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対話に最後通牒は無い。~安倍昭恵氏の沖縄・高江訪問について

 現在安倍政権による弾圧が続いてい沖縄・高江の基地建設反対派の住民の方々のテントを、安倍晋三氏と婚姻関係に有る安倍昭恵氏が三宅洋平氏に伴われて訪問した件について、もう少し書いてみようと思います。現時点で入手し得る最も詳細な報告はIWJの以下の記事です。

【速報!】「現場で何が起きているか知りたかった」安倍昭恵・総理夫人が沖縄・高江を訪問!~新ヘリパッド強行建設工事に反対する市民からは戸惑いの声――IWJが追ったその一部始終 2016.8.6

 先ず以下の動画を見て下さい。三宅氏は、昭恵氏をテントに連れて来ることについて、事前に代表者の山城博治の了承を得ていると主張しましたが、山城氏の主張からは、両者の意思の疎通が不十分だったか、或いは齟齬が有ったことが伺われます。

 山城博治 昨日8/6の安倍昭恵の訪問ほか 中継iwj okinawa1



指摘その1.本土の人間の殆どには情報が伝わっていない、と云う前提で動くべき。

 この山城氏のコメントについて、2点指摘したいことが有ります。先ず1分過ぎの辺りから、昭恵氏から晋三氏を諌めると云うコメントが欲しかったと仰っていますが、「ただ見学に来た」「挨拶は無しで」と断っている相手に向かって、最初から結論有りき連帯を求める姿勢は、ともすると相手を拒絶する姿勢とも受け取られかねません。対話は先ず相手の言うことを理解しようとする努力から始まります。その最初のステップを踏もうとしている相手に向かって、いきなり性急に「もう解っているだろう、味方してくれ!」とお願いしたり、それに対して相手から積極的な反応が無いことを以て「やはりこちらからは受け入れられない!」と云う態度を見せたのでは、話が先に進みません。民主主義とは単なる結論同士のぶつけ合いではない筈です。

 昭恵氏がどれだけ高江の問題について知っているかは私は知りませんが、少なくとも、日本本土の人間の、高江に関する関心と知識は総じて低いものと考えておいた方が良いと思います。長年、沖縄を差別し軽視する習慣がすっかり染み付いてしまっていますし、マスコミは最近では寧ろ積極的に問題を無視しようとします。全国的な世論調査は見たことが無いので以下の記事を挙げておきますが、この調査では回答者47人中、実に46人が、「高江を知らない」と答えているのです。日本人の圧倒的大部分は、今、高江で何が起こっているのか、その何が問題なのか、全く知らないと云う前提で物事を考えた方が良いと思います。

 「高江」を知っていますか? 意識高い系・杉並の市民に聞いてみた

 私は所謂「意識高い系」の市民ですので、マスコミが報じなくとも、普段から「防衛局や機動隊の無法行為はけしからん!」「高江は、日本の民主主義を守る闘いの最前線だ」と熱くなっている訳ですが、私の様な人間ですら、先月の7.11(参議院選挙の翌日、建設再開の動きが始まった日)以降に初めて知ったことは沢山有ります。昭恵氏が三宅氏から紹介されて観たと云う『標的の村』も、私はつい最近まで知りませんでした。知らないことについては義憤を感じ様が無いし、連帯の仕様も無い。高江の現場に集まっている方々は、高江の問題に関しては勿論十分な知識を持っているでしょうが、日本人の大多数はそうではないのです。知識が広く共有されていないのです。

 ならば、この運動を日本全国に広げようと思うのであれば、先ずは情報の共有と拡散が必要の筈です。恐らく高江から出たことの無い方々や、高江を中心にしか動いていない方々は、その辺の感覚が本土の人間と大分ずれていると覚悟しておいた方が良いでしょう。その意味では、三宅氏の様に、現場にも行くけど、他にもあちこち足を伸ばすフットワークの軽い協力者の存在は貴重です。現場に足を運ぶことだけが運動ではない。本土に拠点を置いている人間が、高江を訪れて、自分の目で見て、聞いて、感じたことを本土に持ち帰ってくれることは、仮令それがどの様な立場の人であったとしても、歓迎すべきなのではないでしょうか。

 基地建設に賛成する人であっても、いや寧ろ基地建設に賛成する人こそ、先ず高江のキャンプを訪れてみるべきですし、またキャンプの方々は出来ればそうした人々にも積極的に門戸を開いて頂けないだろうか、と云うのが私の考えです。仮に昭恵氏ではなく、安倍晋三氏本人が高江のキャンプを訪れたとしたら、反対派の住民の方々はどうなさるのでしょうか。追い返すのでしょうか、石を投げるのでしょうか、それとも1%でも対話の可能性が拓けることを信じて、自分達の主張を平和裡に、しかし断固として彼に伝えようと努力するのでしょうか。

 安倍政権が正面から対話を拒否する姿勢を崩さないことは、誰が見ても明らかです。ですがこちらからそれに呼応する形で対話を拒否してしまったのでは、相手の思う壷です。後は最終的に武力闘争にエスカレートするまで、ひたすら力と力の応酬になります。その様なシナリオを、高江にお住まいの方々や、今高江のことを心配している方々は望むのでしょうか。仮令空しいポーズに終わるかも知れなくても、そこに対話の可能性が1ミリでも見出せるなら、民主主義社会を擁護する者としては、その可能性を頭から否定することは、してはいけない筈です。あらゆる手を尽くして対話の可能性を探るのは、民主主義社会に於ける闘争の基本です。結果を求めたい気持ちは誰でも一緒ですが、一足飛びに連帯を求めようとしても無理なのです。先ずは手順を踏まないと。



指摘その2.昭恵氏が「安倍晋三氏と婚姻関係に有る」と云う理由で排除されるのであれば、次は誰が?

