楽性ばかりを追求した作品が多かったかを思い出してみましょう)。



噛み合ない音楽

 音楽好きとして、また伊福部昭氏の大ファンとしてやはりこの点も指摘しておかないといけないでしょう。今回音楽を担当されているのは、『新世紀エヴァンゲリオン』等でもお馴染みの鷺巣詩郎氏なのですが、それと同時に、伊福部昭氏の過去のサントラ、それも新規に録音したものではなく、恐らくは過去のサントラをリマスターしたものが多様されています。鷺巣氏の曲は如何にも最近の映画音楽に有り勝ちな、「そのシーンの雰囲気を盛り上げるには効果的だけれども、終わってみれば音楽自体としては大して印象に残らない」タイプのもので、画面を先導するよりは画面に寄り添う形のものです(新ゴジラが初めて火炎を吐くシーンでは多少積極的な役割を果たしましたが)。対して伊福部氏のものはそれとは対称的な曲想に基付くもので、音響の違和感も含めて、両者は全く噛み合っていません。

 パンフレットに書かれていたコメントを読む限り、恐らく二者の対比によって「現実対虚構」と云う構図を描き出そうとしたとも考えられますが、単に不自然な継ぎ接ぎ細工を重ねた様にも思えます。現実と虚構と云う対立の構図は、時間的なものではなくストーリーに内在する構造的なものなので、シーン毎にはっきり切り替えられるものではないでしょう(TVアニメの『トランスフォーマー』じゃないんだから)。音楽は、やはり一貫した意志の下に構想されるべきではなかったかと思います。伊福部氏が如何に偉大だったかを思えば、彼に敬意を払いたい気持ちは解らないでもないのですが、彼が作った歴史を塗り替えることは、今の作曲家にとっても非常にやり甲斐の有るチャレンジではないかと思うのです。

 また、『エヴァ』で使用され、『踊る大走査線』等にも流用された、ティンパニが非常に印象的な"EM20"と云うサントラが何度も使われていますが、これでも出来れば別の曲を使用しても良かったのではないかと思います。これだとどうしても『エヴァ』の延長線上で本作を捉えたくなります。『ゴジラ』は『ゴジラ』で別物として、差異化を図っても良かったのではないでしょうか。庵野氏の意図としては寧ろその辺の絡みを意図的に出したかったのかも知れませんが、虚構同士が縺れ合っていては、それが何と対決しているのかが不鮮明になる惧れが有ります。



政治的意図の不在と祈りの欠如

 牧博士の遺影には、庵野氏が大ファンだと公言している岡本喜八氏の写真が使われていた様ですが、本作はその大枠の雰囲気に於て、岡本氏の『激動の昭和史 沖縄決戦』や『日本のいちばん長い日』の様な戦争群像劇に良く似ている様に思います。こう云う御時世なので本作が右翼か左翼かなどとネットでは色々と騒がれている様ですが、岡本氏はともかく、はっきり言って庵野氏本人はそう云う政治的な分類は大して意に介さないでしょう。彼はとにかく次々と新たな展開を見せる極限状況の中に大量の登場人物をぶっ込んでおいて、そこで彼等がどう必死になって足掻くか、そのことを一番に描きたいだけであって、人間の愚かしさと努力の崇高さの前には、現実の諸問題なんて二の次だと云う、良くも悪くも虚構に陶酔する愉しさを十分に知ってしまっている人間ではないでしょうか。その状況が偶々戦争であれば、その映画は「反戦映画」と云うキャッチフレーズで呼ばれるかも知れませんが、相手がゴジラでは何とも分類し様が有りません。そのことに対する言い訳や反省が、意図的にか意図せざるものかは判りませんが、本作では希薄なのは先に指摘した通りです。

 本作では非常事態宣言が出されて緊急立法が濫発されており(因みに当日、上映が始まる前に私が読んでいた本が丁度『よくわかる緊急事態条項Q&A』でした。偶然ですが)、これを以て「だから今の日本に非常事態宣言が必要だ」と云うプロパガンダだ、と捉える向きも有る様ですが、これは穿ち過ぎでしょう。裏を返せば、「ゴジラの様な非常識で非現実的な存在の出現でも仮定しないことには、この国には非常事態条項なんて必要有りませんよ」と云うことも言えるからです(尤も、論理的な思考が出来ない方々がその辺りの理屈を抜きにして持ち上げる可能性は有るでしょうが)。自然災害には、場当たり的な強大な指揮権の発動よりも、事前の入念なシミュレーションや訓練の方が遥かに大事であることは論を俟ちません。飽く迄、本作で描かれているのは徹頭徹尾虚構であり、フィクションであり、非現実的な出来事なのだとはっきり認識する必要が有ります。本作の観客は、自分達自身の現実と映画と云う虚構を対決させる必要が有るかと思います。私も、取材協力リストに小池百合子氏の名前を発見した時には「ゲッ!」となりましたが、軍事志向の極右政治にアレルギーを持っている観客であっても、またミリオタ的妄想が大好きな観客であっても、その辺は「所詮は作り事」と割り切って観ないと、何かとんでもない勘違いをするかも知れません。

