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「祈り」が無かった『シン・ゴジラ』(まだ観ていない方はネタバレ注意)

厖大な量の情報が氾濫する画面

 庵野秀明氏が総監督を務めるゴジラ映画最新作、『シン・ゴジラ』、公開から5日目にして私も観に行って参りました。一言で言うと、非常事態マニアとしての庵野氏の本領が遺憾無く発揮された大怪作で、圧倒されました。とにかく情報量が半端ではなく、特に言語情報(文字、発話双方を含む)の多さは、はっきり言ってまともに消化し切れないレヴェルです。正直なところ私は最近のこう云う情報過多の映画やTVドラマをあんまり観ていないので、こう云う流れが一般的なのかどうかは知りませんが、庵野氏作品で言えばTVエヴァ最終2話に匹敵する様な、馬鹿馬鹿しいまでの大量の情報が画面から溢れ出して来ます。少なくとも怪獣ものの映画でここまで情報が多い作品を目にするのは、私は初めてです。近年の流行りものの常とて、本作もまたノヴェライズされるかも知れませんが、出来たとしても粗筋を何となくなぞる以上のことは出来ないでしょう。映画版を観て観客が受け取る情報をひとつだけの流れにして文章化するのは恐らく不可能ではないかと思います。

 登場人物は仮令端役であっても、何等かの肩書きが付いている者は全て字幕で表示し、会議の場所や使用される兵器に至るまで徹底的に説明する、この異常なまでの拘りは、恐らくこれがどれだけ現実に即していると云う意味で「リアルか」と云うことを強調する為の演出でしょう。宣伝文句にも、現実と虚構の対決だと謳ってありますし、ゴジラと云う荒唐無稽な存在を正当化する為に、状況設定を可能な限り限界まで現実だと思わせる努力には凄まじいものが有ります。台詞の上に台詞が重ねられ、そもそも何と言っているのか聞き取れないことも多い。しかも時々やたらと専門的な長たらしい抑揚の無い台詞が出て来て、観客が何が言われているのか理解し咀嚼する前に、次のシーンへ進んでしまう。この非常に素っ気無いパッチワークを次々繰り出すことで、観客がそこで行われていることが何かを正確に「理解」はしていなくても、何となく流れが解ってしまう、と云う点は、恐らく演出の妙でしょうから、その辺の手腕はもう評価するしかありません。本来であればTVドラマにして1クールか、下手すると2クール位要するかも知れない内容を僅か2時間に凝縮し、しかもそれで何とか体裁が整っているのだから大したものだと言わざるを得ません。

 ですがこうした「とにかく我武者等に力と勢いで押し切る」タイプの演出を行う作品は、屢々徒らにその場の熱狂だけを煽り立てて、じっくりした内容の検討を拒絶する側面が有ります。圧倒的な破壊の映像の快楽に「ヒャッハー!」と酔う為のお膳立てだとも取れます。その辺はまぁバランスの問題でしょうが、では本作は中身の濃さに関して言えばどうでしょうか。ゴジラの場合、やはり核の脅威と云うテーマからは切り離せません。



核の脅威の描かれ方各論

 今回はこれまでのゴジラシリーズの歴史を一旦無かったことにして、初登場の未知の怪物(「新・ゴジラ」)としてゴジラを登場させている訳ですが、1954年の第1作の場合、同年に行われたビキニ環礁沖での核実験が背景に有りました。ゴジラは、広島・長崎と云う2度の核爆弾による被害への悔悟と、今また世界中に拡散されようとしている核実験の恐怖のふたつを体現する巨大な「被曝者」のアイコンとして登場させられた訳です。今回の新ゴジラは、過去に行われた核実験の後に海洋投棄された核物質(世界中の海がこれによって汚染されました)を食べて(?)怪物化した、と云う点は初代ゴジラと同じですが、核実験の恐怖は現在では表向きは過去にものになっていますので、その意味では未来志向ではありません。現在と将来の危機に関してこの新ゴジラが何を言ってくれているかと言えば、東京に落とされる熱核兵器の存在を描くことで、核の脅威はまだ人類を脅かしていると云うことを改めて指摘すること位でしょう。3.11以降に作られた作品としては、原発と核兵器との関わりの描写は希薄で、その辺はどうも物足りなさを感じざるを得ません。84年版のゴジラの様に原発を襲ったりもせず、水と空気だけで生きて行けると云う、霞を食って生きる仙人みたいな存在になってしまったらしいので、今現在進行形で現実を脅かしている原発の脅威に関しては、ストーリー上は背景に退いてしまった感が有ります。