 2点目。30過ぎから、昭恵氏が晋三氏の連れ合いであるから、一人の市民としては認められない、と云うことを仰っています。ですが日本に於て首相夫人、所謂「ファーストレディ」と云う存在は、公的な制度として確立されたものではありません。近年は昭恵氏の行動が目立つので、「何かファーストレディぽい」と云うだけの理由で「ファーストレディ」と呼ばれているだけです。彼女は政治家でもありませんし、公務員でもありませんし、何を代表している訳でも、何の責務を負っている訳でもありません。勿論高江の弾圧の決定を行ったのは彼女ではありませんし、「現首相の妻」(実態は仮面夫婦だと云う報道も有りますが)と云う肩書きだけで彼女が責められる謂れは無い筈です。

 勿論、彼女自身が高江の弾圧を擁護する発言を繰り返していたり、晋三氏に弾圧を進言していた場合には話はまた違って来ますが、今のところそうした情報は伝わって来ていませんし、彼女自身の何等かの具体的な言動が高江の弾圧に直接繋がっている訳ではありません。実際、今回彼女の行動を非難している人達の言い分を見てみても、その殆どは、彼女自身の言動によってではなく、彼女が現首相と婚姻関係を結んでいる人間だから、と云う理由で彼女を裁こうとしています。その人自身の言動ではなく社会的属性によって判断を下すのは、平等主義の精神に反します。その人自身の独立した個としての人格を認めていないと云うことです。

 何か犯罪事件が起こった時に、容疑者の家族が涙ながらに世間様に向かって謝罪をする、と云う風景が連想されます。自民党は先の東京都知事選で、小池百合子氏を支持した者はそれが親戚であっても除名する、などと云う前近代的な馬鹿気た布告を出して一部の市民の失笑を買いましたが、あれと同じ様な愚行を、民主主義を守って闘う側に居る筈の人間がわざわざ自分からやらかす必要なんてこれっぽっちも無い筈です。安倍昭恵氏は公人ではありません、公人と家族関係に有る多少有名な私人にしか過ぎません。

 1.で指摘した件に関しても、恐らく「彼女は普通の人より権力に近い立場に居る人間なのだから、一般の国民よりも、予め高江の問題について詳しい知識を持っていて然るべきだ」と云う批判が有り得るでしょう。彼女が安倍晋三氏に「近い」のは飽く迄私的な関係であると云う点は私的しておかねばなりませんが、それを措いたとしても、そう主張する方々は理解しておられるでしょうか、そうしたことを言い始めるのであれば、事態がここまで悪化するまで沖縄を巡る差別構造を放置し続けて来た日本本土の一般市民全員が、消極的共犯者であるとも言えることを。

 弾圧者に対して私的に近しい関係に居るのに、その問題に関して何も言わないでいるとしたら、確かにその人はその不作為の責任を問われるべき理由を持つことになります。ですがそれは程度問題なのです。昭恵氏がその不作為、詰まり弾圧への消極的加担の故に責められるべきだと言うのであれば、それは原理的に、今高江で機動隊と衝突していない日本人全てについても言えることなのです。私が今ここでこうしてこんな記事を書いているのも、ひとつにはそうした後ろめたさを、嫌な程に自覚しているからなのです。昭恵氏が排除されて然るべきだと言うのであれば、私の様に日本本土でこうやってブログやSNSで情報を拡散したり、機会が有れば周囲の人間に話をしてみたり、たまに空いた時間にデモをする程度の人間は、若し仮にこれから高江に行ったとしても歓迎されるのでしょうか? 座り込みのひとつも経験していない本土の人間なんて駄目だ、帰れ!と言われるのでしょうか?

 それでは連帯は広まり様が有りません。自分達から自分達を分断する様な真似をするべきではないのではないでしょうか。互いの違いを乗り越えて、対話を通じて共闘出来る部分を何とか探るのが、民主主義を奉じる市民の本来の闘い方でしょう。その為には相手を先ず一個の独立した人格、互いに対等な一市民として認めることです。相手の属性を見てそれを頭ごなしに拒否していたのでは、結局は民主主義の自殺に繋がります。先の都知事選でも、出馬を取り止めた宇都宮健児が密室的な今の市民運動の体質について批判しておられましたが、あれも似た様な問題です。閉鎖性は連帯の拡大と持続にとっては敵であると言えるでしょう。民主主義社会を私達の手に取り戻す為に目指すべきは、可能な限り開かれた運動ではないでしょうか。

 「日本の市民運動はもっと利口になれ」宇都宮健児氏、都知事選を振り返る



もっと心をオープンに。

 今直ぐこの状況で昭恵氏が晋三氏に何か言えるとか、言って何かが変わるとは私も考えていません。ですがどうせ変わらないなら、試してみたって良いことは有る筈です。今回昭恵氏の訪問を非難している方々は、どうかその絶望しか見えないかも知れない光景の中に、一縷の希望を見出す努力をしてみて貰えないでしょうか。どうせ実らないからと云って種を播かずにおけば、何も実り様が有りません。

 無論、昭恵氏が想像以上に策士で、今回の訪問も全て晋三氏は承知の上で、安倍政権の仕込みによって行われたのであって、後日安倍政権を擁護する為の「ガス抜き」としてのプロパガンダに利用される、と云う可能性は考えておかないとなりません。結局オバマ氏の広島訪問の様に、真逆の実情から大多数の国民の目を逸らさせる為の目くらましにかならなかった、と云う結果に終わるのであれば、その時は今回私も含めて三宅氏を支持している人達は、自らの状況判断の甘さを反省しなければならないでしょう。「敵」の狡猾さを見抜けなかったとしたら、その責任はきちんと引き受けないといけません。