 現実の政治を超越していると云う点と並んで気になるのは、本作の最終的なメッセージです。本作のラストシーンは怪獣映画の「お約束」で、山根博士の台詞の代わりに、ギーガー氏か諸星大二郎氏の作品を思わせる映像で状況を説明している訳ですが、そこには54年版『ゴジラ』に有った、また84年版『ゴジラ』にも多少は有った、「何故こんな愚行と惨劇が繰り返されるのか」と云う痛切な想いに基付く「祈り」の姿勢が希薄です。代わりに示されているのは、主人公の「また何か有ったらその時は………!」と云う「覚悟」です。これはどう解釈すれば良いのでしょう。

 「覚悟」とは、基本的に危難が訪れた時に、それに立ち向かう力を持った人間が持つものです。それに大して「祈り」とは、力を持った人間でも抱くことが出来ますが、力を持っていない者でも抱くことの出来るものです。54年は、日本はまだアメリカによる軍事占領から(名目的に)脱したばかりで、始まってしまった冷戦と核開発競争どころか、自らの国すらどうにか出来るか判らなかった時代です。84年は84年で、日本は経済力を手に入れて政治的にも何か偉くなったのだと勘違いして(84年版『ゴジラ』にはその辺の勘違いが如実に表れています)いましたが、冷戦構造はまだ終わるかどうか判らなかった時代です。『シン・ゴジラ』の作られた2016年、日本人は自分達の行く先を自分でどうにか出来る様な能力を獲得しているのでしょうか。

 皆が「祈り」ではなく「覚悟」を持つべきだ、日本人は皆自分の足で立ち上がって、主体的に自分達の未来を切り拓くべきだ、と云うメッセージであれば、それはそれで解ります。ですがラストシーンで「覚悟」を示しているのは、未来の総理に成るかも知れない男性だけ(或いはそれに、将来アメリカ大統領に成るかも知れない女性を含めても良いかも知れませんが)、はっきり言って社会的な強者そのものです。本人の性格自体は他者を貶めることを潔しとしないものでしょうが、その描かれ方には弱者に寄り添う視点が希薄です。笑顔で立ち上がる民衆の姿は一寸だけ描かれますが、虐げられ、生活を踏みにじられ、無残に生命を落として行った人達への哀悼の念はそこには有りません。新ゴジラそのものへの哀悼も無く、来るべき脅威だけが強調されます(尤も、ラスト1カットに関しては、別の解釈の余地が有るかも知れませんが)。観客が自己投影出来るのは精々未来の首相候補だけ、私はそこに危うさを感じます。54年と84年に『ゴジラ』を作った人達は、もう少し謙虚さを知っていました。先に挙げた様に、本作には評価すべき点も有ります。ゴジラ映画の中では間違い無く傑出しています。ですがこの様な理由から、私はこの「新ゴジラ」を、「真ゴジラ」と呼ぶには躊躇いを覚えるのです。

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』がちとガッカリだった件について(若干ネタバレ有)

 17日から公開が始まったヱヴァQ、割引時間帯を利用して観に行って来ました。

 結論から云うと、まぁ劇場でお金払って観たのは良いとしても、つい上映前にパンフレットまで買って余計な出費をしてしまったのは後悔するレベル。

 話の内容は、前作の終わりで何かヱヴァが永井豪の漫画みたいに成ってガイガンもどきのヱヴァが出撃してどうなるのかと思いきや、今回は旧劇場版の後に24話をやり直したみたいなもので、世界がプチ終わってしまった後のシンジの心の迷走に重点が置かれています。私としては、このシリーズはパラレルものかループもののヴァリエーションに落ち着くだろうと云う予想を立てていたので、主人公以外或る意味略全員新キャラと云う本作の設定はまぁ当たりだったのですが、いきなりのっけからこの段階で新フェーズに移行、と云うのは意外でした。もう少しサードインパクト絡みで何か展開が有ってから片付けるものだとばかり思っていたので。序と破の予告編を見る限りでは、多分に構成サイドも試行錯誤しつつ迷走しているのだろうなとは思っていたのですが、多分破からQに至るまでにも、大分路線変更が為されたのではないかと予想します。流れとしては、破でシンジがディラック空間に取り込まれる話とかも入れる積もりだったのが、ヱヴァが覚醒するとこまで描いてしまったので、その分Qの割当が全体的に拡大されたのではないかと。