 但、ゴジラと云う生き物のビジュアル的な描き方に関しては特筆すべきものが有ります。パッと見ただけでも解りますが、今回の新ゴジラには体中のあちこちに赤い亀裂の様な傷だか模様だかが走っていて、見るからに痛々しい外見です。歯並びも悪く、顔面は異様に膨れていて、目なんかは殆ど点になっていて、これまでのゴジラデザインで多く見られた太々しい「悪役」感を出そうと云う意図が感じられません。ひたすらに歪で、醜悪で、悍ましい生き物、善悪を超越した、非人間的と言うよりは没人間的な存在として描かれています。新ゴジラが破壊行為を行う時にも、第1形態の時なんかは特に、壊したいと思って壊しているのではなく、只単にのたうちまわっている様にしか見えません。今回、伝統的な着ぐるみからフルCGに以降した様ですが、その辺では確かに今回の様な描き方をするのであれば、着ぐるみではあの痛々しい感じを出すのは不可能か、極めて困難だったでしょう。エラ(?)から大量出血するシーンとか、地中貫通爆弾にやられて大量出血した後、顎がバカッと割れて、まるで血反吐か、或いは内蔵を全部吐き出すかの様に、初めて火炎を吐くシーンなどは、その圧倒的な強さにも関わらず、どうしても悲壮感が拭えません。ゴジラはその根本に於て「被曝者」である、と云うその一点に於て、ビジュアル面での演出はストーリー面でのその側面の弱さを補強するものである、と、好意的に解釈すればそうなるでしょう。

 また米軍が、日本への被害を無視してまで日本を核攻撃したがる、と云う状況をはっきり描いた点は、庵野氏が軍事オタクとしては核の運用の現状について、また日本の安全保障上のシビアな地位についてきちんと理解していることを示していて、この辺も評価すべきでしょう。「東京に核攻撃」と云う状況は、84年版の『ゴジラ』でも描かれましたが、あれは戦術核の使用を強硬に主張する米ソの要求を日本の首相がきっぱりと撥ね付けた後、不測の事故によってソ連の衛星から核ミサイルが発射されてしまう、と云う流れでした。私は子供の頃にあの作品を観てからと云うもの、冷戦継続中にも関わらず、米ソの特使を前に非核三原則を堂々を主張してみせた、小林桂樹氏演じる三田村清輝首相のことをヒーローだと思って来ましたが、あれが現実の日本の(恐らくは自民党の)首相としては如何に有り得ないことかは十分承知しています。あれは言うなれば左翼の、或いは日本の平和主義を鵜呑みにして信じている多くの日本国民の妄想の様なもので、84年の段階で(そして今もそうですが)ああした展開になることは絶対に有り得なかったでしょう。日本の首相はアメリカからの核攻撃の要求を拒否しないし、出来ない。

 その点は54年の初代『ゴジラ』も同じで、この時何故か在日米軍は一切要求を出して来ませんが(レイモンド・バーが出演したアメリカ版でも同様で、米軍は大したことはしていません)、54年の状況を考えればそんなことは有り得ません。50年に始まった朝鮮戦争でさえ、米軍は何度も原爆の投下を検討したと言いますから、何等かのアクションが有って然るべきでした。脚本を書いた香山滋氏を始め、当時の日本人は勿論そう云う事情を知らされていなかった訳ですから無理も無い話ですが、米軍と日本政府の地位について、ここまではぐらかさずに描いたゴジラ映画は、本作が初めてでしょう。嶋田久作氏演じる臨時外務大臣が、日本の被害を全く無視したアメリカの要求を突き付けられて(予めちゃんと「国連軍」と云う体裁を整えてから、実際には在日米軍が動く、と云う所まで描き込まれています)、「酷過ぎます!」と泣きながら激怒するシーンが有りますが、この怒りと嘆きは、もっと多くの日本人が共有すべきでしょう。戦後70年間ずっと日本が置かれている異常な状況と、それがアメリカの「核抑止」による覇権政策に果たした役割の検証と反省、これ無くして日本人は核の脅威について語れませんし、また語るべきではありません。尤も、この点に気付ける観客がどれだけ居るのかは未知数ですが………。