 その上で改めてお願いします、自分達を分断し、傷口を拡大することに繋がる様な言動をする前に、少し立ち止まってみて下さい。「敵」を一人の個人として、独立した人格として捉える努力をしてみて下さい。民主主義を守ると云う名分の下に民主主義を破壊するかも知れない可能性についての考えを、常に頭の片隅に入れておいて下さい。ナイーヴ過ぎると云う批判は覚悟の上ですが、対話に最後通牒を作ってしまってはいけないのです。

 最後に、三宅洋平氏のメッセージを確認する為の動画をひとつ挙げておきます。昭恵氏訪問の前日にアップされたものの様です。

 三宅洋平にケチつける泰 真実
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三宅洋平氏と安倍昭恵氏が沖縄・高江を訪問した件についての呟き

 一部のネット上では既に大分大変な騒ぎになっている様ですが、沖縄・高江に対する弾圧を強める現政権のトップ・安倍晋三氏と婚姻関係に有る安倍昭恵氏が、8/6(土)18時45分頃、三宅洋平氏に同行されて基地建設に反対する住民の方々のテントを訪れました。普段から沖縄問題に関心を持って高江の状況をウォッチしている人達の反応は、非難囂々、呆れと口惜しさで三宅氏を罵倒すると云うものが殆どの様ですが、私は三宅氏の行動を擁護する立場から少しTwitterで何度か連投を行いました。別に改めて記事を書く積もりですので、その前に主要な呟きを纏めておこうかと思います。


連投その1

 ‪三宅洋平‬氏が最初に‪安倍昭恵‬氏と会った際、私は「殆どのリベラルには出来ない芸当」だと評価しましたが、今回また明恵氏が三宅氏を訪問した際の周囲の反応を見てみると、やはりこう云う仕方での敵陣営との接触は三宅氏でなければ出来ないのだろうと思います。
 敵側とは敵対するのが当たり前だし、筋を通したいならそれが当然であると、理屈を重視する人間は考えるでしょう。斯く言う私もそう。でも三宅氏の場合、敵を包摂して口八丁で心を開かせて、本当に対話の道を拓いてしまうかも、と期待させてくれるところが有ります。
 なので三宅氏の行動については今はこれで良いかと思います。同じ国民同士、ガンガン敵対と分断を拡大させて行く遣り方は皆がやってます。一人位違うことをやってたって良い。
 戦略に多様性は大事だし、「そんなことやらなくても勝てる!」と言える程、今の私達は強大ではない。第一、脊髄反射的に異分子を排除するのは、民主主義の精神に反する。闘いは大事ですが、作らなくても良い敵を増やす必要は無いでしょう。


連投その2

 まぁ‪三宅洋平‬氏の今回の略スタンドプレーに関しては状況の一部しか報じられていないので、今後三宅氏側からどの様な報道が有るか、どの様な動きが予定されていたのかと云うことが判明するまで、大した判断は出来ないでしょう。
蓋を開けてみたら結局オバマ氏の広島訪問的なものでしかなかった、と云うのであれば、私も少し三宅氏の評価を改める必要は有るでしょうが、何れにせよ事前の根回しの薄さは否めないでしょうね。
 この「根回しの薄さ」と云うのも一面では魅力ではあるのです。「舞台裏」を敢えて作らず、その場その場で真剣勝負を行ってくれる、と云うことだから、純粋な想いを託したい層は共感し易い。「そんな甘っちょろいことを」と言われそうではありますが仕方が無い。


連投その3

 私も昭恵氏のことは良く知らないし、今後の展開がどうなるかにも依るので、現時点で彼女の評価を定めてしまう積もりはないのだけれど、今回昭恵氏を非難している人達は、彼女自身の言動によってではなく、彼女が「弾圧者の妻である」と云う属性で裁いてしまっている。
 これは少なくとも民主主義社会を担う市民としては、フェアな批判の仕方ではないでしょう。
 先の選挙で自民党が「小池氏を応援したらそれが親族でも除名処分」などと云う前近代的なルールを持ち出して来て「北朝鮮かよ!」と失笑されたのは記憶に新しいですが、反安倍派まで「個人の罪は一族郎党まで及ぶ」みたいなことを言い出してどうするのですか。
 確認しておきますが、昭恵氏が「現首相と婚姻関係に有る」と云う理由から社会的影響力を持つ様になっているのは事実ですが、それには何等公的な権力の裏付けが有る訳ではないし、彼女は何を代表している訳でもないし、何の公的責務を負っている訳でもない。
 政界進出経験も無く、また今後政界に進出する予定も無い。夫を支持する様な言動はして来たかも知れませんが、彼女の行動は、飽く迄一市民の行動として捉えてあげないとフェアではないでしょう。
 彼女自身が高江での弾圧を正当化し、沖縄市民を愚弄したり非難したりする様な言動を繰り返して来たのならまた話は違うかも知れませんが、今のところそう云う話は耳に入って来ない。
 ならば彼女が高江に来たこと自体で責められるべきだと云う主張は、凡そ民主主義的ではないと私は考えます。
 そもそも、何故今井絵里子氏には「沖縄に来い!」と怒っておきながら、昭恵氏に対しては「沖縄に来るな!」なのですか。どうせならそこは「旦那と一緒にもう一回来てくれ!」と伝えるべきとろこではないのですか。
 高江で起きていることについてどの様な見解を持っている人であろうと、日本人は全員高江に行って、そこで繰り広げられている現実を直視すべきだと私は考えます。物理的にはともかく、心構えとしてはそうあるべきではないかと。
 ネトウヨだって安倍支持者だって高江で何が起きているか知るべきだし、勿論安倍晋三氏だって、いや寧ろ安倍晋三氏こそ率先して、高江に行って反対派のキャンプの中に足を運ぶべきではないのですか。
 安倍政権に対話を行う意思が無いことははっきりしています。だからと云って売り言葉に買い言葉で、反対派の方からも対話への可能性を潰してしまってどうするのですか。こちらから武力衝突でも望むのですか。
 それに対話や交渉や歩み寄り無しで、全面衝突だけで勝てるとでも云うのでしょうか。戦略的にも狭隘な了見だと思います。勝つ為にはあらゆる手札を揃えておく、その覚悟と具体的な準備が必要でしょう。感情は大事ですが、憎しみだけでは差別には勝てない。
 その辺の包摂性への道筋のひとつを三宅氏と昭恵氏が用意してくれた、と考えることが何故出来ないのか、何故敵対感情の赴く儘に想定他者(仮想敵)を自分から排除してしまうのか、その辺が私にはどうにも納得が行きません。
 昨日も呟きましたが、「対話に最後通牒は無い」。自分から対話を拒絶した時に初めて、対話は「不可能」に成る。今のリベラル派はそれで失敗を繰り返して内ゲバの果てに弱体化して来たのではないですか。
 普段は理屈を重視している様で、肝腎なところで自分に制御出来ない感情に振り回されて分断して自滅する。私自身への反省も含めて、良識派を自認する人達がそうした愚行を積み重ねて来た果てに、今の安倍反知性勢力の跳梁跋扈が有るのではないでしょうか。