 まぁ物語の「謎」を巡っては、エヴァなんて所詮は観客をケムに撒いてナンボみたいなところが有るので、始めっから観客置いてけぼりの流れに成ったところで今更何も言いいますまい。脚本の方も脚本の方で一生懸命なんだろうなぁと。一応それなりの「解釈」もしてみたのですが、必然的に長くなってしまい面倒臭いので省略します。どうせ新作の方まで待たないと解らないことだっててんこ盛りでしょうし、謎解きの手掛かりの提出は結局恣意的なものですしね、それにいちいち振り回されるのも癪です。最早我々が―――少なくとも私がヱヴァ新シリーズに期待するのは、十数年前に繰り広げられた挑発的且つ不毛な解釈・批判の波を繰り返させてくれることではないのではないかと思っておりますので。

 それよりも何よりも不満で消化不良の感を覚えた点は他に有ります。そもそもこのエヴァと云うシリーズに於て、登場人物の自己語りや内面描写が延々と続いたり、中二病的なオカルティックな万能感溢れる設定が長々と垂れ流れされても観客に許されるのは、予告で言われている様な「サービス」がたっぷり詰まっているからなのはないでしょうか。(お色気シーンとかは別として)例えば、上空を怪音を発し乍ら飛来するシンプルなデザインの怪物体とか、市街地での大障害競走とか、夕焼けをバックにした巨人同士の組んず解れつ取っ組み合いとか、そうした古き良き特撮マインド溢れるアクションシーンを存分に見せてくれるからこそ、エヴァと云うシリーズはあれだけの支持を得たのでしょう。それが今回は何せ舞台と成るのがナニがアレしてしまった後の世界で、しかも空中戦が多く、大きさの比較対照と成るものが無いので、巨大感がいまいち伝わって来ません。バトル自体も冒頭と終わりの2回しか無いし、激しく動くコマ割も特撮よりは寧ろVFXの感覚に近く、悪い意味で時代が進んでしまったなぁと云う感慨を覚えます。何か同時上映された『巨神兵東京に現る』の方が、ヱヴァ(あーこの綴り面倒臭い)本編でのサービス不足を補う為の言い訳に見えて来ます(『巨神兵~』の方も、映像はともかく何かセカイ系のポエムみたいのが林原閣下のモノローグとしてバックに流れるだけなので、この同時上映は多分に意図的なものだと思います)。

 要するに私が言いたいのは、「細かいこたぁ良いんだよ、もっと特撮を!」。旧劇場版『まごころを、君に』の後で24話をやった話を100分以上掛けて観たいか?と云うことなのです。批評系が好きな御仁にはこの展開でも良いのでしょうが、個人的にはさっさと話を進めてくれと。もうディスコミュニケーション描写は沢山だからと。状況説明を殆ど抜きにして語られる人間関係はもうお腹一杯なんですわ。

 で、結局この先どうなるんでしょうね。まぁ旧劇場版が意外にも「他者」としてのアスカが存在するハッピーエンドだったところから察するに、その乗り越えとして新ヱヴァシリーズが作られていると考えると、今回のアスカは(姓も違うし)シンジの対立項として主人公級に昇格するのではないかと。次回予告も何か2号機しか出てなかったし、アスカが恐らくは旧劇場版のラストと同様に左目を失っているのも暗示的ですしね。

 まぁ取り敢えず後少なくとも1作は作られる様なので、「バカシンジ」から「ガキシンジ」に格下げされてしまった主人公の行く末を、その時までは見守ってみることにします。後シンジ君、ピアノ弾けたのね。結構上手で羨ましいわ。
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川流桃桜

Author:川流桃桜
一介の反帝国主義者。
2022年3月に検閲を受けてTwitterとFBのアカウントを停止された為、それ以降は情報発信の拠点をブログに変更。基本はテーマ毎のオープンスレッド形式。検閲によって検索ではヒットし難くなっているので、気に入った記事や発言が有れば拡散して頂けると助かります。
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