葛藤する科学者の意図的な不在

 54年版『ゴジラ』では、この国の安全保障の形について屈折した想いで行動する、暗い情念を持つ登場人物が2人登場します。言うまでもなく、オキシジェン・デストロイヤーと云う、或る意味では核以上の脅威と成り得る兵器転用可能な装置を開発してしまった芹沢博士と、放射能を浴びて尚生きている生命の神秘を解明したいと云う科学者としての情熱と、現実の目の前の被害の認識の間で引き裂かれ苦悩する山根博士です。84年版『ゴジラ』では、両親を初代ゴジラに殺されて最初は復讐の念からゴジラ研究を始めたけれども、「人間の方がよっぽどバケモノだ。私はゴジラを自然に還したい」と呟く林田博士がこれと似た位置に居ましたが、残念ながらそれ以上ストーリーの上で葛藤の掘り下げは行われなかったので、非常に良い設定の登場人物だったのですが、残念ながら不完全燃焼でした。

 今回彼等の様な役割を与えられているのは、専ら政治的な方面で苦悩と葛藤を繰り返す主人公を除けば、冒頭に失踪シーンが描かれ、結局劇中には一度も登場しなかった牧吾郎(『怪奇大作戦』の牧史郎へのオマージュか?)博士でしょう。彼は妻がどうやら放射能の被害に遭ったらしく(米国特使の日系3世のおばあちゃんも被曝者ではないかと云う仄めかしが見られますが)、新ゴジラの存在を知りつつ、その研究データを故意に(部分的に)隠匿したらしいので、新ゴジラの出現は或る意味ではテロに準ずるものだとも言えます(押井守氏の劇場版『パトレイバー』に登場するテロリストにも似た描かれ方をしていますが)。先に挙げた2作よりもよりずっと先鋭化して、この国の安全保障と対立する路線上に位置している訳ですが、彼は単に登場しないだけではなく、最初から本作のストーリー展開から意図的に排除されてしまっており、回想シーンすら出て来ないので、劇中で葛藤のし様が有りません。前2作に実存的な深みを与えているのは、こうした「安全保障とは何か」と云うラディカルな問いについて苦悩する登場人物の存在だったと私は思うのですが、科学者と云う立場からこうした問題を引き受ける登場人物は今回存在しません。辛うじて、政治家である主人公が科学者チームを率いることによって、それに近い役割を与えられていますが、新ゴジラを排除することそれ自体については全く疑問を持っていません。その点では本作は人間ドラマとしては後退したものと評価せざるを得ないかと思います。

 まぁ何も前例を踏襲する必要は無いので、新作は新作だと割り切ってしまえば良いのかも知れませんが、先にも述べた様にやはり立ち止まって根本的な問題について考えてみると云う姿勢が希薄化してしまったことは残念に思います。今挙げた様な登場人物達と云うのは、ゴジラと云う「破壊神」を登場させてしまった人達の鏡であると云う側面を指摘することが出来ます。クリエイターとして「映像と音響によって破壊の快楽を紡ぎ出す」と云う行為に対しては、常に何等かの後ろめたさが有って然るべきだと思いますので、その辺の葛藤を投影する存在でもあるのです。庵野氏の本音としては、牧博士の遺言に有った様に「自分の好きなことをしたい」、即ち、破壊の快楽に酔いたいだけだったのかも知れませんが、それで言い訳の全てを終わらせてしまうのでは、ストーリーを膨らませる上でも勿体無いと思うのです。

 まぁそれ位のレヴェルの人間的な深みを要求してしまいたくなると云うのは、それだけ今回の作品がゴジラ映画として傑出していることの裏返しでもありますが(これまでのゴジラ映画に、如何に何にも考えずに能天気な上っ面の娯楽性ばかりを追求した作品が多かったかを思い出してみましょう)。