辺野古の座り込みデモ襲撃事件に於ける警察の不作為 ~法治主義の時代は終わるのか?

 15/08/19(土)深夜、ツイッターのTLに衝撃的な画像が流れた。沖縄の辺野古で座り込みデモを続ける抗議者達を右翼が襲撃、テント等を滅茶苦茶に破壊したと云うのだ。現地の模様を実況するツイキャス映像では更に衝撃的な情報が伝えられた。警察に通報したのに、まるで取り合ってくれないと云うのだ。少なくとも数十人以上が目撃した筈だが、TLには「何故こんなことをするのか」と云う悲痛な叫びや、「刃物を持った男が暴れてるのに何故逮捕しないんだ!」と云う批判の声が溢れた。

 翌日のメディアでこの事件を報じたところは殆ど無かった。真っ先に報じたのは沖縄の地元誌で、沖縄タイムス琉球新報。全国メディアでは辛うじてNHK朝日が報じた様だが、NHKは襲撃者が街宣車に乗っていたことには言及せず、単なる酔っ払いの犯行である様に報じている。また後の2つでは、警察が最初の通報を受けてから現場に駆け付けるまでに何と6時間以上も掛かったと云う点には一言も触れられていない。更に遅れた時事通信では、何故か「ゲート前で警備していた警察官が騒動に気付き、駆け付けた」となっており、こちらも、それ以前に何度も通報が有ったことを報じていない。

 今回の事件に対して重要な点は2つ。曲がりなりとも非暴力的な抗議行動に対して物理的な実力による攻撃が加えられたと云う点と、それを警察が故意に防がなかったと云う点だ。私の見る限りでは、前者の様な悪質な暴力行使も勿論問題だが、より重大なのは後者の方だ。警察と抗議市民達にはテントの設置等を巡って前々から緊張関係が続いていたことは周知の事実だが、若しそれが今回の出動の遅れに繋がったのであれば、これは明らかに警察の不作為であると言える。反日沖縄人の陰謀だとネトウヨはまた騒ぐかも知れないが、ネットで大勢が目撃していたことは先に述べた通り。器物破損と傷害の現行犯であって、現場で判断に迷う理由が有ろう筈も無く、対応に当たった警察官は公式に釈明をすべきだろう。テントの設置が違法であるかどうかも今回は全く関係が無い。テント撤去の警告が正当なものであるかと云う点については私は疑っているが、仮に相手が犯罪者であったとしても、「犯罪者に対しては犯罪を犯しても良い」などと云うルールは、この国のどんな法律を引っ繰り返してみても出て来ない。どんな主義主張が有ろうとも、暴力による言論の弾圧は厳重に禁じられるべきだ。

 警察の故意の不作為は、右翼の犯罪よりももっと恐ろしい。警察が市民をその主義主張の如何に関わらず平等に遇しなければならないことは、憲法14条で国民の平等が宣言されている限り当然なのだが、その大原則が破られた、と云うことだ。先日大雨被害が出た際に、ネットでは「安保法制に反対する市民も救助するなんて、自衛隊は偉い」などと云う、安倍支持派による妄言が流れたが、その時は「何をバカなことを言っているんだ」と唯批判して切り捨てることが出来た。だが、若し日本国内の暴力装置や司法制度が、為政者を批判しているか否かで市民に対する処遇を変えたとしたら、これは実質的に治安維持法が施行されているも同然だ。警察や自衛隊が「どんな市民も平等に扱う」ことを「立派だ」とわざわざ褒めなければならない時代が来るとしたら、その時は日本は暗黒時代に突入したと云うことだ。隣国中国の言論弾圧を嗤う資格なぞ無い。為政者のみならず、末端の公務員や市民自らがその弾圧に加担する「空気」が蔓延する未来が、私には容易に想像出来る。これが杞憂なら良い。後から思い返して「心配し過ぎだったか」と苦笑すれば済む。だがこれが現実になった時のことを考えると、私は少なからず戦慄を禁じ得ない。



 国会で強行採決されたばかりの(「採決」と呼んで良いのかさえ不明なのだが)安保法案も同じ様なものだ。「憲法守って国滅ぶ」と支持派は言うが、憲法はこの国の在り方を規定する根本的なルールであり、国の形、国の枠組み、大日本帝国風に言うなら「國體」だ。それがその時々の為政者の判断で如何様にも解釈出来ると云うのであれば、憲法の下に制定されているあらゆる法律も恣意的な運用が可能になる。詰まりは立憲国家、法治国家としての土台が揺らぐと云うことだ。これが意味することの恐ろしさを理解出来ない人が居るとすれば、余りにも無知、余りにも想像力不足であって、歴史から何も学んでおらず、平和ボケして正常な判断力が失われてしまっているとしか私には思えない。

 ここで安倍氏の先例に倣って、バカにでも解る様に、これを日常生活に置き換えて説明してみよう。或る村の駐在所に勤務する警察官が、或る日突然こんなことを言い出したとする。

 「皆聞いてくれ。最近世の中色々と物騒になって来て、いちいち法律なんか守ってたんじゃ間に合わねェ。これからは俺が法律だ。何が犯罪で、誰が犯罪者で、犯罪者をどう処罰するかは、その時の気分で、その場のノリで、俺が決めることにするから、宜しくな!」

 これを聞いた村人達はどうするだろうか。彼等にまともな判断力が有れば、仮令その警察官がどれだけ個人的に親しい間柄で、個人としては「良い人」であったとしても、頼むからどうかそんなバカな真似はやめて正気に戻ってくれ、と必死になって懇願するだろう。第一その警察官には、そんなことをする権限も資格も与えらていないのだし、そんなことをして貰おうと思って村人達は彼に警察官でいて貰っている訳ではない。飽く迄既存のルールに従って、きちんと法律を守って、法律を破る者を取り締まる為に警察官でいて欲しいと思っている筈だ。

 更にその警察官がこう付け加えたとしたらどうだろう。

 「俺一人じゃあどうも心許ねぇから、隣町の大親分さんに話をつけて、『血の杯』を交わして来らァ。俺っちが親分さんに取り入って目を掛けて貰える様な働きをすりゃあ、この村も安泰ってもんよ。実は親分さんは今幾つかの組と抗争の真っ最中でな、迂闊に近付いたりしたら本当は危ねぇんだが、なァに、俺はしっかりしてるから、危なくなったらきっぱり断ってサッサと逃げて来らァ。何も心配は要らねェよ。」

 村人達が直ぐ様彼を取り押さえて警察官の肩書きを剥奪しようとしなかったとしたら、それこそどうかしている。

 法の恣意的な解釈や運用とはこう云うことだ。個々の解釈者や運用者の勝手なその場の判断で法が捩じ曲げられ得るとしたら、それは最早法ではない。その社会は法治社会から人治社会へと変貌したと云うことだ。今日本国と云う国で起こっていることはこう云うことだ。こうした状況に多少なりとも危機感を抱く人間が「平和ボケ」などと逆に罵られる状況は異常だ。日本国民の中には、グローバル化した21世紀の国際社会と云う現実よりも、時代劇や西部劇の中に住みたいと思っている者が大勢居ると云うことなのだろうか。



 安保法案が無法に強行採決されてしまったことにされてしまった直後、南スーダンでのPKO活動に従事している自衛隊員に対し、武器の使用が大幅に緩和された。元々法的に問題の有った自衛隊を、場当たり的なPKO法案と云う法律で正当化して海外派遣を行うと云う無理を行って来たのがこの20年間の歩みだが、法的な不備が有るのを、現場の知恵と工夫で何とか穏便にやり過ごして来た、と云うのが実情だと聞く(イラクに派遣されたヒゲの隊長こと佐藤正久氏の様に、平和構築任務の何たるかを全く理解していない武闘派も中には居た様だが)。その一方で各地のPKO活動は益々武力行使の方向に傾きつつあり、現地の緊張感は20年前より格段に増しているとも聞く。そんな中で、自衛隊のPKO活動そのものの意義を問い直す作業もせず、「危険になったらしいからとにかく武器を使えるようにしよう」と云う発想で行われたのが今回の措置。武器を持ったその後、自衛隊員の誰かが殺されてしまった後や、自衛隊員が誰かを殺してしまった後のことについては殆ど想定しておらず、具体的な方針や対応に幾つもの問題を抱えた儘、必要な法整備を行っていないのが現状だ。

 また、PKO活動は基本的に治外法権で行われるのだそうだ。現地の法は、派遣された部隊に対しては適用されない。沖縄に駐留している米軍と同じだ。「在日米軍裁判権放棄密約」により特権的に守られていた米兵が犯罪を犯しても起訴もされない、裁判にも掛けられない、と云う状況に対して、多くの沖縄県人は怒り心頭に達していた訳だが、その例からも解る様に、軍法を持たない非常識極まり無い武装組織である自衛隊が、若し現地で何かトラブルを起こした場合、ひとつ対応を間違えれば、現地での自衛隊の評判は一気に地に墜ちる可能性も有る。武器使用の緩和は、そのリスクを飛躍的に増大させる。その場凌ぎが出来れば任務は達成される訳ではない。任務の大義や法的正当性そのものが疑問視されれば、幾ら自衛隊員や他の国の兵士の生命が守れたとしても、任務としては意味が無くなる。何の為にわざわざ危険を冒して海外に派遣などさせたのか、と云う話になる。本当に自衛隊に他の「普通の国」の軍隊が陥っている様な泥沼に足を突っ込ませたいのであれば、自衛隊法と憲法第76条(第2項「特別裁判所は、これを設置することができない」)をそもそも改訂する必要が有る。安倍政権はそのことを検討しているだろうか。仮にやっているのであれば、武器使用の緩和を認める前に、厳密な法整備を行っておくべきだった。

 市民が政治家に政治を丸投げする「お任せ民主主義」も大問題だが、政治家が穴だらけの法律の枠内で自衛隊を派遣し、「後は良きに計らえ」とばかりに丸投げする「お任せ自衛隊派遣」も問題だらけだ。法は現場判断だけで適当に解釈・運用して良いものではない。況してや、それ以前の立法作業を良い加減にやって良い筈が無い。今の安倍政権には、そうした意味で法一般に対する正常な畏敬の念や現実的な戦略的眼差しが決定的に欠如している。