噛み合ない音楽

 音楽好きとして、また伊福部昭氏の大ファンとしてやはりこの点も指摘しておかないといけないでしょう。今回音楽を担当されているのは、『新世紀エヴァンゲリオン』等でもお馴染みの鷺巣詩郎氏なのですが、それと同時に、伊福部昭氏の過去のサントラ、それも新規に録音したものではなく、恐らくは過去のサントラをリマスターしたものが多様されています。鷺巣氏の曲は如何にも最近の映画音楽に有り勝ちな、「そのシーンの雰囲気を盛り上げるには効果的だけれども、終わってみれば音楽自体としては大して印象に残らない」タイプのもので、画面を先導するよりは画面に寄り添う形のものです(新ゴジラが初めて火炎を吐くシーンでは多少積極的な役割を果たしましたが)。対して伊福部氏のものはそれとは対称的な曲想に基付くもので、音響の違和感も含めて、両者は全く噛み合っていません。

 パンフレットに書かれていたコメントを読む限り、恐らく二者の対比によって「現実対虚構」と云う構図を描き出そうとしたとも考えられますが、単に不自然な継ぎ接ぎ細工を重ねた様にも思えます。現実と虚構と云う対立の構図は、時間的なものではなくストーリーに内在する構造的なものなので、シーン毎にはっきり切り替えられるものではないでしょう(TVアニメの『トランスフォーマー』じゃないんだから)。音楽は、やはり一貫した意志の下に構想されるべきではなかったかと思います。伊福部氏が如何に偉大だったかを思えば、彼に敬意を払いたい気持ちは解らないでもないのですが、彼が作った歴史を塗り替えることは、今の作曲家にとっても非常にやり甲斐の有るチャレンジではないかと思うのです。

 また、『エヴァ』で使用され、『踊る大走査線』等にも流用された、ティンパニが非常に印象的な"EM20"と云うサントラが何度も使われていますが、これでも出来れば別の曲を使用しても良かったのではないかと思います。これだとどうしても『エヴァ』の延長線上で本作を捉えたくなります。『ゴジラ』は『ゴジラ』で別物として、差異化を図っても良かったのではないでしょうか。庵野氏の意図としては寧ろその辺の絡みを意図的に出したかったのかも知れませんが、虚構同士が縺れ合っていては、それが何と対決しているのかが不鮮明になる惧れが有ります。



政治的意図の不在と祈りの欠如

 牧博士の遺影には、庵野氏が大ファンだと公言している岡本喜八氏の写真が使われていた様ですが、本作はその大枠の雰囲気に於て、岡本氏の『激動の昭和史 沖縄決戦』や『日本のいちばん長い日』の様な戦争群像劇に良く似ている様に思います。こう云う御時世なので本作が右翼か左翼かなどとネットでは色々と騒がれている様ですが、岡本氏はともかく、はっきり言って庵野氏本人はそう云う政治的な分類は大して意に介さないでしょう。彼はとにかく次々と新たな展開を見せる極限状況の中に大量の登場人物をぶっ込んでおいて、そこで彼等がどう必死になって足掻くか、そのことを一番に描きたいだけであって、人間の愚かしさと努力の崇高さの前には、現実の諸問題なんて二の次だと云う、良くも悪くも虚構に陶酔する愉しさを十分に知ってしまっている人間ではないでしょうか。その状況が偶々戦争であれば、その映画は「反戦映画」と云うキャッチフレーズで呼ばれるかも知れませんが、相手がゴジラでは何とも分類し様が有りません。そのことに対する言い訳や反省が、意図的にか意図せざるものかは判りませんが、本作では希薄なのは先に指摘した通りです。

 本作では非常事態宣言が出されて緊急立法が濫発されており(因みに当日、上映が始まる前に私が読んでいた本が丁度『よくわかる緊急事態条項Q&A』でした。偶然ですが)、これを以て「だから今の日本に非常事態宣言が必要だ」と云うプロパガンダだ、と捉える向きも有る様ですが、これは穿ち過ぎでしょう。裏を返せば、「ゴジラの様な非常識で非現実的な存在の出現でも仮定しないことには、この国には非常事態条項なんて必要有りませんよ」と云うことも言えるからです(尤も、論理的な思考が出来ない方々がその辺りの理屈を抜きにして持ち上げる可能性は有るでしょうが)。自然災害には、場当たり的な強大な指揮権の発動よりも、事前の入念なシミュレーションや訓練の方が遥かに大事であることは論を俟ちません。飽く迄、本作で描かれているのは徹頭徹尾虚構であり、フィクションであり、非現実的な出来事なのだとはっきり認識する必要が有ります。本作の観客は、自分達自身の現実と映画と云う虚構を対決させる必要が有るかと思います。私も、取材協力リストに小池百合子氏の名前を発見した時には「ゲッ!」となりましたが、軍事志向の極右政治にアレルギーを持っている観客であっても、またミリオタ的妄想が大好きな観客であっても、その辺は「所詮は作り事」と割り切って観ないと、何かとんでもない勘違いをするかも知れません。