LEARN OR PERISH. ~9条と市民運動の更に先へ~

 さてこれだけ国内の情勢が騒然として来ると、アメリカの方も無関心ではいられないのではないかと推測する今日この頃。安倍氏が公然と鉤十時を振り翳したりヘイトスピーチを撒き散らす支持者達のことを恐らく厄介に思っているであろうのと同様、アメリカの方でも、今のどちらへ進むのか良く解らない、暴走の可能性も有り、しかも国内の人心の掌握も碌に出来ないしやる気も無い指導者に率いられた日本から幾ら一方的に熱烈なラブコールを送られても、正直言って迷惑に思う部分が大きいのではないだろうか。

 第一、実態はどうあれ、自由と民主主義を至上の価値とするアメリカの建前はまだ生きている。幾ら地政学上の目的を達する為とは云え、それを公然と踏みにじってヒトラー紛いの法的・政治的クーデターを敢行して見せる安倍氏の振る舞いに対しては、この儘続けば何れ国際的な非難の声が高まって来るだろう。その時、国内の反撥世論に対して強硬な姿勢を取り続けたとしたら、非難の矛先がやがてアメリカにまで飛び火し、これまで従順なポチであった日本の国内から反米の声が上がりかねない。

 アメリカが望んでいるのは安定した進出拠点としての日本であって、その肝心要の安定性を捨ててまで要らぬ友情を押し付けられて来たとしたら、日米関係がそれで冷え込む可能性は十分に有る。下手をすると完全に呆れられて、ニクソン訪中の時の様に、アメリカと中国との間で、日本の頭越しに対話路線をどんどん進められてしまって、気が付いたら日本だけが取り残されてしまっていた、と云うシナリオだって有るかも知れない。残念乍ら安倍政権がそうした可能性を想像出来ているかと問うてみると、まぁ10人中10人がNOと答えるだろうと云うのが現実だ(そんな可能性は考慮するに値しない、と安倍政権を支持する人も多いかも知れないが)。

 その一方で、安保法案反対派の方はどうか。日本での抗議行動は自民党の違法な国鉄組合潰し以来最早絶滅の危機に瀕しているものと思われていのだが、21世紀になってから世界各国で様々な新しい形態の抗議行動が出現する様になってから、先例に触発されたのか、幾つもの試行錯誤が行われて来た。特に3.11以降、これからの時代のあるべき抗議行動の在り方を模索する努力が実を結んで来たのか、具体的なルール設定や実際の行動が実にスマートになって来ている。非暴力路線はその最たるものだ。ことここに至って緊張感が増して来た所為か、中には過激な行動に出る者も出て来た様だが、まだ極く一部に過ぎない。寧ろ国会内の野党議員連中の方が、今だ旧態依然とした武闘派体質を捨て切れずにいる者達が多い位だ。

 非暴力は、暴力装置をそれに対する弾圧や抑圧に利用しようとする為政者の野蛮性を際立たせる。「武力や暴力では問題の解決には成らない。寧ろ頭と勇気を持って丸腰でいることこそ、最強の戦略だ」と云うことは、グローバル化した世界の中で20世紀的な勢力圏闘争が哀れな失敗を続けている今の国際社会の力学としても当て嵌まることだと思うが、これは社会運動一般についても言えることだ(日本の場合、社会運動で得られた教訓を国際社会全体に敷衍して行くと云う可能性も拓けている。私見では、その為の最大の武器が日本国憲法第9条なのだ)。人の心を建設的な方向に持続的に動かすのは剝き出しの怒りではなく、制御され、武装放棄した、持続的な怒りだ。言論や思想が現実を変える力は目に見え難く、その歩みは遅々たるものだが、各地での数々の成功例が、力を持たぬ者達の希望と意欲を掻き立てている。その進化と増殖は、武力による紛争の解決が今だ失敗と迷走を続けているのと対照的だ。広範な情報の共有に支えられた共感の広がりは、どんなイージス艦でも勝てない無敵の盾を形成する。

 また最近デモや集会で掲げられるプラカードには英語で書かれたものが多いが、これは上手い戦略だ(中には唯「何となくカッコ良いから」と云う理由で英語を使っている人も居るだろうが)。今の抗議行動は世界中で繋がっている。NYや中東諸国や香港で起きた抗議行動は、世界中にその情報が発信され、日本だろうと何処だろうと、ネットやマスメディアを通じて、その熱気や心意気や戦術や思想が共有される。今日本で起きている抗議行動の眼差しは、日本の国会に向けられていると同時に、国際社会、或いはグローバル化した世界共同体の同志達に向けられている。これには国内の既存のメディアに対する失望や不信感もその背景に有るのだが、と同時に、自分達の手で自分達の意思や思想や信条を発信し伝達する手段が世界規模で確立しつつあると云う要因がやはり大きい。その方面では、英語は今や世界共通の抗議言語になりつつある。マスコミが各種の抗議行動の様子を動画や写真付きで報じる時、そこに英語で読み取れる文字が有れば、彼等の主張は見る者の目にとってより身近で、具体的で、理解可能なものとなる。

 少し話を広げさせて貰えば、これは強大な権力を持たぬ市民運動が「国際的な」アピール力を獲得する様になって来た、と云うだけの話に留まらない。その効果や戦略を超えて、今、我々自身の意識のスケールを調整する試みが、こうした様々なネットワークの構築によって行われている。今の時代の抗議者達は、一種のコスモポリタンな実存体験の巨大な実験場として、自分達の抱える個々の社会を問題利用していると言っても良い。この流れは不可避のものだし、当人達がそれを自覚することによって、何倍にも加速され得る。国籍や民族や性別や階級等によって分断され得ない、世界市民としての経験と意識の実績が、既成事実として積み重ねられて行く時、それは人類全体の過去と成り、共有財産と成る。そこでは個々の成功や失敗でさえ、第一義的に重要なものではない。成功と失敗、そのどちらからも、人類は学ぶことが出来る。冷静な理性に基付く対話と熟議がそれを可能にする。世界の歴史の潮流は今や、それが実際に可能のだと云うことを日々教えてくれている。