 現実の政治を超越していると云う点と並んで気になるのは、本作の最終的なメッセージです。本作のラストシーンは怪獣映画の「お約束」で、山根博士の台詞の代わりに、ギーガー氏か諸星大二郎氏の作品を思わせる映像で状況を説明している訳ですが、そこには54年版『ゴジラ』に有った、また84年版『ゴジラ』にも多少は有った、「何故こんな愚行と惨劇が繰り返されるのか」と云う痛切な想いに基付く「祈り」の姿勢が希薄です。代わりに示されているのは、主人公の「また何か有ったらその時は………!」と云う「覚悟」です。これはどう解釈すれば良いのでしょう。

 「覚悟」とは、基本的に危難が訪れた時に、それに立ち向かう力を持った人間が持つものです。それに大して「祈り」とは、力を持った人間でも抱くことが出来ますが、力を持っていない者でも抱くことの出来るものです。54年は、日本はまだアメリカによる軍事占領から(名目的に)脱したばかりで、始まってしまった冷戦と核開発競争どころか、自らの国すらどうにか出来るか判らなかった時代です。84年は84年で、日本は経済力を手に入れて政治的にも何か偉くなったのだと勘違いして(84年版『ゴジラ』にはその辺の勘違いが如実に表れています)いましたが、冷戦構造はまだ終わるかどうか判らなかった時代です。『シン・ゴジラ』の作られた2016年、日本人は自分達の行く先を自分でどうにか出来る様な能力を獲得しているのでしょうか。

 皆が「祈り」ではなく「覚悟」を持つべきだ、日本人は皆自分の足で立ち上がって、主体的に自分達の未来を切り拓くべきだ、と云うメッセージであれば、それはそれで解ります。ですがラストシーンで「覚悟」を示しているのは、未来の総理に成るかも知れない男性だけ(或いはそれに、将来アメリカ大統領に成るかも知れない女性を含めても良いかも知れませんが)、はっきり言って社会的な強者そのものです。本人の性格自体は他者を貶めることを潔しとしないものでしょうが、その描かれ方には弱者に寄り添う視点が希薄です。笑顔で立ち上がる民衆の姿は一寸だけ描かれますが、虐げられ、生活を踏みにじられ、無残に生命を落として行った人達への哀悼の念はそこには有りません。新ゴジラそのものへの哀悼も無く、来るべき脅威だけが強調されます(尤も、ラスト1カットに関しては、別の解釈の余地が有るかも知れませんが)。観客が自己投影出来るのは精々未来の首相候補だけ、私はそこに危うさを感じます。54年と84年に『ゴジラ』を作った人達は、もう少し謙虚さを知っていました。先に挙げた様に、本作には評価すべき点も有ります。ゴジラ映画の中では間違い無く傑出しています。ですがこの様な理由から、私はこの「新ゴジラ」を、「真ゴジラ」と呼ぶには躊躇いを覚えるのです。
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『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』がちとガッカリだった件について(若干ネタバレ有)

 17日から公開が始まったヱヴァQ、割引時間帯を利用して観に行って来ました。

 結論から云うと、まぁ劇場でお金払って観たのは良いとしても、つい上映前にパンフレットまで買って余計な出費をしてしまったのは後悔するレベル。

 話の内容は、前作の終わりで何かヱヴァが永井豪の漫画みたいに成ってガイガンもどきのヱヴァが出撃してどうなるのかと思いきや、今回は旧劇場版の後に24話をやり直したみたいなもので、世界がプチ終わってしまった後のシンジの心の迷走に重点が置かれています。私としては、このシリーズはパラレルものかループもののヴァリエーションに落ち着くだろうと云う予想を立てていたので、主人公以外或る意味略全員新キャラと云う本作の設定はまぁ当たりだったのですが、いきなりのっけからこの段階で新フェーズに移行、と云うのは意外でした。もう少しサードインパクト絡みで何か展開が有ってから片付けるものだとばかり思っていたので。序と破の予告編を見る限りでは、多分に構成サイドも試行錯誤しつつ迷走しているのだろうなとは思っていたのですが、多分破からQに至るまでにも、大分路線変更が為されたのではないかと予想します。流れとしては、破でシンジがディラック空間に取り込まれる話とかも入れる積もりだったのが、ヱヴァが覚醒するとこまで描いてしまったので、その分Qの割当が全体的に拡大されたのではないかと。

 まぁ物語の「謎」を巡っては、エヴァなんて所詮は観客をケムに撒いてナンボみたいなところが有るので、始めっから観客置いてけぼりの流れに成ったところで今更何も言いいますまい。脚本の方も脚本の方で一生懸命なんだろうなぁと。一応それなりの「解釈」もしてみたのですが、必然的に長くなってしまい面倒臭いので省略します。どうせ新作の方まで待たないと解らないことだっててんこ盛りでしょうし、謎解きの手掛かりの提出は結局恣意的なものですしね、それにいちいち振り回されるのも癪です。最早我々が―――少なくとも私がヱヴァ新シリーズに期待するのは、十数年前に繰り広げられた挑発的且つ不毛な解釈・批判の波を繰り返させてくれることではないのではないかと思っておりますので。

 それよりも何よりも不満で消化不良の感を覚えた点は他に有ります。そもそもこのエヴァと云うシリーズに於て、登場人物の自己語りや内面描写が延々と続いたり、中二病的なオカルティックな万能感溢れる設定が長々と垂れ流れされても観客に許されるのは、予告で言われている様な「サービス」がたっぷり詰まっているからなのはないでしょうか。(お色気シーンとかは別として)例えば、上空を怪音を発し乍ら飛来するシンプルなデザインの怪物体とか、市街地での大障害競走とか、夕焼けをバックにした巨人同士の組んず解れつ取っ組み合いとか、そうした古き良き特撮マインド溢れるアクションシーンを存分に見せてくれるからこそ、エヴァと云うシリーズはあれだけの支持を得たのでしょう。それが今回は何せ舞台と成るのがナニがアレしてしまった後の世界で、しかも空中戦が多く、大きさの比較対照と成るものが無いので、巨大感がいまいち伝わって来ません。バトル自体も冒頭と終わりの2回しか無いし、激しく動くコマ割も特撮よりは寧ろVFXの感覚に近く、悪い意味で時代が進んでしまったなぁと云う感慨を覚えます。何か同時上映された『巨神兵東京に現る』の方が、ヱヴァ(あーこの綴り面倒臭い)本編でのサービス不足を補う為の言い訳に見えて来ます(『巨神兵~』の方も、映像はともかく何かセカイ系のポエムみたいのが林原閣下のモノローグとしてバックに流れるだけなので、この同時上映は多分に意図的なものだと思います)。

 要するに私が言いたいのは、「細かいこたぁ良いんだよ、もっと特撮を!」。旧劇場版『まごころを、君に』の後で24話をやった話を100分以上掛けて観たいか?と云うことなのです。批評系が好きな御仁にはこの展開でも良いのでしょうが、個人的にはさっさと話を進めてくれと。もうディスコミュニケーション描写は沢山だからと。状況説明を殆ど抜きにして語られる人間関係はもうお腹一杯なんですわ。

 で、結局この先どうなるんでしょうね。まぁ旧劇場版が意外にも「他者」としてのアスカが存在するハッピーエンドだったところから察するに、その乗り越えとして新ヱヴァシリーズが作られていると考えると、今回のアスカは(姓も違うし)シンジの対立項として主人公級に昇格するのではないかと。次回予告も何か2号機しか出てなかったし、アスカが恐らくは旧劇場版のラストと同様に左目を失っているのも暗示的ですしね。

 まぁ取り敢えず後少なくとも1作は作られる様なので、「バカシンジ」から「ガキシンジ」に格下げされてしまった主人公の行く末を、その時までは見守ってみることにします。後シンジ君、ピアノ弾けたのね。結構上手で羨ましいわ。