 今日本で起きていることは、日本だけで起きていることではない。それは普遍的な価値を構築し、共有し、多様性と手を携えた調和を望む全ての人類が分かち合う、ひとつの巨大な実験の一部なのだ。それと同時に日本と云う国は、仮令欺瞞と隠蔽に塗れて既にボロボロになっているとは云え、世界の他のどの国もまだ持っていない、時代の最先端を行く強力な普遍的価値、普遍的戦略を有している。憲法9条だ。本来であれば国連憲章とセットとして考えれば、70年前に実現されていなければならなかった世界平和へ至る道筋は今、冷戦も終了しグローバル化の津波が世界のあらゆる国に押し寄せている現在になってようやっと、現実問題として可能かも知れない、と云う希望が見えて来ている。曙光は既に差しているのだ。

 武力の放棄、戦力の否定は、真の意味で全世界共通の秩序を打ち立てる上で、遅かれ早かれ議論の俎上に載せられる。その時、日本人は圧倒的に優位に立っている。世界の世論をリードして行くだけの力が、日本には秘められている。その強みを自ら手放す様な愚かな真似を、日本国民は為政者にさせてはならない。それは曲がりなりにも日本国憲法と云う根本的ルールのに築かれていた日本国と云う国の歴史を否定することであると同時に、これからの人類の歴史全体に対する裏切りでもある。

 我々が今問われているのは個々の選挙の結果などではない、もっと大きな、未だ来ぬものからの呼び掛けへの応答なのだ。その為には唯9条を守れば良いと云うのではない、旧来の護憲派が堅持して来た立場だけでは不十分だ。一国平和主義、或いは日米含めた二国平和主義から脱して、グローバルな意味での積極的平和主義を推進する為の戦略と思想を、これから我々は具体的に錬って行かねばならない。その機は今正に熟しつつある。

国会前デモに対する警察の過剰警備に関する短いメモ

 09/14(月)の国会前のデモのことなのだが、警察はまたしても鉄柵で国会前を封鎖すると云う明らかな過剰警備を行い、デモに詰め掛けた人々が歩道に閉じ込められ、ぎゅうぎゅう詰めで危険な状態に陥ると云う事態を招いた。結局は08/30(日)のデモと同様、鉄柵は決壊し、ようやっと国会前の車道に人が溢れると云う結果になったのだが(ひょっとしてこれは19時のNHKのニュースに、車道が人で溢れている画像を出したくなかったからではないか、と云う邪推のひとつもしたくなる愚行だ)、ネットでは再び、例えば「#鉄柵どけろ」等のハッシュタグを見ると判る様に、「警察の設置した鉄柵を突破したのは怪しからん!」と云う、デモの参加者を非難する安倍支持派の声が溢れている。まぁ相変わらず安倍陣営は学習しないなーと云うのが正直な感想なのでいちいち相手をして反論する気にもなれないのだが、デモ支持派の中にも、鉄柵突破は正しいことなのかいけないことなのか、いまいちはっきり説明出来ない人も居る様なので、自分用の備忘録も兼ねて、簡単にメモを記しておく。



 先ず08/30(日)のデモに於ける警察の過剰警備について、具体的に次の様な抗議や追及が為されている。

8月30日の警備について、および今後の国会周辺での抗議行動についての申し入れ
‪【参・外交防衛委】藤田幸久(民主)「国会前抗議行動の警察の過剰警備に関して」20150910‬


 他にも有るが、取り敢えず基本的論点を押さえた上記2つにしっかり目を通しておけば、余計な混乱は大分省くことが出来ると思う。上記の主張は、ではどう云った法的根拠に基付くのか。これは反対派の主張を検証して行った方が話が早いだろう。ネットに溢れる殆どのデモ批判者の声は、「警察の決めたことに逆らうなんて、あいつらは無法者だ!」と云う、脊髄反射的な単なる罵倒なのだが、例えば東京都議会議員のおときた駿氏は、或る程度筋道立てて批判をしている。

国会前デモは、そもそも『デモ』ではなかった?!「表現の自由」で、公道の占拠は許されるのか

 「警察の決めたことは守らなきゃダメ! だってこれこれの法律でこれこれこう云う風に定められているから!」と彼が挙げているのは、悪名高い東京都の公安条例。どんな代物かと云うと、こんな代物。

集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例

 見れば判る通り公布が「昭和25年」と何とも実に古い条例なのだが、お察しの通り1950年は朝鮮戦争の年。これはGHQがアメリカの意向に逆らう異分子を弾圧する為に作ったルールなのだ。そもそもこれは違憲ではないかと云うことが過去に何度も裁判で争われていて、今のところ違憲判決は出ていない様なのだが(日本の裁判では取り敢えず違憲判決は出さないのが暗黙のルール。司法関係者はきちんと三権分立に基付いて仕事して下さい)、最近では2009年の麻生邸見学ツアー参加者の不当逮捕事件でも争われていて、運用する者の判断や裁量に依っては濫用の可能性が高く、極めて問題の有る条例だ。

麻生邸リアリティツアー事件国家賠償請求訴訟団
麻生邸RT事件国家賠償請求訴訟団‪@asoukokubai‬


 なので東京都の公安条例を若し法的な根拠として持ち出す為には、当日のデモが「公共の安寧を保持する上に直接危険を及ぼすと明らかに認められる場合」であることを立証する必要が有る。

 但し先に一言断っておくと、事前に公安に対して申請しているかどうかは、この際一義的な問題ではない。第六条を見てみよう。

 「第六条 この条例の各規定は、第一条に定める集会、集団行進又は集団示威運動以外に集会を行う権利を禁止し、若しくは制限(略)する権限を公安委員会、警察職員又はその他の都吏員、区、市、町、村の吏員若しくは職員に与えるものと解釈してはならない。」

 詰まり、仮令無申請、無許可のデモであっても、それ自体を理由にしてそれを禁止したり制限したりする権限は何処にも無いのだ。問題はデモが具体的に「公共の安寧」を乱すかどうか、「公共の秩序」に反するかどうかなのだ。



 公道の占拠によって乱される公共の秩序と言えば、まぁ常識的に考えて交通秩序のことだ。車が通れなくなって困るじゃないかと云うこと。だが国会前に行ったことの有る人なら判る様に、あそこは国会が開かれる前後は例外として、通常は殆ど無人地帯で、車も殆ど通らない。

 08/30(日)の場合は、安倍支持派が盛んに「誰も居ない議事堂に向かって叫ぶのか」と冷やかしてくれていたが、彼等の御丁寧な御指摘の通り、あの日国会は開かれていない。議事堂には誰も居なかったのだ。まぁ設備等の維持管理の担当者や、警備や清掃担当者は居たかも知れないが、居たとしても問題となるのは出入りする極く一部の時間帯だけで、デモの時間帯と被っていたとは常識的に考え難い(普通日曜の昼下がりにシフト交替とかする?)。要するに、国会前の車道を占拠して困る人なんて殆ど居なかっただろうと推測出来る(まぁ物好きな観光客とかが居ないとも限らないので「殆ど」と留保条件を付けておく)。

 09/14(月)の場合は多少事情が異なる。車道に車は存在しいてた。私が各地の実況から確認出来た限りでは、当日走っていた車は3種。1)物々しい機動隊の装甲車。2)右翼の街宣車。3)デモの参加者を乗せたタクシーやバス。1)と3)についてはデモの関係車両なので除外して良いだろう。問題は2)だ。常識的に考えれば、右翼はデモに対する嫌がらせをする為に走っていたと考えるのが妥当だけれども、まぁこの日は何故か何時も走っている靖国通り界隈から気分を変えて、特に理由は無いのだけれども違う道を通ってみようかと云う気にふとなったのかも知れない。その場合、デモの批判者達が守るべき「公共の秩序」とは、具体的には右翼の街宣車が走る自由と云うことになる。それで良いのか? ………まぁ、右翼にだって表現の自由は有る。だとすれば後は権利と安全のトレードオフだ。あの場合、鉄柵封鎖を続けていれば、狭い場所に無理矢理押し込められたデモ参加者は転倒等の危険な状況に陥る可能性が有った。とすれば、数台の右翼の街宣車が周回する自由と、4万人が怪我をする危険性を天秤に掛けなければならない。無論私なぞに判断する権限が与えられている訳ではないが、この場合どちらを優先すべきかと問われれば、そう悩む必要の有る問題とも思えない。道義的にもそう複雑な問題ではないし、実際問題として4万人を実力で押し止めておくより、僅か数台の街宣車に少し回り道でもしてくれないかとお願いをする方がずっと簡単だ。



 無論、この程度の理屈は警察だって理解していない訳ではない。寧ろ、自分達が危ない橋を渡っていることは、彼等自身が重々承知していることだろう。09/14(月)のデモで出た逮捕者はたった1名。60代の女性が40代の機動隊員と揉めたとか云う、悪い冗談なのか何なのか良く解らないトラブルが有っただけだ。若し鉄柵突破が、デモを非難する人達が主張している様に本当に重大な法律違反なのだとしたら、警察には4万人を逮捕する責務が発生する筈だ。可成りの数の機動隊員も駆り出されていたので、現行犯逮捕なんてそこら中でやり放題だっただろう。まぁ現実的に4万人は難しくても、「主催者、指導者又は煽動者は、これを一年以下の懲役若しくは禁錮又は三十万円以下の罰金に処する。」とちゃーんと条文に書いてあるのだから、主催者達や、最初に鉄柵を破った人達に対しては逮捕状が出ていないとおかしい。それをしていないと云うことは、それが法的にヤバいことだと警察も自覚しているからだ。どうもその辺の単純な事実に想像力が及んでいない人が多くて実に辟易するのだけれども、はっきり言ってこの手の不毛な非難の応酬はさっさと終わらせてしまいたい。

 ここまで書いてもまだ理解してくれない人も居るかも知れないので念押ししておこう。国会前デモに対する警察の鉄柵封鎖は、その危険度に比して法的な根拠が極めて乏しく、合理的な理由も怪しい。ならばこれが一体誰の権限で、どの様な判断で、何を根拠にして行われたのか、市民には追及する義務が有る。



 暴力装置がその実力を行使する際、その運用が適切なものであるか監視するのは、市民としての当然の責務だ。それを単に「警察がやっていることだから従わなきゃダメだ」などと憤るのは、ひたすらお上の権威を有難がることしか知らない思考停止に過ぎない。盲目的な権威主義は、ファシズムへの近道だ。そして権力に盲従するのは、平和ボケした無責任漢のやることだ。安保法案反対のデモが気に食わないなら、安保法案賛成のデモでも何でもやれば宜しい。安保法案反対デモの支持者の多くは文句なんか言わないだろう。過去のヘイトデモ等の数々の実績を見る限り、警察は寧ろ弾圧するより守ろうとするかも知れない。仮にそんなことになった時、その非対称的な対応を見て何も感じないのであれば、その人は民主主義社会なんか、本当は嫌いなのだろうと言うしか無い。
プロフィール

川流桃桜

Author:川流桃桜
怪奇幻想サイト『k-m industry 〜黒森牧夫の幻視風景』編集者。

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