『グスコーブドリの伝記』が微妙な件について。

 何か物寂しい気分なので、先日観た映画『グスコーブドリの伝記』について書いてみます。

 『銀河鉄道の夜』は特別な映画です。個人的には日本アニメ映画のベストに推しても良いと思っています。何せあの淀川長治御大が自分からレビューを書かせてくれと頼んだたった2本の映画の内の1本なのです(因みに、もう1本はヴィスコンティの『家族の肖像』だそうです)。85年ですから今からもう30年近く昔の映画なのですが、今観ても全く色褪せていません。あだち充っぽいキャラデザの登場人物が何人か出て来る所を除けば、時代性を感じさせるところも有りません。宮沢賢治自身が作った歌や詩、エスペラント語表記が用いられ、登場人物の殆どがますむらひろしの脚色に則って猫として描かれ、抑えた沈黙描写を多用して濃密な幻想的時空を演出してみせたこの傑作は、今も尚大人の鑑賞に耐え得る数少ない作品のひとつとして、文句無くお薦め出来ます。私自身、最初に観客も疎らな小劇場の小さなスクリーンで観た時以来、何度も観返しては感動させられています。

 そんな訳で、同じく杉井ギサブロー監督が同趣向で、宮沢賢治のもうひとつの代表作、『グスコーブドリの伝記』を映画化すると聞いた時には、胸が震えたものでした。

 が、いざ観てみると、それ程感動はしませんでした。細部まで丹念に作り込まれた美術は素晴らしいし、一寸SFっぽい、と云うかスチームパンクっぽいところも有って(飛行船、モノレール、解釈学、潮汐発電、火山の噴火誘導、気候調整等々)、視覚的には傑作だとは思うのですが、『銀河鉄道の夜』を観た時の様な、胸をガーンと衝かれる様な衝撃が無いのです。その違いは何処に有るのか………。

 『銀河鉄道の夜』が比較的原作に忠実に描かれていたのに対し、今回の『グスコーブドリの伝記』ではアニメ独自の「幻想世界」が描かれ、特に後半部分の物語が結構書き換えられているのも一因でしょうが、やはり最大の違いは何かと考えてみると、音楽ではないかと思うのです。

 『銀河鉄道の夜』の音楽は、細野晴臣氏が自ら申し出て担当したそうなのですが、耳に馴染み易くシンプルで、且つ非常に幻想的な色彩の強い楽曲が全篇に亘って鏤められ、当時の杉井監督の傾向とも相俟って、非常に濃厚な「死」の雰囲気を演出していました。翻って今回の場合、この「死」のモチーフが何とも希薄で、実存の深みにまで迫って行く様な迫力が無く、通常の感動作のレベルに収まってしまっている様に思えます。音楽を担当したのは小松亮太氏で、確かに標準的な作品としては仲々に素晴らしい楽曲を提供してはくれているのですが、「不朽の名作」レベルにまでは達していません。これは期待をし過ぎた方も悪いのかも知れませんが………。

 以前『BSアニメ夜話』と云うテレビ番組で岡田斗司夫氏が指摘していらっしゃいましたが、杉井監督は『銀河鉄道の夜』のラスト近く、ジョバンニが叫ぶシーンで、大衆受けする路線に気持ちを切り換えたとか。私としてはあのシーンはあの映画唯一の瑕疵で、本来であればそっと呟く程度にしておくべきではなかったかと思っているのですが、どうもその辺の路線変更が関係しているのかも知れません、杉井監督の若さと云うことも有るでしょうし、とにかく全篇を貫く存在の沈黙が聞こえて来ないのです。人に依っては「あんなのは暗くてイヤだなぁ」と感じる方もいらっしゃるでしょうが、その暗さ、日常全般に蟠る沈鬱さこそが、あの大傑作の根幹だったのではないかと、今回比較してみて改めて感じました。

 一応フォローしておくと、『グスコーブドリの伝記』は決して駄作ではありません。通常の感動作としては平均以上の出来で、親子で鑑賞するのに最適!とお薦めするのには私も吝かではありません。ですが良い年こいた大人が夜中に一人こっそり観返してズーンと暗い涙に浸りたいなぁ、と云う場合にお薦め出来るかと云うと………。orz やはり『銀河鉄道の夜』はあの時代が生んだ一時の奇跡だったのかなぁと、少し寂しく思う次第です。












プロフィール

川流桃桜

Author:川流桃桜
怪奇幻想サイト『k-m industry 〜黒森牧夫の幻視風景』編集者。

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